解放された少年
「今、あのユートピアでは紅の塔の建設周年を祝って、街で祝祭が開かれている。あそこにいる人間にとっては、今日は喜ばしい、おめでたい日」
あの日。
ステイとエマが私だけを逃してくれた日。
あのあと、二人はハイレイン傭兵団の船に私を匿ってくれて、そして両親が人間族に捕まったあとどうなったのか様子を見に行ってくれた。
無事でいてくれるよう願って、あわよくばステイたちとここに逃げおおせてくれることを願って。
だけど、戻ってきたステイは浮かない顔だった。
『どうにか接触はできたんだ。だけど』
ステイは逸る私にやっと切り出した。
『どうやら親父さんたちは、もう腹を括ったみたいだ……』
その言葉に立ち上がった私を、すかさずエマが抱きついて止めてくる。
『親父さんたちからは、最後の依頼を預かってきた。今から俺たちはリナリアを指定された場所まで送り届ける』
『イヤ!! 私は父さんたちのところに戻る!』
振り払おうとする私を、エマは歯を食いしばりながら抑えてくる。
『離して! 行かなきゃ!』
『エマ』
冷静なステイの言葉とともに、振り下ろされた手刀。
『ハイレイン傭兵団は、受けた依頼はなにがあっても必ず達成する。どんなことがあっても、必ずだ……』
遠ざかる意識。父さん、母さん。涙目のエマ。縋るように触れてきた、ステイの手……。
あのとき、ステイたちはそうするしかなかったのだ。あの場で無理やり父さんと母さんを連れ出したところで、最後まで逃げ切れはしなかったし、おまけになんの関係もないハイレイン傭兵団までも巻き込んでしまう。父さんたちもおそらくそう思ったから、せめてまだ見つかっていない私だけでも安全な場所に逃げてほしいとステイに託したに違いない。
ハイレイン傭兵団は、父さんの最期の依頼を叶えてくれた。私を人間に売り渡せば気が遠くなるような大金を手に入れることもできただろうに、ステイとエマは詳しい事情を団員にすら明かすことなく、父さんの依頼を完遂してくれた。
遠い記憶の中でも、未だに鮮明なそれらの思い出。ぼんやりと物思いに耽っていると、ふいに肩を引き寄せられる。彷徨っていた思考が現在へと引き寄せられる。
ローレルが、肩を抱き寄せていた。
古びた薄い掛け布を二人で分け合うように、肩にかけられる。そしてそっと引き寄せられる。その勢いのままに、私も彼の肩に頭を預ける。
ローレルはそのまま、なにも言わなかった。ただまっすぐに紅の塔を見つめている。私に寄り添おうとでもいうように身を寄せたまま。だから私もそれ以上なにも言うこともなく、ぼんやりとその景色を眺めていた。
ただただ虚空を見つめて思い出に浸って、そうして長い時間が経って、そうしたらいつの間にか太陽が沈みかけていた。
「ローレル」
ようやく声を発した私に、隣の温もりがわずかに身じろぎする。
「ねぇ、もしもさ。自分の奴隷印が戻ってきたら、君はどうする?」
ローレルが身を強張らせたのが、体温越しにも伝わってきた。
「これ……」
懐から、いつも身につけて持ち歩いている、掌に収まるほどの小型の奴隷印を取り出す。
ローレルから体を離して、向き合う。黄昏色に照らされた彼は、信じられないように顔を強張らせている。
その手にローレルの奴隷印を押し付けるようにして渡すと、彼は呆然としたままそれを受け取った。
「返すよ」
「……」
ローレルは手の中の奴隷印を、目を見開いたまま見つめている。
「わたしはさ、君がそばにいてくれさえすれば、それでよかったんだ。……そのはずだったんだけど」
柄にもなく緊張している。心臓の鼓動がドクドク鳴っている。
これは賭けだ。一か八か、このままなのか、あるいは失うか。人の欲望は際限がないというのは、つくづく真実だと思い知る。
わたしは彼がここにいてくれさえすればそれでいいと、そう思っていたはずなのに。
――彼の気持ちに、賭けてみたくなってしまった。
「君はもう、正真正銘奴隷じゃなくなる。……そうしたら君は、いったいどうする?」
近くには人間族最大の都市がある。近づくにはかなりのリスクがあるが、あれだけ規模の大きい街であれば、少なからず人間族の支配から逃れたエルフも隠れ住んでいるかもしれない。
逃げるなら、今が最大のチャンスだ。
ローレルが顔を上げた。信じられないような顔をして、今度は私を見つめる。彼がどう思っているのかは、その表情からは伺えない。
「これで君の全部は君に返した。今の君は本当に自由だ」
居場所さえも返されたローレルは、いったいどうするのだろう。
ローレルは目を見開いたまま、手元の奴隷印に視線を遣った。震える手を開いて、奴隷印を地面へと落とす。ボトリと落ちた奴隷印は、コロコロと少し転がって止まった。
すかさず彼は積年の恨みを乗せるように立ち上がって足を振り上げ、そして魔導具を乱暴に踏みつけた。それはどこかローレルらしくない、かなり荒っぽい動作だった。
ローレルは動作を止めたそれを、しばらく茫洋と眺めていた。
それから今度は、その視線を私に向けた。
座ったままの私に一歩二歩近づいてきて、ローレルは上から見下ろしてきた。陰になった前髪の奥から、爛々と光る二つの双眸が私を見下ろしている。その光る目だけが薄暗闇に輝いている。思わずその視線から逃れるように、顔を俯ける。
ローレルはそうやって、長い時間私を見下ろしていた。
「……ようやくこれで、私は自分の意思で帰りたい場所に帰れるようになったわけだ」
やがて降ってきた声は、いつものローレルとなんら変わりはなかった。
「それじゃあ、そろそろ家に帰ろう。……今日ここに連れてきてもらったことに、感謝する。また一つ、あなたを知って、あなたのご両親のことを知ることができて……有魔族がどのような目に遭ったのか、真実を知ることができた。私は決して忘れない。あなたたちが人間族からどんな残虐な行為を受けたのか。あなたがどれだけの心の傷を負わされたのか。誰が忘れようとも、私だけは絶対に忘れないと誓うよ。だからあなたは……そんな寂しそうな顔をする必要は、もうないんだ」
「ローレル……」
震える声で彼を呼ぶと、促すように手を引っ張られ、立たされた。立ち上がったことでローレルの顔がよく見える。その表情に不意を突かれる。
長年自分を縛り続けてきたものから解放されて、さぞや喜んでいるだろうと思っていた。私に危害を加えはしなくても、最悪ここで見捨てられて去っていくのかもしれないとは覚悟していた。なにせ、彼にはこれ以上私と一緒に過ごす理由なんてない。彼には帰る場所があるのかもしれないし、そこで彼のことをずっと待ち続けている人がいるのかもしれない。私は彼のことをなにも知らない。
――でも、並び立ったローレルは。
彼は、なんだか泣き出しそうな顔で笑っていた。不安そうな、どうしたらいいのかわからないような、なぜ自分がそんな表情をしているのかもわかっていないような、そんな笑顔。
今まで見せたことがないような、随分と心細げな彼に手を伸ばす。差し出された腕を彼は拒まなかった。それをいいことに、陶器のような頬に触れる。
すべらかな頬は風にさらされて、随分と冷え切っていた。私の手とどっちが冷たいだろう。頬に触れてくる手に頓着することなく、ローレルは私のほうをひたりと見据えている。
「一緒に帰ろう、ローレル」
きっと、その言葉を待っていたんじゃないのかな。もしかしたら私の自惚れかもしれないけど、なんとなくそんな気がして、そう声をかけていた。
「私には、これからも君が必要なの」
ローレルが息を吐く。ふわりと物憂げにまつ毛が揺れ、その拍子に眩しいほどの黄昏の光を反射した。そのままローレルはコクリと頷くと、くるりと背を向けて歩き出す。
――私の手をしっかりと握りしめて、ローレルは帰途への道を歩き始めた。




