第6話 ふたりきりの夜
私とアルフレートが身を隠すべルテ侯爵家の別邸は、王都から早馬で一日ほどかかる距離にある。べルテ侯爵領の片隅にあるこの屋敷は、限られた者しか知らない隠れ家のような場所だった。まさに、身を隠すにはうってつけだ。
周りに広大な自然が広がるこの長閑な場所を、私はとても気に入っていた。状況が状況でなければ、周囲を散策してみたいくらい魅力的な場所だ。
屋敷には小さな礼拝堂が付属していて、細い連絡通路を使えば外を通らずに移動することができる。その場所で、無言で指を組んで祈りを捧げるのがこのところの私の日課だった。
……レアとお義兄さまが、一日も早く戻ってきますように。
本当ならば祈りの歌を歌いたいところだったが、お義兄さまにきつく言い聞かせられている。『僕が戻るまで、決して歌を歌ってはいけないよ』と。
巡礼の森以外で歌う祈りの歌にどれほどの効果があるのかはわからないが、お義兄さまの忠告は素直に受け取ることにした。だからこうして、無言で祈りを捧げているのだ。
「……そうしていると、絵になるな。聖女の名も伊達じゃない」
礼拝堂に響いた静かな声に、はっと顔をあげる。いつの間にか、入り口付近にアルフレートが立っていた。白で埋め尽くされた礼拝堂の中に、彼の纏う黒の上着はよく映える。黒髪の間から除く金の瞳には、憧憬にも似た不思議な光が宿っていて、あっという間に目を奪われてしまった。
「今は黒いドレスを着ていないから、そう思えるのかもしれないわね」
別邸の中にいる間は、アルフレートたちが用意してくれた数々のドレスを纏っていた。今は、瞳の色に合わせた薄紫のドレスを身につけている。これを用意してくれたのはお義兄さまだ。ふわふわと軽い素材で動きやすいから、とても気に入っていた。
肩のあたりで切りそろえた髪には、ドレスと同じ生地でつくったリボンを結んでいた。髪の短さにはまだ慣れないが、世話をしてくれる侍女がいないこの屋敷で暮らすぶんには都合がいい。
アルフレートは私の前に歩み寄ると、どこか名残惜しそうに私の髪を指で梳いた。その感触がくすぐったくて、軽く首を傾けて彼を見つめる。
「ふふ、アルフレートは髪が長いほうが好きだったみたいね」
「そんなことはないが、ジゼルは大切にしていただろう。長い髪を結い上げたり梳いたりしているお前は楽しそうだった」
……そんなところまで見ていてくれたの。
彼のこういう言葉を聞くと、思っている以上に私は愛されているのかもしれない、なんて自惚れてしまいそうになるから困る。あれこれと考えては、ひとりになった瞬間に彼の言葉を反芻することの繰り返しだ。私は確実に、日々彼に恋をしていた。
「このくらいの長さも、結構気に入っているわ。こうしてリボンで結ぶと可愛いでしょ?」
リボンの端を摘んでみせれば、金の瞳がふわりと和らいだ。ふたりきりのときの彼の瞳は、ひだまりによく似ている。
「何をつけていたってジゼルはジゼルだ」
それだけ告げて、アルフレートは私の腰をそっと引き寄せた。そのまま頭の上に口づけを落とすと、肩を抱くようにして連絡通路の方へ歩き出す。ずいぶん歩きづらいが、彼と一緒ならこの不便さも不思議と楽しく思えるのだから敵わない。
「さりげなく私を礼拝堂から連れ出す気ね」
「聖女さまにかまってもらいたくて死にそうだからな」
「死にそうとまで言われたら、放っておくわけにはいかないわね」
「憐れみ深い聖女さまでよかった」
言葉とともに、額にちゅっとくちづけられる。私もお返しに彼の頬にくちづけた。
くすぐったいような幸せを感じながら、寄りそうようにして屋敷の南側の部屋へ向かう。
たっぷりと日の差し込むこの部屋では、フローラの病の治療薬となる薬草を育てていた。レアに依頼して神殿で育ててもらっているものもあるのだが、余った種でこうして自分たちの手でも栽培を試みているのだ。
「よかった……今日も枯れてないわね」
床にかがみ込みながら、大きな植木鉢を覗き込む。湿った土の表面には、レアの瞳にもよく似た爽やかな新緑の芽が生えていた。三日ほど前に、ようやく芽を出したばかりだ。慈しむように手を翳せば、アルフレートも身をかがめて芽を観察した。
「今のところは順調みたいだな。難しいのはここかららしいが……」
アルフレートは悩ましげな表情で芽生えたばかりの薬草を観察していた。輸入する際に、栽培の仕方もある程度教わったらしい。
水やりの間隔や日の当たり具合など、人の手で育てるには調整するものがあまりにも多い。芽を出すまでにもずいぶん苦労したのだ。無事に薬草として使えるくらいまで成長できたとしても、今のままでは気軽に入手できるような代物にはならないだろう。
それでも、この国で栽培できるかどうか確かめられれば大きな一歩だ。もう記憶の中にしかないフローラの笑顔を思い浮かべながら、明るい未来を思い描く。
「そんなに嬉しいのか? 薬草なんか作らなくたって、王女が死んでくれればお前と王家の因縁はどうにかできるかもしれないのに」
「私がこの薬草を育てたい理由はそれだけじゃないわ。病に苦しむ人を救いたいからという気持ちも確かにあるの。……理想ばかり大きくて、やっていることはとても追いついていないけれど」
私が聖女として立てば、この薬草の研究をもっと大々的に進めることもできるだろうか。そう思うと、執着を覚えていなかった聖女という立場も、途端に魅力的に思えてくる。
「……ジゼルが聖女だろうが魔女だろうがどちらでもいいと言ったが、お前は、聖女になるべきひとなんだな」
ぽつりと、何かが腑に落ちたと言わんばかりの調子でアルフレートは呟く。そんなふうに言われるとなんだか気恥ずかしい。まだ何も成せていない私に告げるには大袈裟な言葉だ。
「アルフレートったら、急にどうしたの」
くすくすと笑いながら彼の顔を覗き込めば、思いのほか真剣な色を帯びた金の瞳と目が合う。
彼の瞳にはいつも不思議な光が宿っていた。目が合うたび、私はその輝きに魅せられている気がする。
「綺麗事にしか思えない言葉も、お前が口にすれば希望になる」
アルフレートは、眩しいものを見るように目を細めた。そのまなざしは確かに私を捉えていて、ますます心が揺らいだ。
「俺も……どうにかして栽培を安定させる方法を探る。今、決心した」
「アルフレート……」
なんて、力強い言葉なのだろう。
……あなたは、私の言葉を希望だと言ってくれるのね。笑わずに、力になろうとしてくれるのね。
思わずアルフレートの手を両手で包み込み、ぎゅっと握り込む。じかに伝わる柔らかな温もりが、決意を揺るぎないものに変えてくれるようだ。
「ありがとう、あなたの協力があれば心強いわ」
ぎゅう、と胸の奥が締め付けられる。感謝の気持ちにも似ているけれど、この感情はそんな単純なものではないと知っていた。アルフレートに教えてもらった大切な感情だ。
アルフレートは私の手を握り返しながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「お礼はくちづけでいいぞ」
「すぐそういうこと言うんだから……」
頬が熱くなるのを感じて視線を逸らせば、くすくすと楽しげに笑う声が降ってくる。
「からかい甲斐のある婚約者殿で何よりだ」
冗談めかして可笑しそうに笑う彼の横顔が、妙に目に焼きついた。
ひだまりの中で破顔するその横顔は、なんの翳りも嫌味もない、子どもの頃の彼にもよく似た笑顔だった。昔から、慕わしく思っているアルフレートの笑顔そのものだ。
……ああ今、とっても好きって思ったわ。
愛しさが募るままに、そっと彼の頬にくちづける。
驚いたように目を見開いた彼と至近距離で目が合う。すうっと時間の流れが遅くなるような間隔のあと、互いに吸い寄せられるように唇を重ねた。
「……大好きよ、アルフレート」
頬を緩めて心からの想いを打ち明ける。アルフレートは酔いしれるように目を細めて、私の頬を指先で撫でた。
「今死んでも後悔はないな」
「……縁起でもないことを言わないでちょうだい」
拗ねるように咎めれば、笑うように震える吐息が唇にかかる。ごく自然なことだとでもいうように、再びふたりの唇が重なった。
思わず閉じてしまった瞼をゆっくりと開けば、彼は鼻先が触れ合う距離でひだまりと同じ色の瞳を細めていた。
「……愛している、ジゼル」
知ってるわ、と言い返す言葉は彼の唇に奪われてしまう。
いつの間にか橙色を帯びた日差しが、ふたりの影を長く伸ばしていた。
どうしてかはわからないけれど、愛しさのままに繋いだ手も唇も離せない。愛しさを帯びたふたりの熱を、互いに手放せなくなっている。
心の奥を見透かすように、金と薄紫の視線を絡め合う。言葉はなくとも、これから何かとても特別で、まだ見たことのない素敵なことが始まろうとしているのだと悟った。
夜の帷が降りていく。慣れ親しんだはずの暗闇に、知らない色が溶けていた。
……アルフレート、私も、あなたが大好き。
言葉にしなくとも、伝わったと確信できる。それくらい、深い触れ合いを重ねた。
この夜だけは確かに、私たちは世界にふたりきりだった。