海に行く少年
海といえば、行き先には心当たりがある。
後日改めてローレルと準備を整えて、転送ポイントを経由し、海へとやってきた。
きめ細やかな白い砂が作る、美しい砂浜。その先に広がる海は、遠くまで透き通るような碧を湛えている。
「ここなら海水も綺麗だし、いい塩が作れそう!」
そう話しかけた先のローレルは明るいリーフグリーンの瞳を細めて、じっと広がる先の海の向こう、はるか水平線の先まで眺めている。
吹き抜ける風に、ローレルの甘いハニーブロンドの髪がくしゃくしゃにかき乱れている。いつになく眩しい太陽光にさらされたローレルは、神々しいくらいにきれいだった。
「……初めて見た」
海に見とれているローレルが、ぽつりと呟く。
――この海に来たのは、ステイと別れたあの日以来だ。
何度も考え直すようにと、自分たちと一緒に来いと説得してくるステイに、ここで一方的に別れを告げて、一人で生きていく道を選んだ場所。それ以来、この場所は敢えて避けていた。一度もここには来なかった。
自分から拒絶したくせに、やっぱり一緒に行きたかったと心のどこかで後悔する自分が本当に愚かで虚しくて、そんな自分を直視したくなかったから。
誰かと一緒に人間の世界で生きていけば、この先もずっと怯えていなければならない。ステイのことは信用していても、ステイの仲間がそうとは限らない――いつか誰かに見つけられるのでは、裏切られて人間へと売り渡されるのではと、私はそれがとてつもなく怖かった。
「せっかく来たから、ちょっと遊んでいく?」
心なしか目をキラキラさせているローレルにそう言うと、大きな目をさらにきょとんと開かれる。
「遊ぶって……」
「えっと、例えば……」
自分から提案しておいて、さて海ではどう遊ぶのだろうと思い至った。
前世では海の家でかき氷や焼きそばを食べながら、ビーチバレーをしたり浮き輪で海を漂ったり、おそらくそういったようなことをしていたような気もする。だけどとにかく遠い昔のことすぎて、思い出はもはや朧げだ。そもそも、そういったものはこの砂浜には一切ない。
このなにもない砂浜で、なんの道具もなく遊ぶというのなら。
「あー、砂山崩し、とか?」
「すなやま、くずし」
まったくピンときていないローレルに、ルールを説明する。砂の山を作って木の棒を立て、順番に砂を掻いていって、先に棒を倒したほうの負け。
真面目にルールを聞いているローレルが終始戸惑ったような顔をしているのが面白くて、なんだか笑えてくる。
そういえば、ローレルと過ごしてしばらく経つけど、二人で生きていく方法を模索するのに精一杯で、一緒に遊ぶとか、そういった娯楽のようなものを楽しもうなんて雰囲気になったことは一度もなかった。
ここに来てそんなことを彼に持ちかけるくらいには、私にも心の余裕が生まれたのだろうか。それか、この状況に柄にもなく浮かれているか。
とりあえずやってみようかと、砂浜に二人で山を作って、拾ってきた木の枝をそのてっぺんに突き刺す。
「最初はあなたから。手本を見せてくれ」
どこか戸惑ったように告げられて、いいよと腕まくりをした。意気揚々と山の麓辺りをごっそりと手で掻き取ると、再びローレルの目が見開かれる。
「どうぞ?」
挑戦的に笑ってみせると、勝負心に火がついたのか、ローレルは今度は目を細めた。彼は黙ったまま、随分とゆっくりと砂を掻き取っていった。
そんなことを何回も繰り返していくと、大方削りとられた砂山は、もうちょっとでも触れてしまえば今にも崩れ落ちそうな状態になった。
その姿に危機感を抱く。慎重に慎重に砂をかき取ろうとして、ちょっと手が当たった瞬間、脆くも砂山は崩れ去った。
「ああぁっ!」
悲鳴のような声を上げて頭を抱えた私を、ローレルがびっくりしたように目を見開きながら見つめている。
「私の負けだぁ……君の勝ちだよ」
ローレルは戸惑ったように頷く。私の説明が悪かったのか、わけがわかってなかったのかもしれない。いまいちピンときてないような反応だ。
「おめでとう! 優勝は……ローレルでした!」
パチパチと盛大な拍手を送ると、ローレルはますます戸惑ったのか、気恥ずかしいように口をもごもごと動かした。
「……ごめんね、あんまり楽しくなかったかな?」
あまりにもノリが悪いので、この妙なテンションは止める。
「いや……そういうわけじゃない」
海にきてからずっと妙な態度のローレル――そわそわして、居心地が悪そうで、だからといって明らかに嫌がっているわけでもなさそうな彼がどう思っているのか聞きたくて、その顔をじっと見つめる。
「なんというか、その……」
ローレルはいつになく気まずそうだった。
「あなたがあまりにも無邪気に遊ぶものだから、なんだか面食らったというか……」
そんなに無邪気だったかな。
「あなたはときどき、びっくりするくらい無気力というか、なげやりなときがあるから」
……そんな態度というか、姿を見せたことなんてあったっけ。
「今日はいつになく元気そうだ。そして、楽しそうだ」
「そう、かな……」
ああ、と頷いたローレルは、その戸惑った表情に、ちらりと真面目な色を乗せた。
「楽しかったか?」
影になった顔に、風に吹きすさぶ金髪が乱れかかっている。私よりもちょっとだけ身長の高いローレルはこっちに近づいてくると、同じように散々に乱れて私の顔に直撃している朱銀の髪を、丁寧に手櫛で直してくれた。
「私は……」
続けようとして、口を噤む。
ふと疲れたなと思って。
どんなに虚勢を張って自分を覆い隠したって、ここにはローレルしかいないし、これからも私のそばにはローレルしかいない。そうやってこれからもずっと一緒に過ごさなければならないのに――いい加減、彼がいつか裏切るかもしれないとか、彼に心を乱したくないとか、そうやってビクビクしながら過ごすのはもう疲れた。
「……ここは、最後に友だちと別れた場所なんだ」
こぼした声に、髪を梳かして直していたローレルの手が止まる。
「私を助けてくれたその人は、最後まで一緒においでって手を差し伸べてくれた。でもだからこそ、その手をとれなくて。今でもときどき、そのときの判断を後悔しそうになる。あのときステイの手をとっていたら、こんなふうに寂しさに押し潰されそうになることもなかったのかな、って」
ローレルの手が下りてきて、冷たくなった私の頬をそっと滑っていった。
「だからずっと、ここに来るのは避けてたよ。そのときのことを思い出すのがイヤだったから。私は一人きりで、これからも一人きりのはずで、それはどうしようもない事実だったけど。でも今は、不謹慎かもしれないけど、ローレルが一緒にいてくれるから……寂しくはなくなったんだ」
「そう、か」
ローレルの手が離れていく。直しても直しても止まない海風のせいで、髪は乱れる一方だ。
寂しさとは無縁なような、明るい太陽と海が私たちを見守っている。
「ローレルのおかげかな。ここに来れたのは」
やっと微笑んだ私の頭を、元気づけるようにローレルはポンポンと撫でてきた。
しばらく二人、そうやって海を眺めたあと、持ってきた木の桶に海水を汲みにいく。
足のつくギリギリまで、びしょ濡れになるのも構わずに海に入っていく。バシャバシャとどんどん進む私をローレルは唖然として眺めていたけど、おいでよと声をかけると、最後には彼も躊躇いながら中に入ってきた。
「思ったよりも揺れる」
波にさらわれそうになる感覚を、ローレルはそう表現した。
「油断するとこのまま引き込まれそうだ」
ローレルは思わずといったように、私の腕を掴んできた。
「ふわふわしているあなたは、すぐにさらわれるかもしれない」
「……さすがに、それはないと思うよ」
ローレルと二人、四苦八苦しながら慎重に海の水を採集する。
こぼれないように砂浜に戻って、簡単に風で服を乾かす。それでもどこかべとつく感触にローレルが苦笑している。
「これはもうさすがに洗濯しないといけないな」
「そうだね。潮の匂いがね」
ローレルは束の間、無心に海を眺めていた。
「そろそろ帰ろうか。塩作りは時間がかかりそうだ」
だけどすぐに促すように、背に手を当ててくる。
「あ、うん……」
ローレルがちらりと海のほうを振り返る。その目は細められていて、表情は厳しい。なにか見えているのかと私も振り返ろうとしたけど、背に当てられた手に急かされて、それは叶わなかった。
転送ポイントを経由して小屋まで海水を運ぶと、予め用意しておいた桶の上にはぎれ布を置いて、海水を何回か濾していく。一人では手間で難しい作業も、二人いればどうにかこなせるものだ。お互い初めての作業にうろたえながらも、なんとか海水の濾過を終わらせる。
それからあらかじめ外に作っていた焚き火台に鍋をセットし、グツグツと煮始める。あとは交代で火の番をしながら、ある程度煮詰まるまで待つ。
合間に片付けをしたり、いつもの役割をこなしながら、待つことしばらく。
ようやく煮詰まって白く濁ってきた海水を、もう一度はぎれ布で濾過する。本によると、これは塩ではないらしい。あんなにたくさんの量の海水を持って帰ってきたにも関わらず、鍋に残った海水は蒸発して大分少なくなっていた。熱く滾った海水に注意しながら、おたまですくって慎重に濾過し、きれいに洗った鍋にもう一度かける。
さらに煮詰めて泥状になったら、もう一度濾過をして、そしたらやっと出来上がり、となるのだが……あまりにも時間と手間と労力のかかる工程に、そろそろ疲れも隠せなくなってきた。
最後の煮詰める工程でとうとう音を上げて座り込んだ私に、休憩していたはずのローレルが顔を出す。
「代わろうか」
怪訝そうに覗き込まれ、手に持っていたおたまを取られる。
「ありがと」
遠慮なく彼に甘えることにして、鍋の中を覗き込む後ろ姿に話しかける。
「君、案外と体力あるんだねぇ」
「ほかの種族からは見た目のことばかりを言われるが、」
ちらりとローレルは振り返ってきた。
「私たちだって、獣人族に次ぐくらいには体力はある。森の狩人の名は伊達じゃない。……だが、あなたたちはほかの種族とは明確に違う。魔力という唯一無二の特徴を持つかわりに、その体力は下手すれば人間をも下回る。今日はさぞ疲れただろう」
そのまま火の番をしだしたローレルの後ろ姿を、じっと眺める。
来た当初はどうなるかとも思っていたけど、案外と頼りになるな、ローレルは。最近の食生活の改善で、少しずつ見た目も健康的になってきている。
その後ろ姿を眺めていたら、なんだか眠くなってきて、汚れるのも構わずに地面に横たわると目を瞑る。振り返ったローレルがなにか言ってきた気がしていたけど、ローレルがそこにいてくれるのなら大丈夫だろう。いつの間にかそんな根拠のない信頼を彼に覚えて、私はうとうとと眠りについていた。




