1-18『ギャギャ、ギギーー』
「うおあああああああああッ」
一方その頃、ヤトはお供のゴブリンを引き連れて領域内を必死に逃げ回っていた。
ヤト達を追いかけているのは闇を体現した漆黒の毛並みを持つ狼のような魔物だ。
居住区に駆け込めればよかったのだが、この魔物の方が一枚上手だった。すぐにヤト達の動線を察し進路を塞いできたのだ。おかげでこうして逃げ回る生えになっている。
「いやいやいや無理でしょこれーーーーッ!」
「ギギャギャアッ!?」
音を立てずに迫り来るヤトなぞひと飲みできそうなほど大きい体躯にヤトは思わず情けない声をあげながら必死に足を動かす。
止まったら、即座に食われておしまいだ。ヤトにできる事はとにかく全力で逃げ続ける事、ただそれだけだ。
ふいに狼が地面を強く蹴った。かと思えば、巨体に見合わぬ身軽さで壁を駆け登っていく。
ゾクリと、背筋に嫌なものが走った。
「ギギッ!」
ゴブリンの警鐘のような声と同時に、ヤトの頭上に影が落ちる。
「うおおおああああああああああああああォアアっとおッ!?」
足元の凹凸につまづき勢いよく地面を転がったヤトの背後でガキィンッと狼の爪が地面を砕く音がした。重力を味方につけたオオカミが頭上から襲いかかってきたのだ。風圧に背中を押され、器用にバランスを整えながら転がり起きたヤトは、吹っ飛んだゴブリン達を抱えて必死で足を動かした。
先程の一撃から導き出される結論、それは——。
あ れ は ヤ バ イ
一度でもあの爪の直撃を喰らえばヤトもゴブリン達も一撃粉砕、肉片化待った無しだ。
もはやヤトの脳裏には戦略的撤退の文字以外浮かばなかった。
「無理無理無理無理難易度高すぎあんなのどうしろっていうんだよばかあぁああああああああ」
走る、走る、走る。ただひたすら走る。走るしかない。バクバクと心臓が踊り狂っているが今立ち止まるわけにはいかない。
走りすぎて肺が痛い。呼吸だって苦しい。だが立ち止まった瞬間、待つのは消滅だ。
少し酸欠気味の頭で必死にルートを考えながら――精一杯走った。
幸運なことに狼はあれからヤト達の後ろを一定距離を保って追いかけてくるだけだ。攻撃はあの一度だけだ。
それはまるで弱い獲物が逃げ惑うのを楽しんでいるようだった。
完全に見下されているが、そんなことはヤトにとって些細な事だ。生き延びられればそれでいい。
「ギャギャ、ギギ――」
棍棒を手に何かを告げた赤い目のゴブリンに、ゼーヒューゼーヒューと死にそうな呼吸音を口から漏らしながらヤトは険しい表情を向ける。
足止めと時間稼ぎの提案だった。棍棒しか攻撃手段を持たないゴブリンが軽率に近づこうものなら爪の一振りであっという間に原型のないぐちゃぐちゃの肉片が出来上がることだろう。時間稼ぎにすらならない。そんなもの許可できるわけがなかった。
ヤトの表情で察したのだろう、赤い目のゴブリンは棍棒を抱えながらしゅんと力なくうなだれた。
「……、……っ」
なんとかしてジュゼートにもこの狼の魔物について知らせたいところが、彼が今どうなっているのか今のヤトにはわからない。
ジュゼートのこと、青年のこと、そして自分たちのこと――胸に蠢く不安と恐怖に蓋をしてヤトは疲労と恐怖で震える足を叱咤しつつ洞窟内を駆けた。
◆
「——?」
ふとにジュゼートが顔をあげる。何かが、聞こえたきがしたのだ。だが改めて耳を澄ませてみても、とくに気になる音は聞こえない。
周囲を見渡してみても、いつもと変わり映えのしない岩壁が続くだけだ。
「気のせい、ですかねェ?……あぁ、ところで」
そう言ってジュゼートは呆れ顔で青年を見下ろした。
「あんたそろそろ歩くか飛ぶかしてくれません? 重いんですケド」
「無茶言わないで、くださいよ……」
現在二人はヤトの待つであろう玉座のある空間へ向かうべく移動中であった。
動けない青年はジュゼートに襟首を引っ掴まれて地面を引きずられている。
「ほんとに俺なんかが、いいんですか」
ずるずると引きずられたまま青年が呟いた。
「最初に言ったでしょう、人手ならぬ配下不足なんですよここ」
「でも、俺は、殺そうとして……」
「あんたって、結構ウジウジ面倒臭い性格していますよねェ」
「だって……」
そう言って俯く青年をジュゼートは鬱陶しそうに振り返る。
「もうあんた黙っててください。イラっとしてうっかりトドメさしてしまいそうです」
「……トドメって――イタッ」
引きずられている青年の周りには黒い欠片がふよふよと漂っていた。
「いやあの、これ……時々刺さるんですけど」
「はぁ? だからなんです。あんたが主サマの配下になるまでこのままですよ」
「地味に痛いんで――イッ!?」
「何刺さりにいってるんです? ああもしかして自虐趣味でもあるんですか」
「そんなわけ――イタッ、ちょッ……!」
そんなわけで、玉座のある空間へと二人が戻ってきた時には、青年は涙目でゼェハァと荒い息をついていた。
「いい加減……この黒いの、どけてください、ってば……」
「だから主サマと主従契約を結んだらどけま――おや?」
空っぽの玉座に、ジュゼートが顔を顰めた。
「……いませんね、ヤト様」
「……えぇ」
周囲を見渡してもヤトはおろかゴブリンの姿さえどこにも見当たらない。その静けさにジュゼートは妙な胸騒ぎを覚えた。
「居住区、でしょうか」
「……そうだと、いいんですが」
ざわつく心を宥めながら青年を手放したジュゼートは居住区へ続く扉へ向かう。込み上がる焦燥で進む足が自ずと駆け足になっていく。
何かと危機感に欠けるヤトだが、ああ見えて無鉄砲ではない。そんなヤトが玉座にいないというならば。それすなわち——不足の事態が起こった、それしか考えられなかった。
なんらかの事態により居住区に逃げ込んだ、そうであれば——そうであってくれ。
いっそ祈るような気持ちで扉に手をかけたジュゼートの耳に、びりびりと空気を震わす程の獣の遠吠えが聞こえた。
その時だ——その咆哮に紛れるようにして、微かに水滴の滴り落ちる音が聞こえたのは。
ポタリ、……ピチャン
思いのほか近くから聞こえたその音に、ジュゼートは振り返る。
ポタリ、……ピチャン――青い液体が地面へ滴り落ちていくのが見えた。
「……ギャ」
ゴブリンが、いた。ヤトと共に居たはずのゴブリンが、全身から鮮やかな青を垂れ流し、満身創痍で——立っていた。
——思考が、止まる。
徐々に光を失いつつあるゴブリンの水色の瞳が彷徨い、茫然自失と立ち尽くすジュゼートを——捉えた。
次の瞬間——プツリ、と。まるで糸が途切れた人形のようにその小さな緑の体が力なく地面へと崩れ落ちていく。
寸前、垣間見えたその表情は何かを果たせたように満足げで。
「ーーーーーーーーッ!」
動かなくなったソレは、やがて光に包まれ粒子と化して消えていく。
初めての光景だった。だけど、ひどく見慣れた光景でもあった。配下も魔物と同じ消え方をするのだと、ジュゼートはこの時初めて知った。
この領域で、初めて配下の命が失われた瞬間であった。
「ある、じ……さま?」
呆然とジュゼートがつぶやいた。開け放たれた扉の向こうは、シンと静かに静まり返っている。
ならば今、ヤトはどこにいるのか。
その答えは、きっと。
薄暗い洞窟の向こうにのろのろと顔を向ける。道標のように点々と続く青い命の残滓が、やけにはっきりと——色鮮やかに見えた。




