1-21『お願いだから、いなくならないで』
狼の爪に弾き飛ばされた小さな体が放物線を描くように宙を舞い――地面に叩きつけられた。
「……ゥ…グ……」
地面に倒れ、呻き声をあげたのは——ヤトだ。
その腕に抱かれているゴブリンが切羽詰まった声で鳴いていた。
「ギャギャッ——」
「うるさい黙れッ!」
怒気を孕んだその声にヤトの腕の中にいる存在がびくりと身体を震わせた。
「失ってやるもんか! 配下を守れないで何が魔王だ!」
それはゴブリンへというよりは、自らへ言い聞かせるような言葉であった。
「ギャ、……ギャ?」
「一緒に切り抜けてやるんだ! だから、さ」
1つ目の命は、ヤトの見えないところであっけなくこぼれ落ちていった。
だからこそ、 2度目が起こらないように——目の前の命だけは失うまいと、痛みを無視して、ふらつきながらゆっくりと立ち上がる。
「……お願いだから、いなくならないで」
震える声で、そう言った。
うるさい心臓に痛む身体、安堵と恐怖の間を忙しなく行き来する感情とは裏腹に、ヤトの頭は必死でこの場を切り抜ける方法を考えている。鳴り止まない”合図”に思考を邪魔されながら活路を貪欲に見い出そうとするヤトの瞳は生を諦めていなかった。そんなヤトを魔物はただ面白そうに眺めている。だがヤトが完全に立ち上がり、魔物を睨みつけた——瞬間。楽しげな咆哮をあげ、魔物の腕が振り上げられる。
――失敗は許されない
ヤトの世界から己の心音以外のが消えた。迫る爪が先ほどよりもひどくゆっくり動いているように感じる。
――チャンスはこの一度だけ
身体の痛みすら忘れて、爪の動きを凝視した。
――どこへ振り下ろされるのか、どこに活路があるか
ゴブリンを胸に抱き、床を蹴った。爪の軌道を躱すように夢中で身体を操作していく。
爪スレスレを通り抜けたと同時に、ヤトの世界が音と速度を取り戻した。
少し遅れて、爪が作りだした風圧に体を煽られながら、ヤト達は——。
「やっ、た……ッ!」
漆黒の巨体の横をすり抜ける事に、成功したのだ。
背後では、苛立たしげな獣の唸り声が聞こえる。
濃いグレーの髪を乱しながら、走る。体は痛いが、それでもヤトの表情は明るい。
あとはもう、全速力で走るだけだ。目指す居住区は、もうすぐだ。
そういえば、と。走りすぎてあまり酸素の回らない頭で考える。
狼の魔物に気を取られすぎてすっかり失念してしまっていたが――あの場にはもう一体魔物がいたはずだ。
では、そのもう一体は今どうしているのだろう、と。
ヤトの耳に、ヒュルヒュルと何かの飛来音が聞こえた。
その音に振り返ったヤトの視界に映ったのは――目の前に迫る大岩で。
「あ」
間抜けな声をあげることしかできなかった。ヤトの視界が一瞬で黒一色に塗りつぶされ——体に衝撃が走る。
その直後、凄まじい衝撃音が一帯に響き渡った。
◆
「ああもう次から次へとキリがないッ!」
光の槍で貫かれ粒子と化していった魔物を前に青年は舌打ちした。
あれからヤトを探しに洞窟内を飛び回る青年であったが、行手を阻むように出現する魔物を片っぱしから処理していたらすっかり道に迷ってしまった。
「青い血痕は気づいたら消えてるし! あいつも見当たらないし! もう笑うしかないんですけど!」
今しがた横の通路から飛び出した魔物の頭部を八つ当たり気味に槍で貫き適当に投げ捨てながら、青年は途方に暮れて叫んだ。
「ヤト様ぁあああどこですかーーーーッ! いたら返事してくださぁあああい!」
当然だがその呼びかけに答える声はない。
「ですよねー! やっといてなんですけ、どッ!」
身を翻す青年の横を大きな岩飛んでいった。後から吹き荒ぶ風に若芽色の髪を遊ばせながら青年は白けた顔で岩の飛んできた方角を見た。
「はぁぁぁぁ……、ヤト様以外お呼びじゃないんですけど」
そこにいたのは、ゴブリンに似た深緑の魔物だ。ただしゴブリンよりも数倍大きい。
「はーうざったいなあもうイライラする……アハッ、邪魔だからついでにコレも処しちゃお♪」
警戒するでもなく、怯えるでもなく。青年は冷え切った瞳を眇めながら光の槍を構えた。




