春の前に現れる彼女たち
紗良の声が聞こえなくなってから、1月程経った。
春の中でも、あまり、紗良の事を考える事がなくなっていた。仕事の案件が立て込み、幾つかの会社からデザインの商談を貰っていたからだった。
流石に、ダイスケのように昼夜逆の生活ではないが、終電近くまで残業をして、風呂と寝るだけの為に部屋に帰るような日々が続いてた。
通勤電車の中も惜しまずに、睡眠をとる。昼間は、軽く食事を摂ると、外のベンチで昼寝をしていた。
週末は、泥のように眠り、気がつけば夕方なんて事もあった。そのため、亜弥から何度か誘いのメッセージが来ていたが、暫くはそれを断っていた。
亜弥は、日常的にはあまりコンタクトを、取らないタイプなのか、週末に会う約束をする時くらいしかメッセージは来なかった。
取引先からの帰りに、ランチ時だった事もあり、春は近くで食事をしようと店を探していた。オフィス街で、辺りはビルばかりではあるが、よく見ると、飲食店があちこちに店を構えていた。
「郡さん…?」
対面から歩いてくる女性に声をかけられ、春は立ち止まった。小柄で髪を頭の天辺で団子にし、丸い顔がそれにとても似合っていた。
「あー。確か、ダイスケの…」
「はい。加那です」
にこりと笑顔を見せ、ダイスケの彼女である、加那は言った。
「仕事? この辺なの?」
「はい。郡さんは?」
「オレは、取引先からの帰り」
「そうでしたか。あ、郡さん、お昼済ませましたか?」
加那が春に言った。
「いや、これから。丁度、どこかに入ろうかって思ってたんだ」
「あの、ご迷惑じゃなければ、一緒にどうですか? お店、知ってるので」
「ありがとう。助かるよ」
オレは、加那の提案に快諾して一緒に歩き出した。加那は、近くのカフェにオレを連れて行き、中へ入った。
観葉植物や解放的な窓と天井の空間に、ゆったりめのソファーが席を構えていた。
「ここのピラフと、ハンバーグのセットが美味しいんです」
加那は、メニューを指差して春に説明をしていた。他にも、ポークジンジャーや、グリーンカレーなど、メニューは様々だったが、春は、加那のおすすめを選択し、2人でそれを注文した。
「ここは、よく来るの?」
「はい。落ち着く感じがあって、気に入ってるんです」
加那は、何か言いたげに少し、もじもじとしていた。
「あのう…。最近、ダイちゃんと会いましたか?」
おずおずと、伺うように加那が言うと、春は最後にダイスケにあったのは、確か亜弥と出かけた後だったと思い返していた。
「先月かな。だいたい、月1位だけど」
「その時、ダイちゃん、私の事と言うか、自分の事と言うか…何か言ってましたか?」
加那は、不安げな表情をして春に聞いた。春は、あの時のダイスケの話を思い出していた。
結婚。
2人の中で、気持ちがまだ、まとまってはいなさそうだったなと、春は思った。
「聞いたよ。でも、それが大なり小なりの事でも、オレが言う事ではないかな。ダイスケの気持ちを知りたいなら、ダイスケに加那さんが聞いてみた方がいいと思うし」
「そうですね」
加那は、春の答えに少しがっかりしたのか、肩を落としてしまっていたが、顔を上げて春を見た。
「では、質問を変えます。郡さんだったら、結婚をどう考えていますか?」
真剣に見つめる加那の顔に、春は少し視線を逸らして考えた。
「オレは、ダイスケと立場が違うから、加那さんの参考になるかは、分からないけれど。好きになって、大事にしたいと思えるような人がいて、その人と、ずっと一緒にいたいと思たら…考えるかなぁ。でも、それって、どういう時なのかとかは、タイミングもあるのかな。オレ、まだ、そう言う気持ちになった事ないから」
話しながら春は、自分が一体、何を言っているんだと、気恥ずかしくなっていた。
加那は、話を聞きながら小さくため息を吐いた。
「私は、できれば早く結婚したいんです。周りの友達もほとんど結婚して、子供もいて。羨ましいなって。でも、ダイちゃんは、まだ、私と結婚したくなさそうで」
春は、ダイスケが話していた事を思い出してた。ダイスケの気持ちも分からない訳ではない。男にとっては、責任がさらに重くかかって来る。仕事も充実していれば、そこにも力を入れたい所だろう。
春から見れば、加那の周囲で結婚ラッシュが起こり、置いていかれたように感じているだけなんだろうがと、内心思っていたが、人それぞれ、違う訳だし、ダイスケだって、行く行くはとは思っているようだから、気長に待つしかないのだろうにと、思っていたが、口には出さずにいた。
「あまり言うと、ダイちゃんに嫌がられるかもって。最近は、言わないようにしてるんですけど…」
それまでは、加那からの結婚へのプレッシャー地獄だったのだろうと思うと、春はダイスケに胸の中で同情した。
「オレが言うのもなんだけど。ダイスケは、加那さんの事は好きだし、大事にしてると思う。だから、信じて待っているのもいいんじゃないのかな」
「はい…。ありがとうございます。郡さんにそう言ってもらえると、安心します」
「いや、オレは自分の考えを、言ったまでだよ。でも、アイツの事は、信じて大丈夫だと思うから」
加那の表情が綻び、それを見て、春もホッとしていた。
昼食を済ませ、加那は時間だと言う事で先に帰る事になった。食事代を春が持つと言い、加那は礼を言って職場に戻って行った。
春は、食後にコーヒーを飲んでいると、後ろの座席の客の声が耳に入り込んだ。
「良かったー。平日休み取れて。プレセールでいろいろ買えたんだ。ごめんね、仕事なのに昼休みつき合わせちゃって」
「いいよ。何? 彼の見送りしてきたの?」
「うん。今朝、新幹線で金沢に帰ったよ。彼、平日休みだから、昨日今日って、私は有休とってたの」
「遠距離かぁ。大変だね? 淋しくないの?」
「んー。いない間は、他の人と遊んでるし」
春は、後ろの席で会話をしている女性の声に、聞き覚えがあった。
「えっ? なにそれ? 二股とか?」
「うーん。付き合ってないけど。彼よりイケメンだよ。その人も私と同じ、土日休みだから、都合つきやすくて。でも、最近忙しいみたいで、連絡も来ないんだ」
「えー! 亜弥って、そう言う事できるタイプだったんだ?」
「バレなきゃいいじゃん。それに、これから付き合えるかなって言う、片想いしている時間も楽しいし」
「私、その話、聞かなかった事にしておくよ。だって、どっちの彼にも良くないじゃん?」
「ごめん。話題変えよう」
相手の女性が言った言葉に、2人の雰囲気が悪くなったのを察した。春は、話していた女性が誰だかが見当がついていた。
間違いなく、後ろで話している客が、亜弥である事と断定していた春は、2人の話を聞いていて、虫の居所が悪かった。
自分が、まさか二股の餌食になりつつあるのかと言うことよりも、亜弥の本音を知り、一緒に過ごしていた亜弥の人格を疑っていた。
コーヒーを飲み終えると、オーダーした紙を手に取り、席を立った。
そうして、くるりと振り返り、わざと亜弥の横を通り声をかけた。
「こんにちは。近瀬さん。聞き覚えのある声がしたので、まさかと思いましたが。こんな所でお会いするなんて、奇遇ですね。それじゃ」
満面の笑みを見せ、春は亜弥を見ていた。亜弥は、話を聞かれていた事に気付き、バツ悪そうに視線を逸らし、何も言えずにいた。
会計を済ませ、店を出ると春は不思議と清々しい気持ちだった。
亜弥は、見た目にはとても可愛くていい子だとは思っていたが、さっきの出来事を知り、一気に気持ちが萎えていた。
あー言うのが、小悪魔ってやつか? と、春は自分がその手に乗らされていた事に、可笑しくなり小さく笑った。
本気になった訳ではない分、心の痛手は擦り傷にもならない程だったが、どこか胸の中がスーッとする感じが残っていた。
立て込んでいた仕事に、ようやく目処が立ち、珍しく定時で帰れた。
久しぶりに、自宅で夕飯を作ろうと意気込み、帰り道にスーパーで食材を買ってっ帰ってきた。家に戻った途端に、雨が降り出し、窓を開ける事も出来ず、厚手のカーテンを引いてソファーに座ると、タバコを1本吸い始めた。
2、3口吸った所で、インターフォンが鳴り、春はタバコを口にくわえながらモニターに映った人物を確認した。
すると、深刻な表情をした美里加の姿が、そこにあった。春は、通話を押すと、美里加に声をかけた。
「どうした?」
「突然、ごめん。少し、話できないかな?」
春は、タバコを1口吸い、ため息を絡めて煙を吐き出した。
「上がれば?」
そう言って、春は解錠のボタンを押し、美里加を部屋に入れる事にした。
今更、何を話すと言うのか。春は美里加に対して冷淡な気持ちで出迎える事にした。
タバコの煙が苦手な美里加に、少しでもの配慮で換気扇を回し、彼女を部屋に入れた。
小花の刺繍の入ったフレアーのスカートに、水色のブラウスには、少し水玉に湿った跡が見えた。
「座って。コーヒーでも飲むか?」
「ありがとう…」
美里加は気落ちした様子で、春にそう言った。電気ケトルで湯を沸かし、待っている間、春は換気扇の下でタバコを吸い終えた。
沸いた湯をカップに注ぎ、コーヒーの香りが、辺りに充満した。換気扇を止めてはいたが、タバコの残り香とコーヒーの混ざり合ったその香りが、春は好きだった。
「話って?」
春は、テーブルにコーヒーの入ったカップを置き、美里加と横並びに座った。
春が尋ねると、美里加は俯いたまま、少し言葉を溜めるように、そうして口を開いた。
「……私達、やり直せないかな?」
美里加は、顔を上げて春を見て言った。暫く視線を重ねていたが、先に逸らしたのは春だった。
「分かってる。春くんの気持ちは。きっと、まだ、あの絵を描いた人が好きなんでしょう? それでもいい。私、やっぱり、春くんと一緒に居たいの…」
美里加は、じっと春を見たまま言った。瞳が潤んで、微かに声が震えていた。肩が触れそうな距離感のせいか、美里加の髪の花のような匂いがほのかに香っていた。
春は大きく息を吐き、頭を抱えた。そうして、首だけを回して下から覗き込むように美里加を見て言った。
「それって、辛くないか? オレに美里加の気持ちがないまま、一緒にいるって。オレだったら、虚しくて嫌だ」
「いいのっ!! それでも! それでも、一緒に居たいの…」
美里加は横に首を振り、声を強めた。そうして、春の右腕に、必死でしがみ付いた。春はそれを払うでもなく、静止したまま考えていた。
一緒にいる分には、気楽で済む。けど、少なからず亜弥の時に感じた、胸の中を浮つかせるような気持ちは、美里加には無かった。
『あー…。なんか、感情が麻痺する。もう、それでもいいやって、思えるオレがいる…』
これまで、溜まりに溜まった仕事の疲労感と、亜弥から受けた擦り傷もあり、春の思考回路が鈍っていた。
春は、美里加の腕を解き、そうして体を抱き寄せた。人の体温がこんなにも心地よく、安らぐ事を、春は改めて実感した。
自分の感情を、言葉で表さず、このまま美里加を抱いてしまえば、また、同じ事の繰り返しなんだと言う事を、春は頭の片隅で理解していた。
美里加の両腕が春の背中に回ると、ポニーテールをして綺麗に現れた首筋とうなじに、春は顔を埋めた。それが、着火剤かのように、春の理性の箍を外した。
美里加にキスをした後は、ソファーに身体を押し倒し、胸の奥にある虚無感を無視するように、快楽だけを得るために、身体を重ねた。
結局、春は美里加への気持ちを言葉にしないまま、再びそれを受け入れるように、美里加を抱いてしまっていた。
行為の後、冷めたコーヒーを2人で飲み、腹が減っていた事を思い出すと、美里加は違和感なく、キッチンへ立ち夕食を作り始めていた。その光景は、日常と言っていいほど溶け込み、馴染んでいた事を春は分かっていた。
春は、タバコとライター、灰皿を手に持つとベランダへ出た。そうして、タバコに火をつけ煙を吸った。いつも吸っているタバコのはずなのだが、あまり味が分からないでいた。そうして、煙を吐くと湿気った空気にそれが混ざり合っていた。
「オレ、何してんだろ」
ポツリとつぶやいて見たが、もう、紗良の声は聞こえなかった。
細かい雨粒がベランダ入り込み、顔にそれが当たっていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
亜弥の登場はこれでおしまいです。
そして、再び元カノ 美里加の登場です。
お話は、もう少し続きます。
次回もどうぞよろしくお願いします。




