強行する少年
翌朝、目が覚めると、いつの間にかベッドの中にいた。
おかしいな。いつも通り長イスで寝ていたはずなんだけど、こんなことをしてくれるのは……もちろんローレルしかいない。おそらく熱が出た私を移動させてくれたのだろう。あの細い体のどこからそんな力がでたのだろうか。
「調子はどうだ」
なんとなくぼんやりと天井を眺めていると、ローレルに話しかけられた。ベッドサイドには、やけに深刻そうな顔をした彼が座っていた。
「ああ、ごめん……ご飯を作らなきゃ」
「そんなことは気にしなくていい。……熱がある」
起き上がろうとした私を制して、冷たい手がそっと額に当てられる。
「そのうち良くなるよ」
これは珍しい。もしかして、私、ローレルに心配されてる?
「この家に薬はないのか」
「うーん、ないねぇ……」
おまけにはぐろうとした掛け布をそっと肩まで引き寄せられたものだから、その行動が不可解やら気恥ずかしいやらで、思わず目を白黒させる。
こんな扱いを受けたのは何十年ぶりだろうか。熱で朦朧とした意識がバグったように混乱する。両親と一緒に人間たちに混じって生きていた時間と、思考が交錯する。
いかん、弱っているときに優しくされたらダメだな。それだけで絆されそうになる。
ローレルはそんな私を一瞥すると、「水を飲んだほうがいい」とコップを差し出してきた。
「……ふぅ」
なんとかだるい体を動かして少しずつゆっくりと水を飲み干すと、それを最後まで見守っていたローレルが、やおらに席を立つ。
「少し家を空ける」
それだけ言い残して、ローレルは唐突に部屋を出て行ってしまった。
熱に霞む思考で、ローレルの言葉をさっきからずっと考えていた。
『少し家を空ける』
――本当に? 少しってどれくらい? ……本当は、今のうちに奴隷印を取り返してこの家を出るつもりでは?
今なら私は動けない。魔力も使えそうにない。逃げられたところで追いかける気力もない。
そんなこと、今ここで、こんな状態で考えたところでもうどうしようもないけれど。いくら考えを巡らしたところで、今すぐどうにかできるわけでもないのに。
……もういいや。ローレルがそのつもりなら、それはそれで仕方ない。中途半端に彼を助けて、そのせいで今度はここに縛り付けてしまった自分のせいだ。
まずは休もう。休んで、そして目が覚めたそのときには、すでにローレルが去ってしまったあとだったら。
そのときは私もここをすぐに去って、ここにいたという事実を消し去らないといけない。
うとうととひと眠りして、夕方ごろにふと目が覚める。
覚醒してすぐにちらりとベッドサイドを見る。それから部屋全体を見回して――誰もいない。ローレルは、やっぱり戻ってこなかった。
がっかりする心を押し隠すように、ふらふらと痛む頭を抱えながら起き上がる。ベッドサイドに置かれた水差しから水を注ごうとして、居間のほうからかすかに物音がすることに気づいた。
そっと扉を開け、音を立てないようにおそるおそる足を踏み出す。
居間に足を踏み入れると、ローレルがキッチンでなにやら作業をしていた。キッチンストーブで湯を沸かし、グツグツと煮込んでいる。うん、香りからして食事の類いじゃない。これは、この独特の香りには覚えがある。
「起きたのか」
振り返りざまにそう言われて、ローレルには気配を悟られていたことを知る。近寄ってきた彼は少し遠慮気味に額に手を当ててくると、盛大に顔を顰めた。
「やっぱり。まだ熱が高い」
「一日中留守にしてたと思ったら、今度はなにを……」
「薬草を探しに行っていた」
恐れていた答えとは違っていたが、だからといって安心はできなかった。思わずヒッと息が漏れる。
「殺菌作用のあるこの薬草は、川沿いに群生していることが多いんだ。あの川を上流に向かって遡れば、あるいはと思って。予想が当たってよかった」
むしろ、私的には見つからなくてもよかった。
ズリズリと、一歩二歩後ずさった私に、ローレルがピクリと片眉を上げる。
「熱冷ましの薬草も取ってきている。飲んだら楽になる」
「よく知ってるね、そんなこと……」
さすが、森の狩人と呼ばれるエルフだけのことはある。ローレルは頷いて、振り返って鍋の中を覗いた。
「飲みやすい丸薬にするには時間も手間もかかる。悪いがまずは……」
その隙に背を向けて逃げ出そうとして、だけど失敗した。ローレルが咄嗟に私の手を掴んでいた。
「気持ちはありがたいけど、寝てればすぐに治るんだよ」
「甘く見てはいけない」
それは、宥めるような、言い聞かせるような、今までにないはっきりとした口調だった。
「あんな劣悪な場所でできた傷だろう。悪化して取り返しがつかなくなったらどうする」
「なんで傷があることを……」
「寝ている間に確かめさせてもらった」
「なっ……」
「どおりで様子がおかしいと思ったんだ。あのとき、傷を作ったんだろう?」
「……」
「なぜすぐに教えてくれなかった」
教えたところで、ローレルには関係のないことだ。あるいはだからどうしたと鼻で笑われるのが怖かったのかもしれない。
「頑張って飲めたら、木苺もある」
そう言うローレルの視線の先には、テーブルに置かれたみずみずしい木苺。
その木苺に先に手を伸ばそうとして、スッと遮られる。
「薬が先だ」
真っ直ぐに向けられたリーフグリーンの瞳は、絶対に譲らないという断固とした決意に満ちている。容赦のない声音だった。
掛け布を頭から被り、ベッドの中で丸まって震えていると、扉をノックする音が聞こえて、ややあってローレルが入ってきた。それとともに漂ってくる、なんともいえない青臭い匂い。
ローレルがそばに立つ気配がして、彼に背を向ける。
しばらく彼は私が起き上がるのを待っていたようだったが、やがてため息を一つつくと、サイドテーブルにコトリとコップを置いて、イスに腰かけたようだった。
「薬は苦手か?」
「……ううん、そういうわけじゃないよ……」
とにかく熱で怠くて、なにもする気が起きないだけだ。断じて飲みたくないわけじゃないと、言い張りたい。
「たしかにあなたは、私から奴隷印を取り上げたが」
唐突に、ローレルは静かな声でぽつりと呟いた。
ここに来た当初はほとんど掠れていたそれも、今は随分と静かで穏やかな声になった。
「それでもまぁ、あなたは今まで一回もその奴隷印を使わなかったし、あなたは私に……ここにいること以外、なにも強要することはなかった」
そうかな。ここにいるついでにって、けっこう頼みごとはしちゃってるけどな。それはローレルの中では強制されたことではないのかな。
……いずれにしてもこんなときに、ローレルは急になんの話をしてるんだろう。
「どちらにせよ、あのままでは私は確実に見つかっていたし、そうしたらもう二度と彼らから逃げおおせはしなかった。あのときあなたは私を庇って、そしてあの醜悪でどうしようもない場所から私を連れ出してくれた。その事実に変わりはない」
突然ローレルが掛け布を捲って、のしかかってきた。その手が肩にかかり、少し強い力でぐいと上を向かされる。
「少なくともあなたは、あのときの私を助けてくれた。私をあそこから掬い上げてくれた。……なのにそのあなたはというと、驚くほど自身のありように頓着しない」
とにかく急な状況に脳がついていってなくて、淡々と喋り続けるローレルを唖然として見つめ返すしかなかった。
なにをされるのかわけもわからずに、怖ささえ感じるのに、俯き加減の思い詰めたようなローレルから目が離せない。
「まるで、自分のことなんてどうでもいいんだと言われているみたいで……それがどうにも、私には看過できない」
俯いていたローレルが顔の角度を変え、見えなかった表情が露わになる。彼は私が思っているような表情ではなかった。ただ淡々と、でもどこか募るような強い瞳で、私を見下ろしていた。
「だから、なにを言われようとも今からすることを止めるつもりはないし、反論も聞かない。どうしても止めたければ――奴隷印を起動すればいい」
その言葉に、力なく首を振る。奴隷印なんて使ってはいけない。ただでさえおぞましい代物なのに、それを所有してしまったなんて……なのにローレルときたら、そんな相手にそんなことを言ってくるなんて。
「なんだかよくわからないけど、止めたきゃ奴隷印を起動しろって、君は一体なにを仕出かす気……」
問い詰めようとした言葉は、途中で消え去った。
ローレルは薬の入ったコップを手に取り、おもむろに口をつけた。そしてそれを一口含む。その状態でギシリと音を立ててベッドに乗り上がってきた。
ローレルはわずかに表情を変化させた。まるで、懇願するような、縋るような表情。
ひんやりとした手が肩を抑えつけ、もう一方の手が私の頬を包む。淡くきらめくリーフグリーンの瞳は細められて、真っ直ぐに私を見下ろしている。ゆっくりと金色の睫毛が瞬いて、キラキラと光を反射した。
彼の顔が、降りてくる。まぶたが伏せられ、睫毛が頬を彩って、それから柔らかい感触のあと――。
絶妙な青臭さを漂わせた強烈に苦い液体が口腔内に侵入し、喉を通り過ぎて胃に落ち込んでいく。その途端、体が拒絶反応を起こして嘔吐反射が引き起こされる。それを体を丸めて必死に抑え込む。せっかく喉元を通り過ぎたのに、もどしてしまったらまたこの苦味を味わう羽目になる。生理的な涙で視界がぼやける。一生懸命にえずきを堪えていると、そっと背に手が当てられた。
「……そんなに苦かったか」
それに何度も何度も、涙を流しながらコクコクと頷きを返す。
そうなんだよね。こっちの世界の薬は桁違いに苦くて青臭いから、到底飲めたもんじゃない。丸薬にしてやっとこさなのに、こんな、煎じ薬のままだなんて無謀がすぎる。
抗議しようと開いた口は、再び柔い感触に遮られた。
「……〜〜っ!」
間髪入れずに流れ込んでくるなんともいえない苦い液体に、再びえずきそうになる。
「うぇえぇっ……! ゲホッゲホッ!…………も、もういいよ! あとはちゃんと自分で飲むから」
再び肩に手をかけられて、縋るように首を振ったけど、ローレルは容赦してくれなかった。
三度私に口移ししたローレルは、生理的な涙をはらはらとこぼした私に、ふいと視線を外す。
「言っただろう。私を止めたければ、奴隷印を起動しろと」
抵抗する気力もなくなった体が、ベッドに沈み込んでいく。懲りずにのしかかってきたローレルに、顔を背けるぐらいしか拒絶の意を示す方法はなかった。
どれだけ抵抗しても、彼は絶対に止めてくれなかった。
ローレルからはなにがあっても薬を飲ませるという強い決意しか伝わってこない。自分だって苦くてたまらないだろうに。
……あーあ、この子はなんでここまで、私なんかのために一生懸命になれるかなぁ。