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砂は水の夢を見る

閑話 お姫様とフルルと不思議の森

作者: 遠部右喬

「穏やかで良い国だね。なんだか、少し懐かしい感じがする」

 受肉し、少年の姿で歩き回るクウガが、こっそりと呟いた。研修中のクウガとフウガは、ある国を訪れていた。

〈そうだな。迷子の魂の気配も全然ないぞ。綺麗なもんだ〉

 クウガの内で、フウガがのんびりと答える。

「結構大きな街だけど、案外幽霊って居ないもんだね。幽霊屋敷の噂も、結局子供の悪戯だったし」

〈ああ。小鳥達も、別に幽霊の噂話なんて知らないみたいだったしな〉

 街外れの古めかしい屋敷に幽霊が出るという噂を聞き、早速調査に向かった彼等を出迎えたのは、小鳥の囀りと、床に積もった埃と幾つかの玩具や落書き、そして沢山の子供の足跡だけだった。

〈あの建物、あのままでいいのか? 子供って、ああいう隠れ家みたいなところ好きだろ? またちび達が入り込んで悪戯しそうだ。鳥やら花やら、新しいのからずいぶん古いのまで、壁どころか、床にまで目一杯落書きしてあったぞ〉

「しっかりしてても、古い建物だし危ないかもね。でも、生者の生活に深入りは出来ないし……一応、報告書に注意案件として記載しておこう」

〈あの庭、他の処より少し大神様の力が濃かったな。もしかしたら、子供を招き寄せる精霊でも生まれるのかもしれないぞ〉

「建物内の落書きも中々味があったし、チョウキ様が大喜びで見に来たがるかもね。さて、街の中心に戻ってみて、何も無ければ森に行ってみよう。見どころも教えて頂いたことだしね」

〈マイアも、一緒に来られたら良かったのにな〉

「うん。残念だけど、ここの処お忙しいみたいだものね」

 穏やかで気候も良く、広い国土の大半を森林に覆われたこの国は、彼等にとって所縁のある国と言えた。砂漠育ちの彼等が生まれた国、という事では無い。彼等にとって大事な友神の故郷とも言える国、という事だ。だからだろうか、何の変哲もない石畳にも親しみが感じられ、クウガは足取りも軽く市街地を目指す。

〈なあ、トウザノケイヒっていうのを預かったんだろ?〉

「ふふふ、大金じゃないけど、肉を食べられる位は、ね」

〈いや、クウガの食べたい物を食べよう。新鮮な野菜とか果物とか、そうだ、甘味とかもいいんじゃないか? 街には色々あるだろう? 酒……は、駄目だぞ〉

 犬だったフウガは、五感が残っている事もあり、神様候補となった今でも肉が好物だ。いつもなら喜んで尻尾を振る――今は見えないが――処だが、何故か肉に難色を示す。

〈ニンゲンは、肉ばかり食べてたら身体に良くないんだろ? 今のクウガは肉体があるんだから、ちゃんとした食事をした方が良い。クウガの具合が悪くなったら嫌だからな。もう、あんな思いはしたくない〉

 フウガの声は真剣そのものだった。彼等の育った土地とは全く違う、それでいて、どこか懐かしさを感じる街で、まだ生きていた頃を思い出したのだろう。

「そっか。じゃあ、色々食べてみようか。勿論、肉もね」

 街中に戻った彼等は、あちこちの屋台を覗き、沢山の野菜の煮込みを挟んだ麺麭、小粒で甘酸っぱい香りの果物を沈めたお茶と、香ばしい匂いの肉の串焼きを一本買った。

「何処で食べようかな」

 呟くクウガに、串焼き屋の親父が愛想良く声を掛けた。

「坊主、珍しい服装だが、旅行者か? この国は初めてかい?」

「はい。後見人のおじさんの仕事の手伝いで来たんですけど、治安も良いし、綺麗で素敵な国ですね」

「嬉しいこと言ってくれるねぇ。よし、おじさん孝行の感心な坊主に、俺のとっておきの場所を教えてやる。この道を真っ直ぐ行って、左側の一本目の脇道に入ってみな。落ち着いて飯を食うのに丁度いい処に出る。そのまま道なりに行きゃあ、城前の大通りに出るから迷子にゃならん。安心しな」

「さっそく行ってみます」

「おう。仕事頑張れよ」

 店主に礼を言い、クウガは屋台を離れた。

〈後見人のおじさんか。嘘は言ってないよな〉

「子供一人で仕事してます、って設定だと、やっぱり無理があるんだよね。はあ、今度から街で仕事がある時は、フウガに人間になって貰おうかな」

 クウガは溜息を吐く。

〈俺は構わないけど、ニンゲンの事はクウガの方が詳しいだろ。まあ、今度の事は今度考えればいいさ〉

 やがて、彼等は小さな噴水のある公園に出た。水が豊かなこの国では、街のあちこちに噴水や水道設備が設えてある。樹木が程好く陽を遮り、据えられた長椅子に地元の住人達は腰かけ、穏やかな水音や葉擦れを楽しんでいた。吹き抜ける爽やかな風が、母親に抱かれた赤ん坊の髪を優しく揺らしている。

 公園は、串焼き屋の店主の言った通り、落ち着いて食事するのにうってつけの場所だった。

 クウガは、噴水から少し離れた椅子に腰かけ、煮込みを挟んだ麺麭を頬張った。

「食べたこと無い野菜ばっかりだけど、凄く美味しい! お茶も、甘くてさっぱりしてて、良い匂いだ」

〈これは、肉にも期待出来るぞ〉

 クウガが、嬉しそうなフウガの為に肉を齧る。

「うん、美味しい! 香ばしくて、ちゃんと歯応えもあるのに固すぎない。これ、何の甘さだろう? 塩気と合わさって、俺、これ凄く好きかも!」

〈やるな、あの親父。脂も落とし過ぎてないから、肉の旨味がちゃんとあるぞ。なあクウガ、これ、後でもう一本買ってくれ〉

 食事に満足したクウガとフウガが顔を上げると、噴水を挟んだ所の椅子の辺りが賑わっていた。クウガ達が食事に夢中になっている間に、人形劇の小さな舞台が組み立てられ、売り子から買った菓子を手にした子供が数人、劇が始まるのを待っていた。

〈なんだ、あれ?〉

「そうか、フウガは人形劇、初めてだもんね。観ていく?」

〈いいのか?〉

 人形遣いとクウガの目が合う。人形遣いはにっこりと笑った。

「さあさあ、お待たせ、子供達。人形劇が始まるよ。今日の演目は『お姫様とフルルと不思議の森』だ。

 昔むかーし、百年よりももっと昔、この国には、それは美しいお姫様が居たのさ。ある日、お姫様は森で迷子になってしまい、恐ろしいお化けに出会ったんだ」

 人形劇は、恐ろしい森に迷い込んでしまったお姫様が、小鳥のフルルの手助けを得て、お城に帰るまでの冒険譚だった。優しいお姫様と勇敢な小鳥の冒険に、子供達はすっかり見入っている。

「……無事、森から脱出したお姫様の手には、綺麗な鳥の羽が一枚握られていました。それはお姫様との友情の証に、フルルが託したものだったのです。それからしばらく後、お姫様は遠くの国にお嫁に行くことになりました。その時の花嫁衣装の胸元には、フルルの羽が縫い付けられていたのです。お終い」

 子供達の大きな拍手で、人形劇は終わった。

 舞台を片付けている様子を何となく眺めているクウガに、人形遣いの男が話しかけて来た。

「坊やはよその国から来たのかい? 人形劇は楽しんでくれたかな?」

「はい、不思議なお話で、人形も可愛くて、楽しかったです」

「それは良かった。あれは、この国に古くから伝わるお話なんだよ」

 フウガは、初めて観る人形劇を気に入った様だった。

〈面白かったぞ。なあ、あれって本当の話なのかな?〉

「えっと、さっきのお話って、本当にあったことなんですか?」

 人形遣いは、手際良く片づけをしながら頷いた。

「昔、あちこちの国が戦争してた頃の話でね、この国を戦火から守る為に、遠くに嫁いだ姫君が居たんだ。その姫君は、フルルって名の小鳥を飼っていたらしい。

 ところで、この話は、もう一つ伝わる別の物語もあるんだ」

「別の物語?」

 人形遣いは微笑み、語り出した。



 深い森の中、姫は困り果てていた。

(痛っ、これ、怪我よね……生まれて初めて怪我したわ。これ位で済んで、幸いでしたけれど……)

 姫は、たった今転がり落ちた長い坂道――というより殆ど崖――を見上げ、その高さにぞっとした。遠く離れた国にまで美貌で知られている姫だが、豊かで美しい金色の髪も、雪の様に白い顔も手足も、纏った素晴らしい衣装も、今はドロドロに汚れていた。姫は、隣に転がる拉げた鳥籠を手繰り寄せ、あちこちから感じる鈍い痛みに美しい顔を顰めた。以前、父王の言っていた言葉が脳裏を過ぎる。

「あの地は、奥に行くほど樹々で暗く、毒蛇や危険な獣が生息している。点在する沼は、毒素を昇らせる所もある。最奥まで調査するには割があわぬ。だからこそ国防の一翼となる。あの森のお陰で、見張りの兵の数を最低限に出来るのだ」

 頭上から、姫を呼ぶ侍女の声が聞こえる。姫はありったけの声で返事をしたが、返って来たのは侍女の声では無く、鎧を纏った何人かが慌ただしく駆け回る、ガチャガチャという音だった。森の入り口に待たせた兵達が、姫の捜索を始めたのだろう。

 道を知らない森の中で歩き回ることが、どれだけ危険なことかは、姫にも分かっていた。自分に出来ることは、不安に耐え、大人しく助けを待つ事だけだろうということも。それでも、薄暗い森の中で何もせず座り込んでいるのは心細く、不安が膨らむ。風が獣の唸りに思え、落ち葉が音を立てる度、叫びを飲み込む。

 姫が空の鳥籠を抱きしめ、愛らしい小鳥の姿を思い浮かべた、その時。

 チチチチ、ピュイッ

 様々な音の中に混じる小さな羽ばたきと鳴き声を、姫の耳ははっきりと捉えた。

「フルル? フルルなの?」

 姫は誘われるように立ち上がった。姫が一歩踏み出すとあっちからチチチ、また踏み出すとこっちからピュイ、ピュイッ。そうして一歩、また一歩。やがて姫の姿は、森に呑み込まれた。

 どれ程彷徨ったか、姫の目の前が突如拓けた。薄暗い森の中に慣れた目は突然の光に眩み、たまらず目を細める。少しづつ、ゆっくりと開けた姫の目に、鮮やかな緑の樹々と、色とりどりの野の花が映し出された。清涼な風が頬を撫で、優しい花の香りが鼻腔をくすぐる。そして、それらに囲まれた、陽光を煌めかせる湖。

「綺麗……」

「お姫様、大丈夫?」

 姫は飛び上がって驚いた。いつの間にか隣に少女が現れ、黒目がちの大きな瞳で姫を見上げていたのだ。少女は可愛らしく小首をかしげた。

「ねえ、お顔も手も泥だらけだよ。洗った方が良いよ」

 姫は己の出で立ちに赤面し、鳥籠をそっと地面に置くと、湖で顔や手を清めた。水はひんやりとして、空の青と緑を映し、吸い込まるような錯覚に陥る。ぼんやり湖面を見詰めていると、水面の姫の隣に、少女が並んだ。

 姫は、水面に映る少女に問いかけた。

「貴女はここで暮らして居るの? お父様やお母様は、どちらにいらっしゃるの?」

 不思議そうに空の鳥籠を眺めながら、少女は姫に問い返した。

「ねえ、お姫様は、どうしてここに来たの? 森の奥まで人が来るのは、とっても珍しいんだよ」

 姫は問われるまま、小鳥を森に放しに来た事を少女に聞かせた。

 少女は姫を見詰めた。

「どうしてフルルを放さなきゃいけないの?」

「それ、は」

 姫は動揺した。そして、何故自分が動揺したのか分からず、黙り込んだでしまった。少女は訊ね続けた。

「フルルはずっとお姫様の傍に居たんでしょう? 怪我が治っても、一緒に居たいって思ってるからじゃないの? お姫様は違うの? 友達じゃないの? それとも、もうフルルのこと要らないの……?」

「そんな訳ないでしょう! わたくしだって、ずっと一緒に居たいわ!」

 姫の大きな声に、少女がびくっと肩をすくめた。姫は慌てて少女の頭を撫でた。


 姫とフルルの出会いは、三月程前の少し蒸し暑い日のことだった。窓を開け放した姫の部屋に、見慣れない一羽の小鳥が迷い込んだ。姫も侍女達も慌てたが、一番慌てていたのはその迷い鳥だったろう。散々部屋を飛び回り、壁にぶつかると、ふかふかの絨毯の上に落ちて動かなくなってしまった。

 姫は恐る恐る鳥を覗き込み、侍女が止めるのも聞かず、手づから鳥を拾い上げた。その鳥に息がある事が分かると、窓の側の卓に柔らかな布を布き、そこに鳥をそっと寝かせた。鳥は直ぐに意識を取り戻したが、窓から逃げることなく蹲ったままだった。姫は侍女に医者を呼びに行かせた。

「儂は人間の医者ですから鳥には詳しくありませんが、翼を傷めているのかもしれません。ですが、骨折などはしていない様に見えます。暫く翼を布などで固定して安静にしていれば、また飛べるようになるのではないでしょうか」

 学者にも訊ねてみたが、小鳥について詳しいことは分らずじまいだった。国の南側に広がる森の奥深くに生息しているがのは確かだが、森は危険も多く、警戒心が強い、滅多に森を出てこない小鳥を研究する機会がないのだ。まだ若鳥の為、他の鳥に縄張りを追われたか、好奇心で森を飛び出してしまったのだろうと推測するのが精一杯だった。

 姫は鳥にフルルと名付け、手ずから看病した。フルルは臆病で、他の人間には気を許さなかったが、姫にはよく懐いた。時には姫の手に乗って、差し出された果実や木の実を小さな嘴で啄んだりもした。やがて、羽ばたけるまでに回復したが、フルルは姫の傍らに残り続けた。

 侍女の一人が、青ざめた顔で姫に言った。

「あの森には、お化けが出るという噂を聞きました。もしかしたら、フルルはお化けに追われたのではないでしょうか」

 姫は、侍女を宥めるように微笑んだ。

「なら、わたくしが責任もって保護しなければいけないわね。王族として、この国に暮らす全ての者を守る義務があるのだから。たとえ、お化けが相手だとしてもね」

 ある日、姫とその姉姫と次期国王の兄は、王に召致された。父としてではなく、一国を統べる統治者としての正式な召し出しに、姫と姉姫は全てを悟った。

(わたくし達の嫁ぎ先が決まったのですね)

 広大な国土、緑溢れる豊かな土壌、安定した気候、無尽蔵に思える美しい湧き水――魅力的なこの国との交流を望む国家はごまんとある。そして、交流では飽き足らず、軍事力をちらつかせ、この国を喰らい尽くそうと舌なめずりしている国も。

 王は、最も近く最も堅牢な国に姉姫を、最も遠く最も猛々しい国に妹姫を嫁がせることを決めた。姫達も異論は無く、程無く、輿入れの準備が始まった。

(王族の娘として生まれた身、いずれ他国に嫁ぐ日が来るのは分かっていました。これまで何不自由なく暮らせた恩を、国に返しましょう。でも、それは侍女達には関係のない事。彼女達に、退職金とこれからの仕事を世話しなければ。それに、フルルも。あの子を、仲間が一羽も居ない、こことは全く違う気候の国に連れて行く訳にはいかないわ……)

 王は、自らの手でフルルを森に放したいという姫の願いを、警備兵を同行すること、森の奥には決して足を踏み入れないことを条件に許した。

 明くる日、姫は数名の兵と一人の侍女を連れ、森に向かった。森の入り口に到着すると、姫は、此処から先は独りで行かせて欲しいと兵達に頼んだ。兵長は難色を示したが、日頃聞き分けの良い姫には珍しい我儘に、せめて侍女を付き添わせ、自分達が見える範囲までならと、首を縦に振った。

 鳥籠を手に、姫は侍女と森に踏み入った。侍女が、「これ以上はいけません」と止めるまで、姫は進み続けた。そして、鳥籠の扉を開け、フルルを指に止まらせた。鳥籠から出されたフルルは、きょろきょろと辺りを見回し、姫を一度振り返り、姫の指から飛び立った。姫は思わず、フルルの飛んだ方へと一歩を踏み出した。その足元に地面が無いのと、侍女の悲鳴を同時に感じた姫の視界は、ぐるぐると回ることになった――。


「……わたくしは、もうすぐ遠くに行かなければいけないの。フルルは繊細だから、この国の気候でなければ、生きていけないかもしれない。城の庭師や他の者に託せば良いのかもしれないけれど、元々森で生きていた子で人慣れしていないし、鳥籠の中は安全かもしれないけど、それがフルルにとって良いこととは限らないわ。

 無責任、かもしれないわね。でも、フルルには、この国で仲間と共に生きて、家族を作って、自由に暮らして欲しいの……例え辛い目に遭っても、自分の空を飛んでいて欲しいのよ……」

 姫の顔を覗き込む少女の瞳に、泣き出しそうな自分の顔が映っている。

 生きるという事は、必ず何らかの制約を受けるものだ。誰かを生かす為に己が犠牲になることも、その逆もある。天から与えられた役割もあれば、「姫」の様に社会的に与えられた役割もある。自由な生き方とは、夢に過ぎない。誰もが、いや、全ての生き物が、それぞれの役を担っている。それが誤っていると考えたことは無い。少女に問われるまで、疑問を抱いたことすらなかった。

 だが、姫は、己の心の奥を垣間見てしまった。

 自分の一挙手一投足に、誰かの生活がかかっている日常。言葉を交わす事すらない民達を、守らなければいけない重圧。故郷を離れ、顔を合わせたことも無い相手と添う人生。

(もう、ずっと前から、逃げ出したいと思っていたのだわ……そして、それをフルルに託した)

 姫は、少女の瞳から逃れるように、顔を湖面に向けた。

(いえ、託したのではないわ。自己満足に理由を付けて、押し付けたのよ。わたくしの身代わりに、わたくしとは違う生き方をして貰う為に)

 少女が、心配そうな顔で姫の手を握った。その温もりに、姫の瞳に涙が盛り上がる。

「どうして泣いてるの? お腹減った? 怪我が痛いの?」

 姫が首を振ると、湖面に零れ落ちた涙が波紋を作る。少女は、小さな手で姫の頭を撫でた。

「お姫様、泣かないで。もう聞かないから。ごめんなさい、ごめんなさい」

 少女は謝りつづける。姫は少女をそっと抱きしめた。

「貴女は何も悪くないわ。自分の狡さが嫌になっただけよ」

 そして、姫は自分の正直な気持ちを少女に告白した。

 聞き終えた少女は、機嫌良く姫に言った。

「お城に帰りたくないってこと? なら、ここで一緒に暮らそう? 私、色んなこと教えてあげる! 美味しい実が生る樹とか、寝心地の良い所とか、全部お姫様に分けてあげる。仲間達は、人は怖いって言うかもしれないけど、私が一緒にお願いすれば、屹度大丈夫だよ。お城の兵隊さんだって此処までは来られないよ」

 姫は少女の提案に驚き、それから静かに、「それは出来ないわ」と首を振った。

 少女は不満気な声で訊ねた。

「どうして? お城に帰ったら、遠くに行っちゃうんでしょう? そうしたらもう、フルルには会えないんでしょう?」

 しばしの沈黙の後、姫はきっぱりとした声で言った。

「この国を愛しく思っているからよ。子供の頃から暮らした国を、フルルを育んだ森を、守りたいと思っているからよ」

「よくわからないよ」

 姫は、顔を曇らせた少女を抱きしめる手に力を込めた。

「この国の周辺では、もうずっと争いが続いているわ。我が国は、今は何とか戦を逃れているけれど、いつまで逃れて居られるかわからない。そうなったら、この森も無傷ではいられないかもしれない。人は愚かで弱いの。誰かが、いえ、皆が努力しなければ、争いは決して無くならないわ。折角、手にしたその機会を放棄するなんて考えられない。

 だから、フルル、貴女とお別れしなければいけないの」

 少女は驚いて姫を見上げた。

「どうして、私がフルルだって判ったの?」

 姫は、抱きしめた少女の髪の匂いを嗅いだ。

「貴女の温かさと匂いを、判らない筈がないでしょう? それに、貴女は最初から小鳥を『フルル』と呼んだわ。わたくしが、名前を教える前からよ」

 姫は微笑み、フルルの頭を撫でた。フルルは姫の胸に顔を埋め、泣き出した。

「お姫様、フルルを置いて行かないで。お姫様を追い出す人間なんて、やっぱり嫌い! フルルの方が、お姫様の事好きだよ! だから、ここに居て」

 姫はフルルの頭を優しく撫で続けた。

 どれ位そうしていただろうか、姫は、少し落ち着いてきたフルルの頬を両手でそっと挟み、黒目がちの大きな瞳を覗き込んだ。

「貴女の仲間は、人に慣れていないでしょう? それではどのみち、わたくしと一緒に居ることで、貴女は独りぼっちになってしまうかもしれない。

 貴女が初めて呼びかけに返事をしてくれた時、とても嬉しかったわ。怖がりな筈の貴女が手に乗ってくれた時の温かさ、決して忘れないでしょう。辛い時は、貴女の囀りを思い出して、きっと心を奮い立たせることが出来るわ。

 大好きよ、フルル。会えなくなっても、貴女はたった一人の大切なお友達よ。だから、貴女と貴女の棲む森をわたくしに守らせて頂戴。そして、フルルはこの森で、沢山のお友達や家族を作るの。そうしたら、いつかわたくし達の子孫が、お友達になれるかもしれないでしょう?」

「でも寂しいよ。やっぱり、お姫様と一緒に居たいよ」

 フルルの瞳に、再び涙が盛り上がる。姫はそれを指で拭った。

「何処か違う場所かもしれない、姿も変わっているかもしれない、何時になるかも分らないけれど、必ずまた会えるわ。貴女を探し出して見せるって約束する。フルル、貴女も約束してくれる? わたくしがどんな姿になっていても、またお友達になってくれるかしら?」

 フルルは暫く鼻を啜り、やがて小さく頷いた。

「なる。フルルの一番の友達もお姫様だから」

 姫とフルルは固く抱き合った。暫くそうしていたが、やがて姫はフルルから身体を離し、立ち上がった。

「さあ、もう行きます。でも困ったわ、帰り道が分からないわ」

「フルルが連れてってあげる。フルルの手を握って、目を瞑ってて。『いいよ』って言うまで、絶対に目を開けないでね」

 言われた通り、姫はフルルと手を繋ぎ、目を瞑り歩き出した。僅か数歩でフルルの「いいよ」と言う声が聞こえ、姫は目を開けた。視界が酷く歪み、眩暈がする。堪らず、姫は再び目を瞑った。

「フルルの事忘れないように、これ、あげる」

 フルルの声が、遠くに聞こえた。


 姫が目を覚ますと、まず涙を流す侍女が、次に、姫に応急処置を施す兵士達が目に入った。兵長が、姫は木の枝に強かに頭を打ち付け、暫し気を失っていたのだと説明した。姫はゆっくりと起きあがり、周囲を見回したが、何処にも崖は見当たらなかった。兵長に崖について訊ねても、「ここは高台ではないですから、崖はございませんが」と、怪訝な顔をされただけだった。

(夢? いいえ、あれは現実。わたくしは、間違いなく湖の畔でフルルと会った。だって……)

 姫が己の手に目を遣ると、小鳥の羽が一枚握られていた。

 城に帰った姫は、早速父王に謁見を願い、自分の怪我について、兵達や侍女に咎は無いと訴えた。元はと言えば己が我儘を言ったのであり、彼等の立場で断れる訳がないのだ、と。

 そして、姫は思いもよらぬことを言い出した。

「お父様、いえ、王様は、森に棲む怪物の噂をご存知でしょうか?」

「何のことだ?」

 王は首を捻った。

「以前、そういった噂を耳にしたのです。ですが、それは噂ではありませんでした。森の奥には、恐ろしい怪物が棲んでいたのです。怪物は、森に立ち入られることを好まず、立ち入った者の魂を食べてやる、と申しておりました」

 姫の魂も攫われかけたが、怪物と取引をして難を逃れた。それも、侍女が直ぐに兵を呼び、強そうな兵士達のお陰で直ぐに帰ることが出来たのだから、それに免じて彼等を叱るのは止めて欲しい、幸い、大きな怪我は無かったのだからと、切々と訴えた。

 王は誰にも罰を与えないことを約束し、話の続きを姫に促した。

「取引、とは?」

「森を損ねない事。怪物は、己の住処に立ち入られることを、とても不快に思っています。奥地に踏み入られることはおろか、小石一つ持ち出されることも許さないでしょう」

 姫は父王に深く頭を垂れた。

「あの森は、王の仰る通り、国防の一翼になる程に危険です。迂闊に立ち入れば、この国に恐ろしい災いが起きるかもしれません。

 この国を愛する一人として、そしてお父様の娘として、最後のお願いでございます。森を損ねることなく、共に在り続けて下さい。そうすれば、屹度怪物はこの国を守ってくれるでしょう」

 王は無言で姫を見詰め、暫くして頷いた。

「それがそなたの望みなら、約束しよう。今後、何人(なんぴと)も森に立ち入る事を許さぬ。あの小鳥の故郷を荒らすことは、決してしないと誓う」

 父王には、姫の本当の望みが分かっていたのだ。



 舞台を片付け終えた人形遣いは、人形を仕舞った木箱に腰を下ろした。

「……姫君が森で怪我したっていう記述が、城の日誌や兵長の日記に残されてるんだ。王様との会話も、議事録に残されている。勿論、森の中での出来事は、そういったことを踏まえた後世の創作だろうけどね」

〈オヒメサマ、フルルと別れて寂しくなかったのかな〉

 姫と小鳥に、自分とクウガを重ねたのだろう。フウガが気がかりそうに呟いた。

「あの、お姫様のその後って、どうなったんですか? フルルとは二度と会えなかったんでしょうか?」

 人形遣いは頷いた。

「姫君がこの国に帰って来ることは無かった。隣国に嫁いだ姉姫と違って、遠くの国へ嫁いだからね。

 姫君の嫁ぎ先は、武力に定評のある国だったんだ。でも、姫君を娶って直ぐに王になった王子様は、戦に加担する事無く、周囲の国と和平を結ぶことに尽力した。二人は仲睦まじく、子供も沢山出来たし、姫君は結構幸せだったんじゃないかな。王子様を上手いこと掌で転がしたりしてさ。僕はそう信じたいね」

「じゃあ、今でも、森には誰も立ち入らないんですね」

「そもそもが危険が多い森だし、誰も立ち入ってはいけない、ってことにはなってるね」

「え? まさか、入れるんですか?」

 クウガが首を傾げた。

「王様は、姫君が嫁いで直ぐに森に兵を送り込んだ。姫君に知らせが届くことは無かったけれど」

〈オウサマ、嘘ついたのか……〉

 残念そうなのはフウガだけでは無かった。クウガのがっかりした表情に、人形遣いが慌てて続きを話した。

「王様は、姫との約束を反故にしたかった訳でも、お化けを信じた訳でもなかった。公式な場で怪物が生息しているかもしれないと証言された以上、調査せざるを得ない、という建前で、森の状態を把握することにしたんだよ」

 森は広く危険だったが、当然のこと、怪物の痕跡が見つかることはなかった。それまで通りの「危険な森」以上でも以下でもなかった。

「王様は、娘の願いを叶えたかった。誰も必要以上に森に立ち入らない様、管理することにしたのさ。森の浅くは、定期的に専門家の調査が入るようになった。人が入っていい場所を見極める為にね。勿論、それまで通り見張りの兵も駐在してる。ただし、王様の後を継いだ兄王子は勿論のこと、今でもずっと、最奥は立ち入り禁止のままさ。湖が存在するかは、それこそ空でも飛ばない限り誰にも判らない。それに、実際、不思議な事件が起きたこともあったみたいだし」

 姫君のお話が昔話と呼ばれるようになった頃、森で不可解な火事が起きた、という郷土史の記述が見つかったのだ。

 通報を受けた消火隊が現場に到着した時には、火どころか煙一筋見当たらなかった。見張りの兵士や村人の証言もあったが、その後の調査でも、火事の形跡などどこにも見つからなかった。結局、珍しい大風で運ばれた森の毒素で、集団で幻覚を見たのだろうと、郷土史は結ばれていた。

「何も知らない旅行者が迷い込む事も稀にあるけど、直ぐに入り口近くで保護される。ただ、幻覚作用のある毒素に当てられて、錯乱してることもあるんだ。だからこの話は、子供達が危ない場所に立ち入らないようにする為に創られた話なんじゃないかなって、僕は思ってる。坊やも森に近付いたらいけないよ」

 人形遣いは、城前の大通りに続く道を指差した。

「大通りの噴水広場には、もう行ったかい? 大噴水の真ん中に像が二体建ってるんだけど、姉姫と妹姫が嫁ぐ際に二人を模して彫られた物なんだ。劇を気に入ってくれたみたいだし、記念に見て行ったらどうだい?」


 城前の大通りの中央広場に着いたクウガを、大きな噴水から舞う水飛沫が出迎えた。人形遣いの言葉通り、噴水の真ん中には、白く固い石を丁寧に彫り上げた女性像が二体据えられ、水面から反射した光で煌めいている。大切に扱われているのだろう、像には苔一つ付いていなかった。

 水飛沫に手を伸ばす優美な女性像の一体、肩に小鳥を止まらせた像に、クウガとフウガの目が留まる。緩くうねる豊かな髪、小さく端正な顔、瞳に埋め込まれた緑色の石……その姿は、何処となくクウガとフウガの知る女神の面影を思わせた。

〈なあ、あの像、何となくマイアに似てないか?〉

 フウガの言葉に、クウガは小声で答えた。

「フウガもそう思う?」

 少し考え込んだクウガは、小さく頷いた。

「もしかしたらだけど、やっぱりあの話、本当にあった事なのかもしれないよ」

〈あの話って、オヒメサマとフルルの話か?〉

「マイア様は、元は水の精霊だろう? 生まれた時からあの姿だって仰ってたから、不思議だなって思ってたんだ。人間を見たことは無かった筈なのに」

 フウガが同意した。

〈確かに、精霊は不定形の奴も多いもんな〉

「フルルに導かれたお姫様の魂は、湖に辿り着いた。そして、湖に落ちたお姫様の涙――魂の欠片が、マイア様の源になったんじゃないかな」

 姫が残した、森を守るという意思は、涙と共に湖に受け継がれた。やがて湖の精気が魂を持ち始める。その魂は、姫が誓ったそのままに、森を愛し守り続けた。

〈でも、どうやって森の中での出来事が伝わったんだろう。オヒメサマは、森に怪物が居るって言っただけだろ? 人形遣いの話は、まるで見てきたみたいに詳しかったぞ。それに、このあたりの地形じゃ、一番高い建物に登っても森の中心は見えない。実際に森に入らない限り、湖があるなんて知りようがないぞ〉

 姫は森の中での出来事を、誰かに伝える事はなかった。興味本位の誰かに荒らされないよう、フルル達の住処が、恐ろしい森のままで居てくれることを願っていた筈だ。

 フウガの尤もな疑問に、クウガは、お姫様以外から話を聞いた誰かが居たのかも、と呟いた。

〈誰が、誰に話したんだ?〉

「『誰に』かは分からないけど、『誰が』の正体は、フルルじゃないかな。フルルは森に帰った後も、街に来ることがあったんだと思う」

 埃に塗れた古屋敷の窓から差し込む光は、色褪せた鳥や花の落書を優しく浮かび上がらせていた。庭から聴こえる様々な小鳥たちの歌声。そして、他よりも濃く漂う大神様の気配。大神様の力が強い場では、不思議な事が起きることがある。生者が引き寄せられたり、精霊が生まれたり……本来なら理解出来る筈の無い、他の生き物の言葉が解ったり。

 寂しさを募らせたフルルが、姫の気配を求め、城の近くを訪ねることがあったのかもしれない。

 人が苦手だったから、街外れの誰も居ない古屋敷の庭で、姫との思い出を歌ったのかもしれない。

 屋敷に忍び込んだ子供達の中には、小鳥の歌を言葉として捉えられる子が混じっていたかもしれない。

 その子は、聞こえてきた不思議な物語を、友人や自分の弟妹に語り聞かせたのかもしれない。

 フウガが呟いた。

〈オヒメサマとフルルの魂、ちゃんと会えたかな〉

「気になるなら、神界で調べてみる?」

 クウガの提案に、フウガは笑って答えた。

〈いや、いい。会えたに決まってる〉

 いつの間にか、大分陽が傾いていた。噴水がきらきらと、クウガの顔にその日最後の光を反射する。

〈さて、もう一仕事するか〉

「うん。森の中は、フウガにお願いしていい?」

 家路を急ぐ人々の間を抜け、人気のない街外れまでやって来た少年は、大きな黒犬に姿を変えた。

「よし、行こう」

 黒犬は、楽しそうに森へと走り出した。

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