第七十六話:別れ、そして再会へ
激しい戦いの最中に意識が朦朧となる時はあった。
氷竜と戦った際に、吹雪の如き吐息を食らって身体が凍り付き、意識までも刈り取られそうになった時や、巨人どもとの戦いでうっかり棍棒の一撃をまともにもらい、壁に叩きつけられたりなどなど、苦労した戦いは山ほどある。
しかし、どの戦いであっても観音様の幻影を見た事は無かった。
「観音様の幻ですか。それこそ死ぬ間際などで無ければ見えぬものでは?」
貞綱の答えももっともである。
仏陀教の教えに忠実に生きてこそ、救済に来てくださる方のはずだ。
「しかしな、俺はあれを見た後に突如、更なる幻影が見えるようになった」
「更なる幻影? 今度は閻魔様でも見えたと言うのではないでしょうな」
「いや、見たのはお主の幻影よ。次なる行動に移る可能性を示した幻とも言おうか」
それを聞いた貞綱は、あっと口を開けた。
「どうした。鳩が豆鉄砲喰らったような顔をして」
「もしやそれは、初代さまが使っていた秘奥義ではありませぬか」
「初代? 三船家の開祖、宗忠が使っていたと」
「ええ。その名も曰く、涅槃寂静と言うとか」
涅槃寂静。
煩悩が無い、静かで安らかな世界。
即ち覚りを得た境地とも聞くが、その世界に足を踏み入れた故であろうか。
勝利への渇望も、自我も何もかもが失せ、純粋に相手を見たからこそ見えた物なのかもしれない。
「初代さまは鬼神との戦いの最中、もはやこれまでという程に体に傷を負い、動くのもままならぬという時に、この技に開眼したと聞き及んでおります。しかし、使えたのはその一度きりであったとも。その後の生涯で鬼神と同等か、それ以上の敵とも巡り合えなかったからでしょうか」
「となれば、貞綱は鬼と同じくらい強かったという事になるな」
「まさか。伝承の鬼は某とは比較にならぬくらいに強いでしょう」
とはいえ、笑みを抑えようとして口元がほころばぬようにこらえているのが見えた。
貞綱も齢三十を超えてなお、強くなっている。
鬼に対抗しうるほどに。
「何度も使えるよう精進し、その境地に至れるようになりたい所だ」
「まさにまさに。敵の動きや殺気を読むのではなく、はっきりと見えるようになればこれこそ最早敵なし、一騎当千でありましょう」
読み、ではなく見る。
それすなわち、予測ではなく予知、未来視である。
この秘奥義の力を伸ばせるのであれば、もっと先の未来をも見据える事が出来るのではないか。
それはまさに、国を統べる領主にとっては喉から手が出るほどに欲しい能力に違いない。
しかし、初代の宗忠ですらも生涯でただ一度しか使えなかった秘奥義。
幾度となく使いこなす為には、心を研ぎ澄まさねばならない。
今までの俺には足りなかった、心の鍛錬が必要となる。
座禅を組み、自分を見つめ直す時を増やさねばならない。
自分の心の奥へ、もっと奥へ。
そしてあらゆる欲、執着を捨てる。
それは俺の生きる意味と相反するものであり、いつ悟りが得られるかは分かったものではない。
今すぐには無理であろう。
とはいえ、あまり時間は残されていない。
荒行が必要やも知れぬ。
愛する人を思っていたい気持ちは執着に他ならない。
仏は悟りを得る為には大切なものすら捨てよと仰る。
俺にはひどく残酷なように思える。
あるいは、この世は全て残酷であるのかもしれない。
「さて、今宵はこれにてお別れとなりましょう。女王様が背後よりまだかとせかしております」
「うむ。ところで、マルクには生きているのを伝えなくて良いのか」
生きていると伝えてやった方が、あの子も喜ぶであろうに。
しかし貞綱は、首を振った。
「いいえ。もはや某は亡霊です。マルクが知ったら某に会いたがり、若を困らせるでしょう。それに、あの子はもっと広い世界に旅立って欲しいのです」
「そうか。それならば心に秘めておこう。貞綱よ。長年に渡る俺の世話、御苦労であった」
「いいえ。若の幼き頃より成長した姿を見られて、傅役であった某は幸せでありました。これよりはマルヤム女王の影となって支え、女王さまが成長する姿を楽しみにしております」
「また本当に困った時が訪れたら、女王の言伝通りにお主を頼りにしても良いか?」
「是非。いの一番に駆けつけましょう」
貞綱は膝を着き、頭を下げて応えた。
もはや今後、会う時はほとんどないであろう。
しかしこれが今生の別れではない。
運命の女神の気まぐれ次第では、いつかはまた運命が交わる瞬間は訪れる。
「いずれまた、会う機会はありましょう。それまでお別れです、宗一郎さま」
「ああ、いずれまた会おう。結城貞綱よ」
言葉を交わし、俺は入口の前に佇んでいた女王の使いの者へと頷く。
「宜しいですか。ではお帰りの道をご案内します」
「ああ、頼む」
行きと同じように人の目を避け、俺は城を出て宿に戻った。
宿では何も知らぬまま寝台で眠っているマルクの穏やかな寝顔があった。
その寝顔を眺めながら、再び背嚢を探ってドワーフの火酒を硝子の杯に入れ、あおる。
喉が焼け付き、胃の腑が燃え盛る。
いまはその火の勢いが心地よかった。
* * *
「そうか。シルベリア王国のマディフ王は崩御し、代替わりしたか」
一週間後、俺とカナン大僧正はイル=カザレムに戻ってきていた。
戻ってすぐにフェディン=エシュア王と謁見する事になっており、国境に来た時点で王国兵たちに半ば拉致されるかのように連れてこられた。
謁見の間にて、エシュア王は椅子に座りながらしきりに顎鬚をなでつけ、肘置きに体重をかけたまま頬杖をついて憮然としている。
「はい。マディフ王は蘇生の儀式を行っても現世に戻ってくる事は叶わず、埋葬されました。エシュア王、なぜそのような顔をなさっておられるので?」
「ミフネよ。そのマルヤム=マリカ=シルベリアなる女王は王の器にふさわしいものであると言ったな」
「はっ。賢者の力と知識を受け継ぎ、なおかつ国を統べる覚悟や胆力は十二分に備わっていると思われます」
「つくづく残念であるな。マディフ王が居なくなり、シルベリア王国が更に混乱の渦に巻き込まれてくれれば、攻め入る口実を作れたものを」
「エシュア王。冗談が過ぎますぞ」
カナン大僧正に嗜められ、対して王は笑いで応える。
「半分は冗談だが、もう半分は本気よ。シルベリア王国の勢いは衰え、国内も荒れているとなれば、領土を切り取る事も不可能ではない。何せあの国は貴金属や鉱石が多数産出される。国土も豊かで食料生産も多い。我が国の国土は半分が砂漠であり、いつも食料には頭を悩ませている。領土を奪えれば、我が国にとっては良い事づくめではないか」
しかしマルヤム女王が新たに王となった事で、その企みは潰えた。
「賢者の力を持つ王など恐ろしいものよ。もしその女王が野心に燃える者であった場合、容赦なく力を振るい隣国へ侵攻するであろう」
「考えすぎでしょう。マルヤム女王はその様な御方ではありませぬ」
「ミフネ。国を治めるのであれば常に想定せねばならぬのだ。最悪の事態を考え、常に備えておかねばならぬ。特に強力な指導者が隣国に現れたとなれば、嫌でもな」
「それに、女王自身がそうでないとしても、国民の声に押されて戦争を仕掛ける可能性もありますしね」
カナン大僧正が言うと、王は大きく頷いた。
「そうだ。王は民の声に、願いに応えねばならぬ。王だからといっても無限の権力が備わっているわけではない。民の声を無視した政を続けていれば、いつか民に見限られ、背後から刺されるであろう」
それはマルヤム女王にしても同じ事だ、とエシュア王は言った。
「とはいえ、当初の目論見通りに恩は売れた。こちらとしてもシルベリア王国が荒れていては輸入がままならぬので困っていたのだ。シルベリア王国の国内情勢が安定し、輸入が元通りになるのであれば願ってもない事だ」
王の言葉に、俺はホッと胸をなでおろした。
ここで国家間の争いが勃発したら、俺は何のためにカナン大僧正を助けに行ったのかわからなくなる。
やはり国家間の争いなど起きてほしくはない。
かつての故郷は戦乱に次ぐ戦乱が起きていたが、民は果たしてそのような領主に対してどのような想いを抱いていたか。
俺と同じように、戦いは望まなかったのであろうか。
それとも、戦いを利用して成り上がってやろうと考えていたのであろうか。
王との謁見を終え、俺とカナン大僧正は城の入口で待っていたマルクと合流し、城を出た。
「それで、マルク少年はどうするおつもりなのです」
カナン大僧正は戻る道すがら、ふと言った。
マルクはきょとんと大僧正を見上げている。
「どこにも行く当ては無いのでしょう。もしよければ、我がサルヴィの寺院で保護し、大人となるまでは育てましょうか。ミフネ殿には多大な恩もあります」
しかし、マルクの答えは決まっていた。
「いやだ。だってイアルダト教のお寺なんだろ。おらはシュラヴィク教徒だ。まっぴらごめんだね」
「とのことです。すみません、折角の厚意を無下にしてしまって」
「信仰が理由なら致し方ないでしょう。しかし、ミフネ殿がこのまま育てるおつもりなのですか」
「俺が? 俺がマルクを育てたら侍に似た何かにしかなりませんぞ。そうなったら冒険者一直線。それが悪いとは言いませぬが、貞綱はもっと広い世界を見てほしいと言っておりました」
「ならばどうなさるので?」
「一つ心当たりがあります。そこに預けようかと。そこなら見聞を広める知識と共に、世界を歩けるだけの力を授けてくれるかと」
「そうなの? おら、強くなれる?」
「ああ。お主に教育を施してやれる。読み書きを覚え、商売を覚えて世界を歩けるように仕込んでくれるだろう。今度はお主が教祖様の教えを広めていくんだ」
「へえ、なんだかわくわくするなあ!」
カナン大僧正は渋い顔をしたが何も言わず、そのまま別れた。
俺たちはある場所へと足を運ぶ。
ちょうどそこに用事もあるし、迎えに行ってやらねばならぬ相手もいる。
きっと首を長くして待っているであろう。
早く会いに行ってやらねばな。




