浮つく感情
紗良が描いた絵を、美里加に捨てられて以来、美里加とは連絡を途絶え、会う事もなく2週間が経過していた。
それと重なるように、紗良の声も聞く事がなかった。
春は、仕事へ出かけ、寝て起きての繰り返しの生活に、追われているようだった。週末も、デザインの材料集めにと、街へ出かけていた。
忙しくしている事で、美里加や紗良の事を少しでも考える事を、どこかで避けようとしている自分に、春は気が付いていた。
「郡くん、2番に外線。近瀬さん」
同僚で、1つ年上の原は、クライエントの名前をいつも言わない。どこの会社の人なのか、言って欲しいと、何度か頼んだが、全く改善の余地はなかった。いつも、指先はネイルで華やかで、それに目を止め満足気な顔をしている時間が多く、春としてみれば、もう少し、手を動かして、パソコンに視線を移して欲しいと願っていた。
原に言われた、近瀬と言う名字に顔が浮かばず、疑問のまま電話に出た。
「お待たせしました。郡です」
「お世話になってます。ヒロカワ製紙の近瀬です」
受話器越しに聞こえた、近瀬と言う女性の声が答えた。クライエントの社名で連想したのは、担当者の泉と言うの名前の40代くらいの女性だった。
続けて、近瀬が話し始めた。
「郡様へ依頼している担当の、泉が私的の都合の為、代わりに担当となりました。ご挨拶へ伺わず、お電話で、先にご挨拶で失礼します」
丁寧な話し方の近瀬は、声の印象だけだったが、良い雰囲気だった。
「ご丁寧に、ご連絡くださって、ありがとうございます。今回の案件に関しては、明日、丁度、前の担当の泉さんとは約束していましたが」
「はい。泉から引き継ぎ受けております。予定通り、進めて参りたいと思います」
アポイントを念の為、再確認して電話を切った。電話の中で、前任の泉がどうしたのか気にかかったが、明日にでも聞いてみようと、春は頭の片隅にそれを、置いておいた。
翌日は、春の嵐ように、風が強く吹いていた。春は、午後、クライエントのヒロカワ製紙へ向かうため、1時間ほどかけ、電車移動をしたあと、最寄り駅から徒歩30分くらいはかかる距離のため、タクシーに乗り込んだ。
「今日は、風が強いねぇ」
と、運転手と当たり障りない会話を2往復程やりとりした後は、窓の外を眺めていた。途中、錆びれたアミューズメントパークの象徴の様な、ボーリングの巨大なピンが目についた。その建物の看板には、ボーリング、ビリヤード、カラオケなどの文字が、緑やピンクのネオンで作られていた。まだ、営業している様子で、この辺りの人達は、そこに来て娯楽を楽しんでいるのだろうかと、ふと思った。
ヒロカワ製紙は、工業団地の一角にあった。広く、長い道が奥に見え、工場の入り口の門の前でタクシーを降りた。
受付で声をかけると、1人の女性が春の前に現れた。
「初めまして。近瀬 亜弥と申します」
ふわりとした巻いた髪を束ね、会社のロゴが刺繍された作業着の下には、紺色のスカートを履いていた。20代半ばくらいの年齢ぐらいだろうか。
亜弥は、大きな目が印象的で、下ろした前髪がどこか幼気な印象だった。
「郡です。昨日は、お電話ありがとうございました」
亜弥の第1印象は、電話でのしっかりした応対とはまた違う、ふんわりとした柔らかい笑みが可愛らしい人だった。
互いに名刺を交換し、応接室へ向かう間、郡は前任について尋ねた。
「田舎のお母様がご病気で。3ヶ月介護休暇を取ってます」
「そうでしたか。それは、大変ですね。泉さんには、ホントお世話になってまして」
「いろいろ、伺ってます」
亜弥は、小さくわらいながらそう言った。
「気になりますね。“いろいろ”って」
「ふふ。内緒です。私、郡さんのデザイン、何点か存じ上げてます。今、使っているシャンプーのボトルのデザイン、あれ、とても好きです」
話をはぐらかしながら、亜弥は、春の顔を見てにこりと笑んだ。
「去年、シャンプーメーカーさんから依頼受けて、出したデザインですね。ありがとうございます」
「あのデザインが気に入ってて、今回のボックスティッシュのパッケージデザインの企画確認したところ、あのデザインの雰囲気と近くて、嬉しくなって」
「ボタニカルを用いた商品が、出ている様なので。こちらも、花やハーブなどのデザイン用意して見ました」
「拝見するの、楽しみです」
応接室に入ると、席で待たされ、近瀬が直ぐにコーヒーを入れて現れた。
「すみません。お待たせして。今、事務の人がお使い出ていて」
受け皿に乗ったカップを持った、亜弥の手を春は、見ていた。陶器の様な白い肌と、細く長い指。爪は、薄いピンクのマニキュアが塗られていた。
春は、資料として用意した用紙と、タブレットを取り出して、デザインの説明を始めた。
「ここの色は、もう少し淡い感じになると、どうでしょう?」
亜弥が、波打つ様な模様のスペースを指差し、春に言った。そうして、タブレットの画像の色を調整しながら、互いにじっくりと検討していた。
「全体的に、淡い色使いなので、バランスは取れていると思います。花の方は、どうでしょう?」
「はい、いいと思います。柔らかい雰囲気で。私だったら、ティッシュ使い終わったら、箱を再利用とかして残しておきたいくらいです」
「そこまで大事に使われるなら、嬉しい限りです」
春は小さく頭を下げ、亜弥と顔を見合わせ、互いに微笑み合った。
「良かった。郡さん、とても話しやすい方で」
ほっとした様子で、亜弥は再び笑みをこぼした。よく笑う人で、それがとても愛らしい人なんだと、春は思った。
「そうだ、郡さんは、週末にあるイベントは、いらっしゃいますか?」
「有明の方で、催されるのですよね? うちの会社の広報担当者が、ブース出す予定で。僕は、来場客として傍観しに行こうかと」
「そうでしたか。実は、うちの会社も出すんですが、私は趣味で行くつもりです。あの、ご迷惑でなければ、ご一緒にいかがですか?」
亜弥は少し照れながらも、春を誘った。行動力がある人だなと、春は少し驚いたが、近瀬の誘いに迷わず乗っていた。
「良かった。ありがとうございます」
クライエントとは、あまり個人的な付き合いはしない方だが、春の中で少し箍が緩んでいる気がしていた。それは、美里加との事や、紗良との事が何処かで引っ掛かっているせいだからだろうと、思っていたあ。
連絡先の交換を済ませ、亜弥は帰りのタクシーの手配をして、2人は応接室を後にした。
ロビーでで待つ間も、亜弥は春の相手をしてくれていた。
「郡さんて、お名前、はるって、読むのですか?」
春から受け取った名刺を見返して、亜弥は言った。
「あ、春と書いて“しゅん”、読みます。近瀬さんは、亜弥さんと、読むのですよね?」
「はい。亜弥です。そうでしたか。しゅんさん、なのですね。周りの人からはどう、呼ばれる事が多いですか?」
「そうですね…職場も、友人も、大抵、名字が多いですかね」
肩を並べて話しながら、春は、亜弥との接近した距離感に、胸をドキドキさせていた。
「近瀬さんは、どうですか?」
「私? 私は、ほとんど名前で呼ばれます。うちの会社も、名前呼びなので、かえって“近瀬”で呼ばれる方が、少ないんです」
「そうなんですか。なんか、フレンドリーですね?」
「いえ、なぜかうちの会社、“サイトウ”が異常に多くて。だから、下の名前で。しかも、社長もサイトウなんです」
「そうだったんですね? 凄い偶然ですね」
春がそう言うと、不意に亜弥と視線が重なった。亜弥の、大きな瞳に捉えられ、しばらく視線をそらす事なく、それを見ていた。
無意識に、キスしたくなる様な素振りになった意識を、かき消す様に春は我にかえった。
「あ、タクシー来ましたね」
亜弥に言われ、ガラス張りのドアの向こうに目を移した。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。また、週末の件は、僕から連絡いたします」
春は、そう言ってタクシーに乗り込み、亜弥と別れた。亜弥は、工場の敷地を出るまで、玄関の外でタクシーを見送っていた。
人を惹きつけるような、女性だったなと、春は帰りのタクシーの中で、亜弥の顔を思い出していた。胸の奥に感じる、くすぐったさが、春の気持ちを浮つかせていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
春のお仕事ではないですが、最近、シャンプーや柔軟剤、芳香剤のデザインがオシャレだなと感じる今日この頃です。
亜弥の会社名。社長はサイトウさんですが、社名はヒロカワです。内部で取締役が親族から変わった的な設定にしています。ご了承ください。
お話は、まだ続きます。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。