雨音をかき消す衝撃
1話目の、2ヶ月程遡った状況の話しです。
2月。
雨がひどく降っていた日だった。
気温が低く、クライアントとの商談の為、外を歩いていた春の息が、白く映し出されていた。そうして、傘にぶつかる雨の粒たちが、耳元で大きく響いていた。
「紗良が…した」
雨音で、美大時代の友人のダイスケの声はかき消されていたが、はっきりと、紗良の名前は捉えていた。久しぶりに聞いた、その名前に、春の胸の奥がぎゅうっと締め付けられた。
「え? 紗良が、どうしたって?」
寒さでかじかむ指先のまま、春はスマホの音量を上げた。
「結婚した」
その瞬間、大きく響いていた雨音や、道路を走る車の音、様々に聞こえる雑音が一瞬でかき消されたようだった。
春は、ダイスケから知らされたその事実を、受け止める事が出来ずにいた。
「…り? 郡、聞いているか? ソノミから聞いたんだ。相手は、フランス人とか言ってた」
ダイスケの声が、気の遠くなっていた春を呼び戻した。
「あぁ。そうなんだ」
「卒業以来、海外行っちまって音沙汰なかったけど、フランスで元気にしているみたいだ。向こうで、画家として活躍しているらしいぞ」
紗良の、結婚が春に大きな衝撃を与え、ダイスケの話が遠くで聞こえて頭に入らなかった。
「今度、日本に来るらしい。来たら、皆んなで会おう。…郡? 聞いてるか?」
「あぁ。わかった。うん。じゃぁ」
電話を切ると、春は、ダイスケとの会話を再確認していた。
“紗良が結婚した? まだ、海外にいるんだな? こっちに来るのか。オレは、紗良に会えるのか?”
立ち止まり、暫く考え込んでいると、雨が次第に強くなっていた。地面を跳ね返す雨粒が、革靴やスーツの裾を濡らしてく。
心の整理は全くつかない。春は、大きなため息となって見えた、白い息が舞い上がり消えていくのをただ、ぼんやりと眺めていた。
「あ、ごくろーさん。どうした、郡くん。死相が出てるみたいに、真っ青なツラしてるよ? お得意さんのヒロカワ製紙さん、OKもらえなかったか?」
会社のドアを開けた途端、直ぐそこに立っていた篠田に声をかけられながら、春の肩をボンボンと笑いながら叩いた。篠田は、春の部署のチーフをしている男で、所帯を持って以来、みるみる腹が豊かに膨らんで言ったと、初めて会う営業やクライエントに、話すのが決まりのようだった。
「戻りました。いえ、無事に商談成立。デザインも、期待以上だと喜んでくれました。顔、青いですか? 外、寒かったからですかね」
春は、篠田からはぐらかすように答え、デスクについた。
その後も、自分がどうやって仕事をこなし、帰宅したのか記憶が消えるほど、紗良の出来事が頭の中を埋め尽くしていた。
部屋の明かりが眩しすぎて、春は電気をけして寝室の壁にかけられた、一枚の絵の前で座り込んだ。
カーテンの空いた、窓からは月明かりが差し込み、藍色に部屋が染まっていた。
モノトーンで描かれた、一枚の絵。それが、この部屋に存在する、唯一の紗良の物だった。
美大時代に、同じ水彩画を学んでいた紗良と、ダイスケ、ソノミ。
紗良は、物静かであまり話をする方ではなかった。
黒く、長いストレートの髪を束ね、色のある服はあまり好まず、シンプルなモノトーンが多かった。力のある印象の、大きくて切れ長な目。薄い唇には、淡いピンクのリップを塗っていた。化粧は薄く、肌が白く透明感があった。
「これ、コーリくんの?」
講義室で、風で飛ばされたプリントを拾ってくれ、紗良が始めて声をかけた。
低くて落ち着きのある、紗良の声が春の耳に心地よく聴こえていた。
第一印象は、クールで近寄りがたい印象だった。けれど、紗良が気になりつつ、声をなかなか掛けられずにいた。
ただただ、目で紗良を追う事しか出来なかったが、学科の歓迎会をグループで開催した時に、ダイスケとソノミ、そして紗良との距離が縮まった。
きっかけは、他愛の無いものだった。今思えば、ゆるキャラか何かのキャラクターの話で、バカみたいにゲラゲラ笑った事だった。
長いまつげをした紗良の目尻から、小さく涙の粒が溢れた。
「あはは。もー。おかしい。コーリくん。私、お腹痛いよ」
細く長い指でそれを拭った仕草すら、鮮明に春は、紗良の隣で見ていて覚えていた。
その後は、紗良やソノミ、ダイスケと集まっては飲んだり、出かけるようになっていた。
そうして、春と紗良は、1年生の夏頃に付き合い始めた。
今思い返せば、好きとか、告白した覚えは、互いにないような気がしていた。
お互い、静かな場所が好きで、美術館や図書館、海や山、部屋で何もせずにダラダラと過ごすこともよくしていた。
付き合っていた当時は、一緒にいるだけで幸せな気持ちだったが、お互い、創作に対しては譲れないところがあり、衝突したりもした。
紗良は、群を抜いて絵の才能があった。芸術肌が強く、就職活動をしていた春達とは違い、海外へ向けて絵の勉強をする事を、決意していた。そんな、紗良を尊敬していたが、心のどこかでは羨ましく思っていた。
強がりが100%だとは言え、春は裏腹に、紗良の門出を祝い、背中を押すようにして、別れを告げた。
それっきり、音沙汰なく5年が経っていた。
心のどこかで、いつか、紗良が自分の元に戻ってくるのではないだろうかと、浅はかな期待を胸にしまい込んでいた。
お読みいただき、ありがとうございました。
昨日は、久しぶりに降った雨でしたが、気温もぐっと下がって寒さを再び感じました。
お話は、まだまだ続きます。
今後も、どうぞよろしくお願いいたします。