第六十話:師匠との再会と決別
今までの人生でこれほど心が震えた事があっただろうか。
目の前に、何年も前に死んだと思っていた人がこうして生きている。
俺と人生を共に過ごして来た、大切な人だ。
運命を司る神とやらがいるならば、俺は今日の奇蹟にこの身を捧げても良い。
そう思うほどに、みっともなく涙を流していた。
「師匠……! 三船宗一郎です。生きておられるとは思いませんでした。嵐の海に投げ出された時には、もうこの世ではお会いする事は叶わぬと諦めていただけに、まさにこれも天命に違いありません」
師匠は、俺の記憶とは大分かけ離れた姿になっていた。
昔は月代を剃っていたのだが、今は俺と同じように長く肩まで伸びた髪を後ろにまとめて縛っている。
籠手と脛当ては失ったのか、西方で調達したものに変わっている。
鎧だけは失わずに済んだのか昔に着ていたものを今でも装着している。
腰には刀を下げているが、これも昔とは違ってより刀身が長い打刀に変えている。
物干し竿のように長い。
顔は昔は無かった髭を生やしているが、元々それほど体毛は濃くない方なので顎にかろうじて髭が生えているくらいだ。
昔は仏頂面をしている事が多かったが、憑き物が落ちたのか柔和な笑みを浮かべている。
しかしその笑みは、半ば困っているような笑みだった。
「師匠? 如何なされました」
俺の問いに、師匠は言いづらそうに口を開く。
「非常に申し訳ないのだが、そなたは一体誰であっただろうか」
言葉を聞いた瞬間、俺は絶句した。
師匠とは言え、俺とは十くらいしか年は離れていない。
剣の師匠でもあり、俺の傅役でもあった。
子供の頃は俺が散々迷惑かけたのを覚えている。
木に登って下りられなくなった俺を助けてくれたり、いたずらをかばってもらったり、時には誰かに襲われた時も守ってくれた。
俺にとっては師匠と言うよりも、自分の兄という気持ちの方が強かった。
子供の時から時を共に過ごしていた師匠が俺の事をすっかり忘れているなど、全く想像出来なかった。
有り得ない。
流れていた涙も途端に止まり、口を一文字に結ぶので精一杯だった。
「そなたが某の縁者や知り合い、友人であったならばこれほど心苦しい言葉もないだろう。済まないと思っている」
師匠は深々と頭を下げて詫びる。
「記憶が無いのだ。そなたの言うように、嵐に遭って海に落ちた日から前の記憶が抜け落ちてしまっている」
「そうなのですか……」
「覚えているのは我が名、結城貞綱とこの体に刻み込まれた剣技のみ」
師匠は拳を握り、うなだれた。
師匠が語る所によると、ここに行きつくまでの経緯はこのような話になる。
海に落ちて溺れかけていたが、いつの間にかどこかの浜辺に流れ着いていた所を地元の原住民に助けられる。
自分の名前しか思い出せぬ彼は、しかし自分の身なりと刀から「サムライ」と呼ばれるようになる。
身体に染みついた剣技は生きる助けとなり、いつの間にか傭兵としてその日の糧を得るようになった。
そんな中、住民が現地の王の圧政に苦しんでいるのを見た彼は、住民をまとめ上げて反乱を企て見事成功する。
民衆の力で愚かな王を打倒した。
そこまでは良かった。
その後、住民同士で誰を次の指導者にするかで揉めたという。
ある者は師匠を推薦し、またある者は現地の優れた知恵者を推薦した。
元より師匠は流れ者であり、由縁も知らぬ異邦の人であった。
小国とはいえ、国を導く立場になるなどは考えていなかったし、その器でもないと思っていた。
人知れずその土地から去り、以後は西へ西へと流れて傭兵を稼業としていた。
自分と言う存在が何なのかわからない。
一体何故、自分は生きているのだろう。
その時に「伝道者」を名乗る男と出会い、シュラヴィク教に触れた。
伝道者こそ、アフマドなるシュラヴィク教の開祖である。
シュラヴィク教の教えに感銘を受けた師匠は、その教えを心に刻み込み、ザフィードなる狂信的組織を作るに至る、と。
「師匠、貴方の組織した集団は、いまやシルベリア王国に災いをもたらしています。それについてはどう仰るつもりなのですか」
「三船宗一郎。そなたはこの国に来て街を見て、王と話し何を思った?」
「あえて申せば、豊かではあれど先行きは暗いであろうと感じました」
「王は既に老齢であり、后はまだ子供。世継ぎは無い。大臣たちは自らの権益を守る事しか頭にない上に、次の王を誰に据えるかで既に水面下で争いを起こしている」
「だからと言って、国を荒すのは間違っています」
俺の言葉に、師匠の目の色が変わった。
「違うな。神の教えを広め、民を導いてこそこの国も平和を掴み取れる。今はその過渡期に過ぎぬ。旧き教えに固執する者は、その命を持って贖われなければならない。たとえそれが、民だろうと王だろうと神は区別せぬ」
俺はこの目を知っている。
辺境の村の民たちもこの目の輝きを持っていた。
神を信じ疑いもせず、真っすぐにその教えに身を捧げる者達の目。
俺はこの目が大嫌いだ。
師匠は変わってしまった。
もはや以前の師匠と思ってはいけないのかもしれない。
もう立ち去るべきかと思ったが、まだ肝心の事を聞いていない。
それこそが俺の今回の仕事だ。
「師匠。貴方は隣国イル=カザレムの大僧正、カナン=イェスカを知っていますか」
師匠はその名を聞くと、笑みを浮かべて答えた。
「知っている。彼こそがこの国を救う手だてとなると某は確信している」
やはりシルベリア王の言う事は正しかった。
ザフィード、即ち師匠がカナン大僧正を攫ったのだ。
「大僧正は生きておいでなのですか」
「聖堂の奥の、某の部屋に今は居てもらっている。シュラヴィク教の事を自ら知りたいと申し出てきたのでな。聖典を読んでいる筈だ。彼が宗旨替えする日も近いだろう。我が神の教えはどの宗教にも優越する、完全無欠である故に」
イアルダト教の大僧正ともあろうお方が、宗旨替えなどするのだろうか。
とてもそうは思えない。
敵を欺く為の方策だろう。敵を知り、己を知れば百戦危からずとも言う。
間違いなくシュラヴィク教は、イアルダト教の布教の敵となる。
この国で急速に広がっている以上、イル=カザレムに教えが伝わる日も近い。
いや、アフマドは既に他国へ放浪していると聞く。
ならばもうその根は張りはじめていると思っていた方が良いだろう。
「師匠。申し訳ないがカナン大僧正にはシルベリア王より大事な用命を下されております。解放していただけぬか」
「その後、こちらに戻って来ると約束出来るのかな」
「俺に聞く事ではありますまい。カナン大僧正にその意思があるかどうかです」
無論、大僧正がこちらに戻って来たら二度と引き渡すつもりはない。
それを知ってか、師匠は笑い始めた。
「まだカナン殿はシュラヴィク教の教えを学び始めたばかりだ。今すぐそちらに引き渡すのは無理だな。あの醜悪な王の頼み事などロクな物ではあるまい」
「王妃が事故で亡くなったので、蘇生する為に大僧正が必要なのです。……もしや、王妃の事故死にもザフィードが絡んでおられるのではないですか」
俺がそう言うと、師匠は怒りをあらわにし反論を始めた。
「断じて某はそのような事は命令しておらん! しかし、組織の人員の中には性急な者達も多かった。誰かが独断でやった可能性もあるやもしれぬ」
「師匠、僭越ながら申し上げます。組織の部下の独断専行を止められぬのは、教祖としての指導力が無いと存じ上げますが、いかがお考えですか」
師匠は俺の質問に対し、口を一文字に結んで黙り込んだ。
痛い所を突かれると、こうやって沈黙するのは悪い癖だ。
しかし黙ってばかりもいられないと思ったか、やがて口を開く。
「某も所詮は傭兵上がりのエセ教祖でしかないと言う訳だ。戦う為に人をまとめる事は出来ても、人を導く器ではない。今回、洞窟竜が暴れまわる原因を作ったのも、我らの信者があれを使おうと縄張りに入り込んだからだ」
「魔物を? 一体どのように使役するつもりだったのですか」
「某が知るわけがないだろう。洞窟から追い出し、野に放ち、首都まで誘導する腹積もりだったらしいが、あまりにもずさん過ぎる考えだ。その結果、我が信徒は誰も居なくなった。宗一郎、そなたが助けたマルク以外はな」
言われ、子供――マルクはうつむいて拳を硬く握る。
震えていた。泣いているのかもしれない。
親を亡くし、村の知り合いもいなくなり、マルクは孤独になってしまった。
その心境は俺にも分かるつもりだ。
俺も既に家族はなく、知り合いも故郷には居ない。
幸いなことにイル=カザレムに流れて来てからは、冒険者として仕事をして実績を積んでいくうちにようやく仲間と呼べる人々が出来た。
その子は一体、これからどうなるのだろう。
師匠は続ける。
「そなたが言う事はもっともだ。だからこそ、我が教団は新たに生まれ変わる」
「生まれ変わる?」
「カナン殿を教祖とし、某は陰で支える方に回るのだ」
「その様な事、上手く行くとお思いか」
「元より、過激な手法では得られる信者も限界があった。カナン殿であれば、イアルダト教の大僧正である故に徳も教養もある。説法も某より遥かに上手く、人の心を掴むことが出来るであろう」
カナン大僧正をさらった理由にしては、もっともに聞こえる。
しかし先ほども思ったが、大事な点を見落としている。
カナン=イェスカはイアルダト教の大僧正だ。
その教えを体現し、奇蹟によって信仰を集めていると言っても過言ではない。
特に蘇生の儀を執り行えるのは彼しかいない。
イアルダト教からシュラヴィク教に宗旨替えをすると言って、他者が納得するとはとても思えない。
何より、カナン大僧正が自ら信仰を捨てるとは信じられない。
「それに、カナン殿は蘇生の儀式を行えると聞いた」
「そうですが、シュラヴィク教では死者の蘇生は神の意思に背く冒涜行為と聞きました。師匠は何をお考えなのです」
「……某は開祖であるアフマド殿とは違う考えを持っている。本来、某は嵐の海に投げ出され死ぬ運命にあったはず。しかし、浜に流れ着いて生き延びた。これは神の思し召しとしか思えぬ」
天を仰ぎ、師匠は目を細める。
「神にも慈悲は存在する。死に瀕した者に生きる機会を与えぬ程、狭量ではない。それに、一度死んだ者が蘇る手立てがあるとなれば、確実に信ずる者も増える。特に金を惜しまぬ連中からな」
「つまり、結局はカナン大僧正を利用するのでしょう」
誰もが生きたいと本能から思っている。生きる道半ばで死にたいと願う者はいない。
よほど辛い目に遭い、人生に絶望をしていなければ。
シルベリア王が王妃を蘇らせたいと願うのも、大事な人と共に生きたいと思うからだ。
師匠、いや結城貞綱はもはや俺がかつて知っていた人物とは違う。
腰の刀に手を掛け、俺は構える。
「貴方はもう、俺の師匠じゃない。信仰に盲目となった、ただの狂信者だ」
「某と同郷であったらしいそなたを斬るのは少し心苦しいが、これも神の意思」
貞綱も刀を抜き、正眼に構えた。
その時であった。
「GUGAAAAAAAAAAAA!!!」
「何だ!?」
突然、聖堂の天井が崩れ落ちてきた。
落下してきたものは、先ほど戦った洞窟竜だった。
洞窟竜の小さな目は憎悪に煮え滾り、赤く染まっている。
「これは……ちょっと不味いかもしれんな」




