1枚の絵
仕事の帰り道、線路沿いに咲いていた桜の木々から花びらが舞い散っていたのを見て、郡 春は、目を奪われた。
立ち止まり、しばらくその光景を眺めていると、スーツの胸ポケットに入れたスマホが振動し、現実に呼び戻された。
それを取り出し、画面を確認すると、美里加からのメッセージだった。
『お疲れ様。仕事終わったよー。今日も、お部屋行ってもいい? ご飯作るよ』
恋人の美里加は、週末部屋に来ては食事を作ってくれていたが、最近は平日に立ち寄り、半同棲のような状態だった。
食事を済ませていなかった春は、美里加に、
『わかった。待ってる』
と、返事を送って、スマホを再び胸ポケットに入れた。
桜吹雪が雪のように、舞い散る光景を再び眺めた。
春は、目の前に映る桜の木々の自然の情景や、建ち並ぶビルの建物の無機質感を、暫く眺めては、感覚を刺激させるそれが好きだった。
桜の、満開だった時期も見事だったが、こうして舞い散る光景と夜の背景が、春は好きだと思った。
きっと、美里加は食材を買って帰ってくるだろう。料理は上手い方だと思う。手際よく事をこなし、春の好きなものを、いつも作ってくれていた。
夕食の事を考え始めたら、腹も減って来たなと、春は再び歩き出した。
マンションにたどり着き、部屋の明かりをつけて窓を開けた。部屋に入り込む風がそよぎ、レースのカーテンを揺らしていた。
1日履いた革靴と、ネクタイから身を解放し、Tシャツとジャージ姿でようやく身が落ち着いた。
テレビをつけ、美里加が来るまでの間、バラエティー番組をダラダラと眺め、缶ビールを1本空けた。
インターフォンが鳴り、モニターに映る美里加の姿を確認して、春は解錠ボタンを押した。
「春くん、カーテン閉めなよ。外から見えるよ?」
部屋に入って来るや、美里加は春に言いながら、レースと、麻素材のグレーのカーテンを引いた。
「風が気持ちよかったから」
冷蔵庫から2本目の缶ビールを取り出し、ソファーに座りながら春は言った。テレビを真剣に見るでもないが、面等向かって美里加と話をするには、疲労感でいっぱいだった春は、それを避けた。
「今日は、パスタ作るね。春くん、トマト系好きでしょう?」
「あぁ」
ぼそりと返事をすると、美里加はニコリと両頬にエクボを作り笑んで見せた。春は、トマト系も好きだが、シンプルなオイル系やクリーム系も好きだけどと、思いながらその言葉は胸にしまって置いた。
部屋に置いてある自前のエプロンをかけ、美里加は早速料理に取り掛かっていた。
部屋の中には、美里加のものが至る所に存在している。洗面所の歯ブラシに始まり、メイク落とし、シャンプー、部屋着、化粧水。
始めの頃は多少、春はそれに対して居心地の悪さを感じていたが、今となっては、生活の一部なのだと言い聞かせ、諦めていた。
「今日ね、主任の機嫌が良くて、私の事、“美里加ちゃん”だなんて呼ぶんだよ。いつもは、芝崎さんって、怖い顔して呼ぶくせに。あれね、営業の若い男の子が来てたからなんだ。主任、あの人の事気に入ってるみたい」
美里加は、その日の出来事を話し始めた。春はそれを、BGMでも聞くかのように耳に流していた。視覚に入るテレビの映像がコマーシャルに変わり、夜の高層ビルの街中を、颯爽と車が駆け抜けていた。光が伸びるように映し出され、それが線のように光っていた。
「それでね、その営業の人が来た時には、主任を通すようにっだって。単に、自分が会いたいだけじゃんって、他の子と話してたの」
美里加の話は、まだ続いていたようで、時折春は、
「へー」
とか、
「そーなんだ」
と、適当な相槌を返していた。
「はい、できたよー。春くん、テーブル空けて」
両手にパスタの盛り付けた皿を持ち、立っていた美里加に言われ、春はテーブルの上の鍵やら郵便物をソファーに移した。
「湯気だったパスタからは、トマトの酸味ある香りと、ベーコンや玉ねぎがそれと絡められていた。
「うまそ」
「食べよう。いただきまーす」
美里加は、春の隣に座り、両手を合わせた後、フォークとスプーンで器用にパスタを巻きつけ食べた。春は、皿を持ち、フォークにパスタを巻きつけ、口の周りがトマトソースで赤くさせながら、黙々と食べた。
「美味しい?」
美里加は小さく首を傾げ、高く結んだ茶色い髪の束が、肩から滑り落ちていた。
「あぁ。うまい」
春がそう言うと、
「よかった」
と、美里加は笑顔のまま頷いて、パスタを食べ始めた。
食事が終わると、洗い物をしてくれる美里加を待ち、その後2人でベッドで抱き合った。
習慣と言うほどの日常的な行いに、春はある意味食後の歯磨きでもするかのような定着感だなと、行為の最中に思っていた。
「ねぇ、春くん」
行為が終わり、裸のままベッドに2人で横になっていると、美里加が春に話しかけた。
「ん?」
「私、あの絵キライ。なんか、陰気臭いくて。外さない?」
美里加は春の方にある壁に掛けられた、ハガキサイズの一枚の絵を指差した。キャンバスに描かれた一枚の水彩画は、モノトーンの配色で、黒く描かれた人と、背景。薄暗い背景の中、1人蹲っている。苦しんでいるのか、悲しんでいるのか、顔を地面に突っ伏しているせいで、表情は分からない。印象的に、暗い絵ではあるが、部屋が薄暗いせいか、余計にそれが際立って見えた。
春は、美里加の言葉に、暫く黙り、考え込んでいた。
その絵自体に思い入れがある、その“思い入れ”が、頭を過ぎったからだった。
「いや、外さない」
「そう。じゃ、仕方ない。でも、私はあの絵、キライだよ」
春に身をすり寄せ、肩に手を置くと、美里加は言い聞かせるように言った。
「あぁ。でも、外さない」
絵を見つめながら、引き戻される思いを振り払うように、春は身体を起こして着替えをし始めた。
その瞬間に、春の胸の奥で細い線のような何かが、プツンと音を立てて切れた。
「送る。そろそろ終電」
「もう、そんな時間。一緒にいると、時間があっという間。早く、週末にならないかな」
また来るんだと、美里加の言葉を聞きながら、春は何も言わずにきがえをしていた。
平日は、美里加は泊まらずに自分の家に戻る。一駅先に実家がある美里加は、終電に間に合うように春の部屋を出るのだった。
駅まで美里加を見送った後、春は再び桜並木で足を止めた。
そうして、パンツのポケットに忍ばせた、タバコの入った箱と、ライターを取り出すと、1本口にくわえて火をつけた。美里加がタバコの煙を嫌うため、春は一緒にいる時は、極力我慢をしていた。ビールを飲んでいた時点で既に、物足りない感じがしていたが、それを何気なく堪えていた。
ようやく吸えた、タバコの味を堪能していると、
“タバコ、彼女の前では吸わないのね?”
不意に、春の頭の奥で、声が聞こえた。それは、低く落ち着きのある、女の声だった。
「あぁ。美里加がタバコ嫌いだから」
“私といた時は、吸っていたのにね?”
クスクスと、笑いながら声の主は言った。
「そうだな。あの頃は、格好つけたかったんだ。紗良の前では」
“うん。知ってた”
紗良の声は、穏やかで、それでいてどこか遠くを見ているようにも感じていた。
“夜桜って、不気味だわ”
紗良は、2人の過去からそらすように、目の前の桜を見ているかのように、そう言った。
「オレは、好きだな。昼間、青空の下見るより。なんか、胸がドキドキする」
春は、誰かと話しでもしているかのように答えた。
“コーリくんの方が、感情豊かよね。私は、頑固だし”
ふてくされたような言い草で、紗良は言った。
「紗良は、こだわりが強いんだよ」
小さく笑いながら、春は、耳ではなく頭の中で聞こえる紗良の声に応えていた。
蹲る男 第1話。
お読みいただき、ありがとうございました。
丁度、桜の時期なのですが、このご時世。
花見と言えば、仕事の移動中に横目で眺めるのが精一杯の作者でした。
これから、話はどんどん展開していきます。
どうぞよろしくお願いいたします。