紗良の声
前回のお話から、時間が少し戻ります。
紗良の声が聞こえ始めたのは、2月にダイスケから、紗良の結婚報告を受けた、約1ヶ月後の事だった。
仕事で、デザインの材料にするための花の写真を撮りに、生花店に出かけた帰りだった。時間も退勤時間を過ぎていた事から、上司に承諾をもらい直帰することとした。
その帰りに、春は書店に立ちよった。普段は、ネットで買ってしまいがちなのだが、書店であらゆる本を目にするのは好きだった。書店でも、花の写真集や図鑑を手にして眺めた後、文庫本のコーナーに足を運び、推理物に手を伸ばした。
“相変わらず、推理物好きなのね?”
まるで、耳元で誰かに声をかけられたかと思い、春は辺りを見回した。しかし、客や定員の姿はなく、春だけが立っていた。
何か、聞き違いでもしたかと、耳を澄ませたが、店内に流れているJPOPや店の奥で、レジ対応をしている物音が聞こえたくらいだった。不思議に思いながらも、春は小説のタイトルを眺めながら、1冊手に取った。
“昔、私も読んだ小説の結末を、コーリくんが読む前に話したら、すっごく怒ってたね”
クスクスと笑いながら、声がまた聞こえていた。
春は、もう一度辺りを見回したが、誰もいない。怪奇的なその現象を、飲み込めずに戸惑った。
その声には、聞き覚えがあった。低く落ち着いた話し方。耳に馴染んで溶けるような心地良さがある、紗良の声だった。
「さ…ら…?」
恐る恐る、春は声に出してみた。
“うん。そうよ。久しぶりね?”
春は、もう一度辺りを見回した。
“驚かせてごめんね。辺りには居ないわよ。頭の中で話しかけてるわ”
「どう言う事? まさか、死んだとか? 幽霊なのか?」
“やだ。死んでないわ。でも、どうしてなのかは、私にも解らない。だから、あまり深く聞かないで”
紗良はまた、クスクスと笑って言った。その笑い声を久しぶりに聞き、春はまだ事実を受け止めきれずにいたが、胸がくすぐったくなるような、懐かしさを反芻させていた。
「結婚、したんだって? ダイスケから聞いた」
“うん”
紗良の返事に、春の綻んでいた胸の奥に、チクリとした痛みを感じた。喉の奥が締め付けられるようだったが、春は、声を振り絞るように、紗良に祝福の言葉をかけた。
「そうか。おめでとう」
“ありがとう”
紗良は、穏やかにそう答えた。
春のいる本棚の方に来た他の客が、春の様子を見て怪訝そうな顔をしていた。
慌てて春は、1冊の推理小説を手に取り、レジに向かって会計を済ませた。
そうして、スーツの胸ポケットからスマホを取り出すと、通話をしている素ぶりで、再び紗良に話しかけた。
「紗良は、元気にしてた?」
“うん。フランスで画家活動してるよ。大変だけど。楽しいわ”
紗良の声が、明るく弾んでいるように聞こえ、春は紗良の笑顔を思い浮かべていた。長い睫毛と、切れ長な目尻。笑うと目が細くなって、目がなくなるようだった。
“コーリくんは、デザインの仕事だったよね?”
「あぁ。デザイン兼、営業みたいなもの」
“だから、スーツなの? ふうん。似合うわね”
紗良に、頭の先から足の先まで 見られた様子で、春は少し緊張した。
“みんな、元気なの? ソノミやダイスケとは会ってるの?”
「たまにだな。それぞれ、仕事しているから、月1くらいで集まって、飲んだりしてる」
“ソノミは、中学の先生してるんだよね? ダイスケって、結局何をしているの? 最後まで就職活動してたけど”
「ダイスケは、ゲーム会社でデザインの仕事している。オレとソノミは土日休みだけど、アイツ不定休だから、集まる時はたいてい、ダイスケの都合に合わせている」
“相変わらず、顎髭生やしてるの?”
「あぁ」
紗良は、ダイスケの顔を思い出しているのか、クスクスと笑っていた。
“部屋飲みしてて、顎髭、ダイスケが寝ている間に剃った事あったね。怒られたけど、気に入ってたみたいだったのにね”
「紗良は、悪戯が過ぎるんだよ。さっきの小説の話も、思い出したけど」
“ごめんなさい”
紗良は、笑いながら謝っていた。 それにつられ、春の表情も綻んでいた。
穏やかな時間だと、春は改めて感じていた。こうして、再び紗良と話をする事が出来たことに、胸の奥で喜びを感じていたのだった。
「そう言えば、ソノミ経由でダイスケから聞いたけど。日本に来るんだって?」
“うん。そうなの。妹が結婚するから”
「妹、いたんだ?」
“そうよ。3つ下にいるの。お腹に赤ちゃんもいるんだって”
「そうなんだ」
春は、紗良の話を聞きながら、そう言えば家族の話は聞いた事がなかったと、気づいた。
「旦那と、帰って来るのか? 」
“そうね。彼、日本は初めてだから、楽しみにしているわ”
「みんなで会うなら、一緒に来ればいいんじゃないか?」
春は、軽はずみでそう言った。紗良に会う事は素直に喜ばしい事なのだが、紗良の夫となった男と会う事が、果たして本当に自分にできるのだろうか。言った後で、内心、しまったと思い少し困っていた。
“うーん。どうだろう。とても、静かな人だし。それに…”
紗良は、言葉を濁した。それが、春と言う元恋人に会わせる事への、夫に対する躊躇だと察した。
「そうだよな。悪い。気づかなくって」
“いいの。私も、気まずい思いしたくないから。仲間内で会いましょう。楽しみね”
「あぁ」
そう言って、紗良の声は消えた。
耳に当てていたスマホを持つ手が、低い外気温にさらされ、悴んでいた。スマホをスーツの内ポケットにしまい、はーっと、両手に息を吹きかけ、指先を温めた。
紗良との会話に、春の胸の中は鼓動が高まり、それでいて喜びを隠しきれない程、嬉しさで溢れていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
紗良の声が突然聞こえて来ましたが、後々、それらしき理由が出てきます。
お話は、まだまだ続きます。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。