第六十一話:剣鬼
深手を負わせた俺を憎く思っているのだろう。
洞窟竜の小さい目は青から赤に変わり、怒りの色を示していた。
聖堂は広いが、人を集め祈りを捧げる為の作りである為に障害物となる物はほとんど存在しない。かろうじて柱が立っているものの、洞窟竜ほどの大きい魔物であれば、そんなものは障害にすらならないだろうが。
逃げ場所も隠れ場所もここにはない。
しかし、洞窟竜は俺に殺意を向ける前に違う方向に頭を向ける。
「え?」
その視線は明らかにマルクの方を向いていた。
幾ら再生が出来るとはいえ、その為に使う体力や栄養は無尽蔵にあるわけでもない。
まずは弱い奴を喰らい、腹の足しにしてから俺を襲うつもりか。
巨体に似合わない素早さで、洞窟竜はマルクに襲い掛かる。
「うわぁああああああっ!」
マルクが叫ぶと同時に、貞綱は刀を抜いて駆け出した。
走りながら身体に白い靄のようなものを纏わせ始めている。
走りながら霊気を巡らせているというのか。
霊気を巡らせるための呼吸法は、少なくとも静止している時かあるいは歩行状態でなければ俺は出来ないというのに。他の三船流を学んだものでも同様だった。
貞綱の体から、やがてはっきりとした霊気の層が身体の表面に出来始めた。
さながら身体を守る鎧のように全身を覆っている。
霊気をまとった脚で跳躍するや否や、瞬く間に洞窟竜の頭部の高さにまで達している。
洞窟竜はこの男の存在は認知していたものの、一度も出会った事が無く殺気を帯びても居なかったので無視していた。
しかし自分に害を成す存在であると認知し、すぐさま動きを変えて貞綱に襲い掛かる。
単純な噛みつきではあるが、洞窟竜の大きさであれば丸呑みされ、命を失う必殺の攻撃となる。
「破」
わずかな呼吸の音を、確かに聞いた。
瞬間、洞窟竜の頭部が縦に真っ二つに切断されていた。
抜刀した音も、刀を振る音すらも聞こえなかった。
俺に見えたものは、下から斬り上げ終わった状態の貞綱と、頭から血を噴き出している洞窟竜だ。
いつ抜刀したのかすら見えなかった。
洞窟竜は頭部を切断されてもなお、青い血を撒き散らして痛みでのたうちまわっている。
更に貞綱は洞窟竜の胴体を、「物干し竿」で次々と切断していく。
生半可なやり方では死なない事を知っているのだろう。
長い体は、やがて何等分されたか分からぬほどに細切れにされ、ようやく洞窟竜は死を迎えた。それでもしばらくは不気味に痙攣しており、細切れになった身体をくっつければ再生を始めるのではないかと思うくらい動いていた。
「こんな魔物を使おうと思っていた程、信者達は追い詰められていたのかもしれぬ。せめて一言相談してくれれば……」
貞綱は下唇を噛む。眉間には皺が寄り、唇からは血が流れていた。
その時、俺は震えていた。
あれだけ俺が苦労して退けた洞窟竜を一瞬で分断し、殺しきるとは。
「やっぱり教祖様はすげえよ……」
マルクのその声に同意するばかりだ。
剣鬼というあだ名もあながち間違いではない。
年月が過ぎても師匠の剣技はいささかも衰えを見せていない。
むしろその鋭さはより増していると言っても過言ではない。
異国の地においても鍛錬を続けている証左だ。
勝てるのか。
俺は貞綱との立ち合いでは過去一度も一本を取ったことが無い。
流石に真剣ではなく木剣での戦いだったが、それでも片腕を折られたり青あざを無数に作っていたように思う。
対して貞綱は俺の打ち込みをことごとく避け、受け流していた。
勝てるのか。
いや、臆する事は無い。
俺とて国を出てから戦いの最中に身を置き続けてきた。
貞綱が技を研ぎ澄ませているのなら、俺も成長しているはず。
身体は幼い時より確実に大きくなり、筋力も付いた。
技もあらゆる魔物と戦う事で磨いてきた自負はある。
特に他の冒険者との争いになったとき、斬り合いで一度たりとも負けた事は無い。
洞窟竜は倒しきれずとも、人は倒せる。
貞綱とて人間には変わりない。
刀による一撃を叩きこめば深手は負わせられるはずだ。
「とんだ邪魔が入ってしまったな。さて、やろうか。宗一郎殿」
貞綱は物干し竿に付着した洞窟竜の血を振り払い、正眼に構えた。
俺はすぐさま呼吸を始め、霊気を巡らせる。
「呼っ」
白い靄が俺の体から発し始める。
同時に霊気が身体の中を巡り、循環し、身体能力を更に増強する。
この人には始めから全力で行かねば、勝ち目はない。
「霊気錬成の型・瞬息」
霊気の循環を上げ、身体能力が引き出されるのを感じる。
「某と同じような呼吸法か」
「当然。貴方は俺と同じ流派、三船流を習っていたのだから」
「そうか、某の身体に染みついた技は三船流というものか。覚えておこう」
そして貞綱は、正眼の構えのままから動かない。
貞綱は自分から攻め立てる事は決してせず、相手が攻めるのを待ってから先んじて斬る
のが主な戦い方だった。
相手の事を良く観察し、どこから動くのか。
それさえわかれば勝つのは容易いといつも言っていた。
戦いの最中に相手を冷静に観察するのは難しい。
どうしても命のやり取りともなると、心が昂ってしまうし、感情によって冷静に判断できなくなる時だってある。
特に劣勢であれば尚更だ。
貞綱は、時に劣勢の軍勢の中にいても決して動揺した姿を見せた事は無い。
指揮官ともなれば冷静であり続けるというのはもっとも必要な技能であり、心構えとして大事だ。
逆に、感情を見せなさ過ぎて不気味でもあると言われた時すらある。
「噴!」
瞬息で底上げした瞬発力をもって、俺は突撃した。
狙うは心臓、ただ一点のみ。
小細工は何もいらない。
鋭く、素早く、正確に。
ただひたすら、俺自身が刀であると念じ突きを繰り出す。
たとえ相手が師匠であろうと、長い時を同じくした兄弟のような人であろうとも、情に流されては立ち合いには勝てない。
それが命のやり取りであればなお。
まさに神速と言ってもよいほどの鋭さだった。
貞綱は柳の葉が風に揺れたかのように、驚くほどの自然体で突きを半身ほど身体を捻るだけで躱した。
「そなたの剣、力み過ぎているぞ」
「何をっ!」
続けざまに突きを繰り出す。
喉、肝臓、股間、脚、そしてまたも心臓。
そのどれもを狙っても物干し竿ですっと軌道を逸らされ、一度も当たる事はない。
「記憶は無いとはいえ、どうやらそなたと戦った経験はあるようだ。まるで何千、何万と手合わせした手ごたえがある。そしてわかる事は、どうやらそなたは某に一度も勝った事がないようだな」
「黙れっ!」
「そなたの剣技、けして未熟なわけではない。こうやって刀を合わせてみればようわかる。異国まで旅をし、その度に魔物と戦い、時には腕に覚えのある者とも戦ってきたのであろう」
しかし、まだ届かない。
貞綱はそう言い、刀ではなく拳で俺の腹を殴りつける。
俺が突っ込んだところに合わせるような形になり、腹に深々と拳がめり込んだ。
「ぐぶっ」
俺の口から吐瀉物が零れ落ちる。
酸っぱい臭いが辺りに広がり、喉が焼けるように熱い。
貞綱は一度、間合いを外した。
「そなたは某と同郷の者なのだろう。なら、それに免じて引いてくれぬか。そなたは出来る限り殺したくはないのだ」
殺したくはない。
昔の師匠であればそんな事は言わなかった。
どんな相手であれ、一度敵対したのであれば徹底的に追い詰め、殺すのだ。
禍根は遺すべきではない。
万が一に生き延びて、復讐の機会が生まれたらどうする。
そういう心がけを、幾度となく叩き込まれた。
たとえそれが、肉親であっても。
「本当に、貴方はもう昔の俺の知っている人ではないのだな」
「某は昔の自分は知らぬ。今の自分が某だ」
「俺とて、殺し合いを進んでしたいとは思わない。だが、俺にも引けぬ事情があるんだ」
俺は霊気を練り上げ、虚空牙を放つ。
不可視の無数の真空刃は、地面を抉りながら貞綱へ向かっていく。
貞綱は刀を構えたまま、微動だにしない。
「破!」
気合の一言と共に刀を振るうと、真空刃は貞綱へ向かう軌道から逸れて背後の祭壇にぶつかり、轟音と共に大きな傷跡を残す。
しかし貞綱は無傷だ。
「虚空牙か。随分と練り上げているようだが、そのような小細工では某は倒せぬよ」
わかっている。
飛び道具で殺せる侍などたかが知れている。
命のやり取りとは、直接刃を切り結んでこそだ。
「つあっ!」
俺は更に呼吸を速め、霊気の巡りを更に上げていく。
身体が悲鳴を上げるギリギリのところまで循環を速め、踏み込んでいく。
貞綱はやはり迎えうつ構えだ。
その時、貞綱は何か呼吸法を始めていた。
俺の見た事の無い呼吸の仕方。瞬息ともまるで違う。
呼吸を速めるのではなく、ゆっくり、深く遅くしている。
腹の底まで息を吸い込むかの如き息の吐き方。吸い方。
「霊気錬成の型・刹那」
ふっ、と息を吐きだした瞬間に、爆発的な霊気の圧力を感じた。
近くで見ていたマルクでさえ、その圧に押されて後ろに下がる。
霊気の循環の勢いはすさまじく、急流を落ちる滝のような激しさを思わせる。
そして次に取るのは、居合の構え。その構えは懐かしくも苦い記憶を思い出させる。
そうだ、この後はいつもあの技で俺はやられていた――。
「奥義・無明」
貞綱は口にした瞬間、俺の前から姿を消している。
振り向いて、貞綱が納刀しているのを見た。
「それでは永遠に某には勝てぬよ、宗一郎殿」
胸元を見ると、刀の傷がつけられていた。
気づいた瞬間に、血がばっと噴き出してくる。
「ぐああっ!」
膝を突き、左手で傷を押さえ痛みに耐える。
「まだだ、まだやれる」
「否。その傷では戦う事は難しい。今立ち去ると言うなら、傷は手当して助けてやる。マルクを救ってくれた礼だ」
「見逃す? 俺に帰れというのですか」
「帰るべき場所があるのだろう。どのような事情を抱えているのか知らぬが、自らの命を失っては本末転倒ではないのか」
否。それこそ違う。
ノエルが居ないのであれば帰ったとて意味はない。
何のためにこんな辺境まで足を運んだのか。
怪我を負ったからといって、おめおめと帰れるものか。
勝ち目が薄くとも、侍は戦わねばならぬときがある。
今がその時だ。
「まだ立ち上がるつもりか?」
苦痛に顔を歪めながら立ち上がる。
それを見た貞綱は、再び居合の構えを取った。
「戦うというのなら、怪我人とて容赦せん。次は命を奪う」
「構わない。もとより、侍の一騎打ちすなわち命のやり取りだ。どちらが死ぬとて文句など言わぬ」
とはいえ、どうする。
現状のままでは勝算は万に一つもない。
やぶれかぶれに立ち向かった所で先ほどと同じ事になるに決まっている。
どうする、どうする。
「……はっ」
傷を押さえている左手に掛けていた追儺の数珠がにわかに輝きを見せた。
鈍く仄かな光は、俺に何かを囁いているようにも思える。
「……やるしか、ないのか」
今はそれしか現状を打破する方法はない。
二度と使わないと思っていたが、已むを得まい。
内なる力を呼び起こし、力を借りる。
借りるが、数珠の力で鬼の意識を抑え込めるのか、本当に?
「くっ!」
俺は納刀し、印を結ぶ。
呼び覚ます方法は、既に体の中に刻み込まれ覚えていた。
――破壊と滅亡を司るものよ。人々に畏怖され、なお破壊を望むものよ。いまはその力のみを我に授け給え――
呼び声に呼応するかの如く、俺の体は青白く燃え盛る炎に包まれる。
地獄の焦熱。灼熱の奔流。あるいは魂の螺旋。
普通ならばそのまま鬼の力に、意思に燃やし尽くされてしまう。
だが、炎はやがて落ち着き、やがて俺の中に入り込む。
「何だ……? 一体何が起こっている」
貞綱は明らかに狼狽えている。
それはそうだろう。
怪我を負った人が、炎に包まれたと思ったら鬼へと転じたのだから。




