心の隙間に入り込む
土曜日。いつもなら美里加に起こされて、ブランチを食べた後、掃除が終わり午後から出かけるのが、大体の流れだったが、絵の一件依頼、連絡も無く週末は昼過ぎまで寝てしまっている事が、多かった。
しかし今日は、亜弥との約束でもある、デザインのイベントへ出かけるために、普段通りに起きていた。出発までは、時間がある事から、洗濯を回し、掃除を簡単に済ませ、コーヒーとタバコで朝食は済ませた。
爽やかな風が吹き、とても過ごしやすい気温だった。薄手のTシャツにジャケットを合わせ、パンツと革靴を履いて出かけた。
亜弥とは、会場の最寄り駅で、待ち合わせをすることにした。駅まで向かう、春の足取りが軽やかに進んでいた。
移動の電車の中、美里加との事をこれからどうするか、春は考えていた。
怒りは、とうに引いていた。美里加との日常が、途絶えているこの状況でも、春の気持ちとしては何も困らず、気に留める事もあまりなかった。
会社の仲間内の合コンで、1年前に美里加とは付き合った。気配りがよくできる人だなと言う、第一印象だったが、美里加から連絡先の交換を求め、いつの間にか付き合う様になっていた。
美里加は、可もなく、不可もなくの女だと、春は思っていた。
そんな事を言ってしまえば、美里加に怒られるだろう。春としては、紗良と別れた後、感情を高ぶらせたり、誰かと付き合う事が、少し億劫になっていた気がしていた。
恋愛に対して、興味が失せていた。
美里加と付き合う事が、何かの隙間を埋めるようなものだと言う事を、春は分かっていた。積極的な美里加の感情や、態度に、春は寄り掛かって楽をしていた。
ベッドで行為の最中に、美里加が、
「好き」
と、言葉を出す。それに対して答えられず、春は気持ちをはぐらかすように、唇を重ねていた。
『心そこにあらず』
紗良に、美里加に対する自分を指摘された事を、思い出した。
図星だな…と、春は胸の中で苦笑した。
亜弥は、既に改札口で待っていた。クリーム色の生地に小さな花柄のワンピースに、桜色をしたロングのカーディガン、白いパンプス、下ろした髪がふわりと巻かれて揺れていた。
「すみません。待たせてしまいました」
春が改札を抜け、亜弥に言った。亜弥は、笑顔で出迎え、小さく首を振ってみせた。
「私、早く来てしまってて。気にしないでください」
耳につけたハート型のピアスが揺れ、全体的に可愛らしい印象だと、春は再認識していた。
「行きましょうか」
「はい」
2人で肩を並べて歩き出し、何を話そうかと考えていると、亜弥が春に話しかけた。
「普段は、休みの日は何されているんですか?」
「部屋の掃除とか、洗濯とかして、買い物とか、仕事の材料になるための写真を撮りに出かけたり、本読んだり。近瀬さんは?」
「私も、同じような感じです。実家暮らしなので、洗濯は母に任せてるけれど。姉夫婦が近くに住んでいるので、姪っ子と遊んだりしてます。本って、どんなのを読まれるんですか?」
亜弥は、春の視線を捉え、にこりと笑みを見せた。
「推理物ですね。読み始めると、メシも食べずに一気に読み切ってしまうので、気をつけてます」
「そんなに、集中してしまうんですね。スゴイ。推理物かぁ。私は、姪っ子とたまに、アニメで観るくらいです」
亜弥は、終始笑みを絶やさず、春に話していた。その顔を見ていると、春もつられて自然と笑みがこぼれていた。
「郡さん、泉さんと気にしていたのですが、ご結婚はされているんですか?」
「いえ。独身ですよ。泉さんは既婚者でしたよね? たしか、娘さんがいらっしゃるとか?」
「はい。泉さんと気にしていて。良く、話してたんです。郡さんて、イケメンだよねって」
「いやいや、そんな。おこがましいです。それより、近瀬さんは、ご結婚は?」
亜弥は首を横に振り、
「私も独身です。なかなか出会いがないので、恋人もいません」
小さく苦笑いをして見せた。
「そうなんですか? 職場の男性陣が、意識されているんじゃないですか? 可愛らしい方だと思うので、放っておかないでしょう?」
「そーだったら、嬉しいですけどね。実際は、声も頂いてないです。郡さんは、彼女さんは?」
亜弥が質問すると、笑みが消えてじっと、春を見ていた。
春は、返答に戸惑っていた。美里加とは別れた訳ではないが、喧嘩をして冷戦のような状態でいた。春の気持ちは、このまま自然消滅に向かうのではと、思っていた。
「はい。一応は」
言葉を濁しながら、春はそう答えた。
「あー。やっぱり、彼女さんいるんですねー」
亜弥は、笑ってはいたものの、少しショックを隠しきれず顔がほんの少しこわばっていた。
「いや、そんな。オレの事は、気にしなくても」
亜弥の追い討ちを掛けるような質問に、春は戸惑っていた。
「気になりますよー。だって、『いない』だったら、私、この機会なので、郡さんともう少し仲良くなりたいと思ってましたから」
クスっと笑んだ亜弥は、再び春と視線を重ねた。そうして、何かを期待するかのように、じっと上目遣いで、亜弥は見つめていた。
「いや、近瀬さんみたいな、可愛らしい人から言われるなんて、嬉しいですね」
亜弥に見つめられ、春はどう対処すればいいのか、亜弥の取り扱いに少し戸惑っていた。そうして、苦笑いをしてごまかしたのだった。
「でも。せめて、お友達になって、頂けますか?」
潤ませるような瞳で、じっと春を見つめて亜弥は言った。見つめられる事で、春は照れ臭くなり顔を赤らめていた。
「はい。お友達として、よろしくお願いします」
おずおずと春が答えると、
「良かった! 嬉しいです。よろしくお願いします」
亜弥は、くしゃりとした笑みを見せ、右手を差し出し、握手を求めた。春は、戸惑いながらも、左手を出して亜弥と握手をした。
「お返事によっては、この後気まずくなっちゃうかしらなんて、少し怖かったんですが。ホッとしました」
少し前を歩いた後、くるりと振り返り、亜弥はそう言った。
お読み頂きありがとうございました。
春に亜弥が近づいて、春もまんざらでもなさそうな…。
お話は、まだまだ続きます。
次回もどうぞよろしくお願いします。