第四十五話:夜明け
フォラス老と別れる間際、俺は大事な事を聞き忘れていた。
「鏡の間は迷宮の何処にあるのでしょうか」
「残念ながら迷宮は常に変動し、成長して居る故わからぬ。下層にある事は確かなのだが、下層ほど魔素が濃く、変動が激しいのだ」
「そうですか。ならば自力で探し当てるのみです。本当に世話になりました」
「また次に訪れるのを楽しみにしておるよ」
次はまた頼るのではなく、自らに向き合い、鬼神に打ち勝った時こそフォラス老と再び相まみえたいものだ。
扉を出て、三度目の空間転移を掛けてもらう。
いつ掛けてもらっても、自分の肉体と精神が微細に分離し、空間を移動する感覚には慣れない。確固たる自分のかたちを思い浮かべていないと、大気中に霧散してしまうのではないかと不安に襲われる。
別れ際、フォラス老がぽつりと何かを呟いたような気がした。
「……成しえるかもしれぬ」
誰が、何を、と問いかける間もなく俺の体はうっすらと消えていき、何とも言えない感覚と共に地上へと移動する。
転移が終わった。
目を開く前にぐっと両手を握って開くを繰り返す。
目を開ける。
確かに俺は存在している。大気中に霧散せず、人のかたちを保って。
迷宮の入り口から見えるのは、地平線の向こうから差し込んでくる橙色の光。
まだ奥ゆかしく顔を出さない太陽。もう少しすればひょっこりと額を見せるだろう。
空は漆黒から徐々に薄紫色に染まり、夜と朝の曖昧な時を示している。
今のイル・カザレムは乾季であり、雲一つない晴れた空が拡がっている。
だが間もなく、わずかな期間の雨季が訪れるだろう。
砂ばかりに思えた大地に空からの恵みが降り注ぎ、涸れたと思われた川にはあっという間に水が流れを作り濁流となって国中を駆け巡る。
雨季が終わると、水を含んだ大地から草が芽吹き花が咲き乱れる。
この土地に来たばかりの頃、俺は砂漠という土地は砂で荒れ果てた、灼熱の昼と凍り付く夜を繰り返すばかりの不毛の地と思っていた。
それは間違いだったのだ。
所々に湧き出る泉があり、地下に流れる水脈があり、そして雨季には嵐をも伴って水は降り注ぐ。
わずかな時期を、土地を逃さずに植物たちは懸命に水を体内に取り込み、あっという間に芽吹き、生命の強さを思い知らせてくれる。
砂漠は命に満ちている。
俺の故郷とは、現れる形が違うだけだ。
迷宮からサルヴィの街へと歩いて戻る。
朝焼けに照らされた石造りの住居はまだ寝静まっており、音一つ無い。
鳥のさえずりが時折聞こえてくるくらいだ。
商店だけはその気忙しさからか、店を開く準備でもしようかと使用人たちが動き出している。しかし誰もがまだ寝ぼけ眼をこすっている為か、動きは鈍い。
朝のゆっくりとした時が流れている。
街の中心部に湧いている泉に行くと、隊商を組んでいる商人たちが思い思いに談笑しながら水を飲んだり、顔を洗ったりしている。
俺もその中に混じり、顔を洗って水を手ですくいひと口飲む。
水に映った俺の顔を覗き込むと、水面が揺らめいてか笑っているように見えた。
それは俺のもう一つの心の表れか、あるいは鬼が笑ったか。
その顔は水面が再度揺らめくと消えうせ、元の俺の顔が写し出される。
目の下に酷いクマを作っていて、明らかに寝不足の面構えだ。
しかし、迷いのある顔ではない。
もはや迷わぬ、一人の侍の顔である。
俺は自らの心に今一度問いかける。
俺の弱い心の底まで見通し、己を突き詰める。
然る後、迷宮の最下層に潜んでいるもう一つの鬼神と対峙し、打ち勝つ。
最後に我が心に、体に巣食う鬼神の残滓に立ち向かう。
全てを成し遂げるには、仲間が必要だ。
アーダルと、ノエル。
侍、盗賊、僧侶の三人では迷宮の踏破は極めて難しい。
あと三人は共に迷宮を歩む命知らずが欲しい。
道のりは未だ遠いように思える。
だが、霧の中を進むのではなく、地平線まではっきりと俺の進む道は見えている。
ならばそこまで歩むのは容易いだろう。
俺はやるぞ。
だから今日は我が懐かしの寝床、馬小屋に戻る。
馬のいななきを聞きながら俺は藁布団の中に身を放り投げる。
懐かしき獣の臭いが染み付いて取れないこの寝床が、今はどの宿屋の寝台よりも一番寝心地が良い、心の安らぐ領域だ。
カナン大僧正が隣国から戻ってくるまではあと一週間もある。
その間、俺は冒険者である事も侍である事も忘れ、ただただ体を休めるだけの日々を送ろう。
来週になれば、きっと俺は愛しき人をこの腕で抱ける時が来る。
今はその時を、ひたすら俺は待ち焦がれている……。




