第百八話 緑ガメ
四歳になる孫の桃太郎が山中幸盛の家に遊びに来た。玄関まで出迎えると、顔を合わせるなり靴も脱がずに言った。
「おじいちゃん、カメ見に行こッ!」
「よし、行くか」
名古屋市内に住む息子の嫁がラインで到着時刻を知らせてきたので、腰にコルセットを巻いて待ち構えていたのだ。
幸盛が暮らす蟹江町周辺は水田が多く残っている。水田があるということは用水があるということで、幸盛が中学生の頃は道路も整備されていなくて暗渠も少なく、フナ釣りや、釣り針に小さな蛙を刺して葦や浮草の間の水面をポチャポチャ叩くライギョ釣りや食用ガエル釣りに熱中していた。
それから五十年以上が経過しているが、用水には未だマブナや蛙やドジョウがいるらしく、それらを餌とする鷺の仲間が東名阪自動車道・蟹江インターチェンジの木々に数千羽も営巣してコロニーを形成しているので、NHK番組『ダーウィンが来た!』で取り上げられるほどである。
田植えが終わったばかりの水田の中を、嘴と足が細長く羽根が純白の鷺が、抜き足差し足で獲物を探す風景を見るのは日常茶飯事だが、嘴も足も短いカラスがそれを真似て水田を歩く姿を見かけた時は笑ってしまった。カラスも雛をかかえている時期は必死で、出された生ゴミや大好物の赤ん坊のウンチをくるんだ紙オムツを発見するや、ネットをどけてビニールゴミ袋なんぞ食いちぎって路上にまき散らすのだ。
孫の桃太郎とはヨチヨチ歩きの頃から一緒に散歩に出かけているが、春先はまだ用水の水位が低いため、十メートルも歩けば必ず見かけるほどに、亀も多く住み着いている。
「また、おったーッ」
と桃太郎が興奮しながらキンキン声で叫ぶ。
一体全体、なぜこんなにも多くの亀がはびこっているのかをネットで調べてみた。
一九六六年に森永製菓が「アマゾンの緑ガメをあげます」というキャンペーンを行った。スキップチョコレートとチョコボールの景品として、毎週三千名、計一万匹を子ども達に送ったが、この時のミドリガメは今のミシシッピアカミミガメではなく、コロンビアクジャクガメという種類のカメだったらしい。
このキャンペーンでブームになったミドリガメは、キャンペーンが終わってからも子ども達に人気のカメということでどんどん輸入され、飼育人口がみるみる増えていった。
そして一九七〇年頃に、上野の不忍池で頻繁に目撃されたのを皮切りに、全国の河川や池などでミドリガメが目撃されるようになる。大きくなって飼いきれなくなったり、カメがサルモネラ菌を保有しているとする報道が一九七五年頃にあったりして、カメの飼育放棄に拍車がかかっていった。
こうして捨てられたミドリガメは、貪欲で力も強いため、在来種を駆逐してガンガン増えていったのだ。
例えば、岐阜県各務原市の農業用ため池『おがせ池』では、美しく見事な花を咲かせる睡蓮を古くから大切にしてきたのだが、二〇〇四年から激変して睡蓮が少なくなり、二〇〇五年には絶滅してしまった。その最大の原因は、ミシシッピアカミミガメの食害だった。
奴らは雑食性で、藻類や水草、水生昆虫、ザリガニ、エビ、貝類、魚類等様々なものを採食するので、やがて、蟹江インターチェンジに営巣する鷺たちの餌まで食べ尽くしてしまうことだろう。二年前から隣の弥富インターチェンジに鷺たちが全く寄りつかなくなったのも、ミシシッピアカミミガメが餌を横取りしたからに違いないと幸盛はにらんでいる。
そして今年も田植えの時期になった。この辺りの水田は木曽川から水を引いていて、用水は満々と水を湛える。その流れに乗ってミドリガメも水田に侵入し、太陽が燦々と降り注ぐ人気のない田んぼの畦道では、大小の亀がずらりと並んで甲羅干しする光景を見かけたりもする。
また、前立腺癌の放射線治療のため弥富市にある海南病院まで週に五回、全部で三十九回車で通ったが、その道中でも道路を横断しているカメや、車に轢かれてグシャッと潰れたカメを頻繁に見かけた。
近所の小公園を目指し、フェンスのある用水に沿って歩道を歩いていると、桃太郎が何かを発見した。
「あれってカメじゃない?」
見ると、道路の真ん中を、体長三十センチ、体高が十センチ以上ありそうな大きなカメがヨイショヨイショと移動している。どうやら水田から道路に這い上がり、横断した先にある用水を目指しているようだ。そこに車が何台も通過して行くが、この辺りの住人のようで巧みにカメを避けて行く。
「危ないから、助けてやろう」
桃太郎を抱き上げて近づくと、手足を引っ込めて空飛ぶガメラ状態になった。桃太郎が幸盛にしがみつく。
「かみつかない?」
「こうすりゃいい」
幸盛が右足を甲羅の下に差し込んで蹴り上げると、フェンスにガキーンと当たって下に落ちた。それをさらに蹴飛ばして、フェンスの下の隙間から用水に戻してやったのだった。