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蹲る男  作者: 未月かなた
3/13

故意

「ほら、春くん。そーじきかけるから」

土曜日の午前中。

天気は良く、暖かな気温とそよぐ風が心地よく、春はソファーの上で文庫本の推理小説を読んでいた。

金曜の夜から泊まっている美里加は、我が家のように春の部屋の掃除をし始める。

読みかけの本のページの間を、指で挟むと、春は寝室へ向かった。その後ろ姿を、やれやれと呆れた顔で美里加は見送り、掃除機の電源を入れた。

ゴーゴーと、掻き立てるように聞こえる、掃除機の機械音も遮断する勢いで、春は小説に集中していた。ページが進むにつれて、どんどん、本の世界に入り込んで行っていた。

「…ん! もーっ。春くん、聞いてる?」

「うわぁっ。何だよ?」

「さっきから、呼んでたんだけど? ここもお掃除するから。掛け布団、お天気いいから干したいの」

「あぁ」

美里加に言われ、あちらこちらに移動する羽目になった春は、文庫本を片手にマンションを出ると、近くの公園に向かった。

“掃除、しないの? コーリくんの部屋でしょう?”

頭の中で、紗良が声をかけた。

「好きでしているんだから、やらせておく。オレだって、別に頼んでるわけじゃないし」

“そう…”

紗良は、不満げな雰囲気を醸し出し、そう言うとそれから暫く、話しかけてこなかった。

春としては、読書の邪魔をされずに済んだと、胸の中でホッとしていた。ベンチに座り、足を組むと文庫本を開いて再び活字を目で追った。


春は、小説の中の犯人を自分なりに頭の中で考え、登場人物の1人と踏んでいた。

太陽の日差しは穏やかで、風が心地よく吹いていた。春は、夢中でページをめくっていた。ストーリが佳境に差し掛かり、これから真犯人が分かっていく所だった。

どのくらい時間が経っただろう。時間を確認しようと、春はパンツのポケットに手を入れたが、いつも入れてあるスマホを部屋に、置き忘れていた事に気がついた。

そろそろ部屋に戻るかと、ページを文庫本に付いている紐の栞を挟み、パンツの後ろポケットにそれを突っ込んだ。ベンチから立ち上がり、両腕を広げて大きく伸びをした。あたりを見渡すと、人気がなく、静かな公園だと改めて実感した。

地面には、桜の花びらが舞い散り、桜の見ごろもそろそろ終わりかと、春は思っていた。

部屋のドアを開けると、鍵が閉められていた。鍵を開け、玄関に入ると、美里加のパンプスがすでに無くなっていた。

帰ったのだろうかと、リビングのあたりを見渡すと、メモがテーブルに添えてあった。

『帰ります』

とだけ、書かれたメモを見た後、春は、その隣に置いてあったスマホを手に取った。

美里加からの着信が1件、12時過ぎに入っていた。部屋の中に置き忘れにしていた事も、着信音で気づいたのだろう。特に、伝言や、メッセージはスマホに残されていなかった。

美里加が帰ったことを、あまり気にも留めずに、春は、コーヒーを入れた後、ソファーに座り、再び小説の続きを読み始めた。

犯人は、予想もしていなかった人物で意表をつかれた。脇役にも匹敵するくらいの目立たない存在だった。

小説を一気に読み終え、事件が解決したが、また少し読み返して、トリックや動機を再確認したいと思っていた。

陽が暮れかけたせいか、部屋の中が薄暗く感じた。春は窓の外を見るように、レースのカーテンを小さく捲った。薄っすらとした空と陽の光をぼんやりと眺め、1日終わってしまったなと、空の景色と時間の経過を、儚げに感じていた。

不意に、春がリビングから部屋続きになっている、寝室に目を移した。

「あ…れ?」

寝室を良く見ていると、何か、物足りなさを春は感じた。それが、壁に掛けてあったはずの、紗良が描いた絵がなくなっている事だと、すぐに分かった。

とっさに春は席を立ち、寝室へ向かった。掛けられていたはずのあたりを探して見たが、絵はどこにもなかった。午前中、掃除をしていた美里加は、あの絵を嫌っていた事を春は気にかけた。

春は、再びリビングに戻りスマホを手にして、美里加にメッセージを送った。

『寝室の絵、どこにやった?』

すると、直ぐにレスポンスが返ってきた。

『捨てた』

その言葉を読んだ瞬間、ふっと沸くような怒りを堪え、春は頭を抱えた。

美里加に対する、身勝手な行動が理解できず、美里加への怒りの感情ばかりが、頭の中を埋め尽くしていた。

怒りの矛先の、美里加に対する思いは、煮えくり返っていたが、沸点が振り切ったのか、春は自分を客観視し始めた。

オレは、いつまで紗良への想いに縋って(すが)んだ? あの絵がある事で、オレにとって、紗良の存在証明として教訓しているんじゃないのか? いい加減、もう、あの絵は無くてもいいのだろうか…。


紗良の存在は、絵だけでは無く、不意に現れる。声が聞こえる以前の事だ。

それは、決まって夢の中だった。

夢の中で、春と紗良は既に別れた後の2人だった。お互いの立場を弁えた距離感は、触れそうで、触れられない。

もう、昔の恋人同士には戻れないのだと、夢の中でも春は理解していた。その瞬間、胸の奥がぎゅうっと締め付けられるような、切なさを感じていた。

夢を見た日は、暫く胸の中に紗良への気持ちが、余韻のように残っていた。


美里加からのメッセージに対して春は、何も答えずにいた。

白い壁には、在ったはずの紗良の絵がもう、何処にもないのだ。

「いつか、忘れてしまうのだろうか…」

春は、不安げな思いを声に出していた。

“そうかもね。いつか、お互いの幸せで、記憶が薄れてしまうのかもしれない”

頭の中に、再び聞こえた紗良の声が、そう答えた。

「紗良…」

春は、紗良の返答に言葉を詰まらせた。紗良の言うそれは、もしかしたらとても自然な事なのかもしれない。けれど、未だ想いを消化しきれず、心に残している春にとっては、受け入れ難い事だった。

“こーりくんには、身近に、充実した恋人がいる。けど、こーりくんの心は、何処か、心そこにあらずよね。それが、彼女さんは気づいているんじゃないかな。虚しいと思うよ。付き合っているのに、まるで片想いしているみたいで。こーりくんは、本当に彼女さんの事、好きなの?”

紗良は、穏やかに話していたが、春には問い詰められているような気分だった。感情の居心地が悪くなり、春はムッとして、少し黙り込んでいた。

“昔も、そうだったね。ケンカすると、コーリくんは黙ってしまう”

「悪い、少し1人にしてほしい」

“…ごめん。言いすぎた”

そう言って、紗良はまた、春に話しかけずにいた。


お読みいただき、ありがとうございました。

推理物は、作者も一気に読み更けてしまう方です。


次回も、どうぞよろしくお願いいたします。

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