第百三十五話:賢者フラウィウス
闇の中で誰かの呻き声が響き、その後に地面に人が倒れる音がした。
こちらからは状況がわからないが、声質から恐らく女性であろう。
魔術師ダニエラか僧侶リブナットのどちらかが倒されたのだろう。
「闇の中に潜むアル=ハキムの刃から逃れられる者は居ない」
ぼそりとアーダルが呟いた。
イシュクルから聞いた事があるらしい。
アル=ハキムは仕事で失敗した事がないと。
流石に仕事を始めてしばらくは苦労していたそうだが、イシュクルの師匠や影法師たちと出会い、技術を習得してからは相手に知覚させる事無く仕事を遂行するようになる。
そして裏の世界でその名前が知られるようになり、影響力も高めていった。
老いた今でもイシュクルや影法師はその暗殺術に一目置いている。
でなければ、暗殺教団の首領など務まろうはずもないのだが。
「そしてこうも言われていました」
アル=ハキムは死神に等しい。
彼に目を付けられたが最後、狙われた命は刈り取られる以外にない。
闇に溶け込んだ彼を見つけられると思うな。
痛みを感ずる間もなく命を奪うのだけが、死神が持つわずかな慈悲と言えよう。
「なるほどな……」
なればこそ、やはりこれだけの手練れを引き連れて賢者が直々に仕留めようとするのも頷ける。
しかし賢者もさるもので、魔術師が倒れて即座に自ら奇蹟を唱える。
「サンライト」
賢者フラウィウスの掌から太陽に似た光が生まれ、上空へと浮かんでいく。
陽光はフラウィウスらの周辺を照らし、完全なる闇の空間ではなくなった。
だが陽光と言えども、この広い部屋の全てを明るく照らす程の光量は無い。
依然としてこの部屋にまだ暗がりや闇は存在している。
そして照らした光は誰が死んだかも明らかにしていた。
魔術師のダニエラである。
首を鋭利な刃物状のもので刎ねられ、その亡骸を晒していた。
「賢者とは一般的には、魔術と奇蹟の全てを修めた者が呼ばれる一種の敬称である。しかし、フラウィウス。真の賢者とはそのような、魔術と奇蹟を修めたからと言って呼ばれるようなものではあるまいよ。わかるだろう」
ハキムの声がどこからともなく響き渡る。
フラウィウスは答えない。
賢者か。
俺たちは既に賢者を二人知っている。
かつて数百年前に存在した、真の賢者ラーフィル。
今のシルベリア王国の女王、マルヤム。
賢者の血を引き、その魂をも継承した女王もまた賢者を名乗るにふさわしい。
賢者とは如何なる存在であるか。
ラーフィルの事を思い起こせばわかるだろう。
民草の生活を慮り、世の中が真に良い方向に向かう為にはどうするかを考え、行動する。
それこそが賢者であろう。
魔術と奇蹟の両方を全て修めるのは、たゆまぬ努力があったからこそ出来る所業であろう。
だがその程度で果たして賢者と呼べるのか、俺は疑問を抱いている。
「何処から来る」
アガムが呟いた。
毛ほども動けぬ状況下でありながら、戦士二人と騎士は闇の中に潜む何かを察知しようと目を凝らし、何かが動けば動くであろう空気の流れを肌で感じようとしている。
状況は膠着していた。
息も詰まるような緊張の中、不意に少しだけ地面を擦る音がした。
「リブナット、何故動いた」
フラウィウスの叫びと共に、リブナットの影がゆらりとゆらめいた。
影は本人と同じように動くはずであるのに、その影はまるで自らの意思を持っているかの如く自律して動き始めた。
地面に平べったく映されていた影は、突如立体となって立ち上がり、無貌の黒い人となった。
目も鼻もない黒塗りの人影は、しかし口だけはしっかりと存在してにやりと笑っている。
リブナットは目の前で何が起きたのかを理解はしていなかったが、流石に達人級の僧侶である。
目の前に居るものが敵であると即座に判断し、両手を影に向けて天罰の奇蹟を放とうとしていた。
祈りと共にリブナットの掌に光が収束し、拳を模って放たれようとした瞬間、光は突如収束を止めて散らばってしまった。
リブナットの祈りが途切れなければ、そうはならない。
では何故祈りは途切れたか。
人影はその手を鋭い槍の刃先のように形作り、リブナットの額を貫いていたのだ。
槍の手先からは血が流れ落ち、地面に血の雫を垂らしている。
「くそっ」
曲剣の戦士ルービンが動き、影を両手の曲剣で細切れに刻むが、手ごたえは無かったようだ。
曲剣の軌道は影を揺らめかせただけである。
影はさらに大きく笑みを作った後、ゆっくりと霧散して消えた。
「ハキムは音か振動でこちらの動きを察知しているに違いない。レビテイト」
浮遊の魔術を唱え、フラウィウスらは音を立てぬように隊列を整える。
アガムとルービンがフラウィウスの前に立ち、騎士メナヘムがその背後を守る。
再び、静寂が訪れる。
その時、不意にフラウィウスはこちらに向かって魔術を数発放った。
無詠唱で予備動作もなくいきなり放たれたがために、面食らう部分があった。
流石に殺意までは隠しきれるものではなく、何とか反応は出来た。
しかしそれを何かと判断する暇はなく、即座に俺は刀を抜いて切り払った。
斬った魔術は弾け、冷たいものが俺の顔や手足に当たり、物音を立てる。
氷弾か。
「ちっ」
舌打ちせずにはいられなかった。
背筋に走る悪寒が既に、俺に知らせている。
脅威が俺の背後に立ち上がっている事を。
「しいっ」
即座に貞綱が刀を抜き、影を横薙ぎに一刀両断する。
勿論、手ごたえはないだろう。
しかし影が完全に形を成す前に斬ったからか、形を維持できなくなった影は口を歪めながら姿を消していった。
「ふむ。音や振動を察知して、<影>は自動的に標的を見定めるようですね」
「そして、連続して影が生成されるわけではないようじゃの」
貞綱とフォラスがそれぞれ分析する。
「でもどうするの? 無詠唱で次々に魔術を放たれたら動かざるを得ないわ」
「幾ら貞綱さんや宗一郎さんが影を退ける事が出来るとしても、延々とこんな事をやってるわけにはいかないのに」
動いたら影も動き出す。
微動だにしなければ、影は動かない。
「さあどうするハキム。私は一行に、このままあの連中を追い詰めても構わんのだが」
「成程な。そのような考えに及ばない儂もまだまだじゃの」
瞬間、今度はフォラスから無詠唱の火矢が無数に放たれた。
火矢の向かう先はルービンである
「……!」
流石にルービンもまた歴戦の戦士である。
火矢を曲剣で切り払い、事なきを得たかに思えた。
だが音もなく火矢を切り払うのは難しかったようで、火が地面に落ちた時にじゅっ、と消える音がこだました。
影はルービンの目前に自動的に姿を現し、その手の先端を鋭く形作る。
すこし間合いが離れている為に、アガムとメナヘムは何歩か踏み込まなければ影には届かない。
「むうっ」
音もなく伸びる影の手刀を、ルービンは曲剣で受けた。
はずであった。
影の手は曲剣の表面を滑り抜け、ルービンの心臓を貫いていた。
反応としては悪くなかった。
受けられる余裕はあったはずだ。
武器とぶつかり合わず、まさかするりと躱すとは思わなかった。
「ごぶっ」
ルービンの口から血が吐かれ、白目を剥いて倒れ込む。
「フォラス、貴様」
「そなたのように儂は奇蹟なんぞ使えんが、無詠唱魔術はお手の物じゃよ。魔術に特化しているぶん、魔術を練り上げるのは儂の方が速いぞ」
ならば、このままフォラスが魔術を放ち続け、相手を圧倒すれば影と連動して押し切ってしまえるのではないか。
そのような期待を抱いた瞬間、闇の中から乾いた咳のような音が聞こえた。
そして闇の中から、人影が滲み出て来た。
口元を手で押さえてはいるが、隙間から血が漏れ出て着ている服と地面を赤く濡らしている。
「病を得ていたという噂は本当であったか、アル=ハキム」
血の気を失い、青ざめて膝を着いているアル=ハキムの姿が噴水の近くに見えた。
肺を病んでいたのか……。
だからこそ、フラウィウス達も好機を逃さずに襲撃を仕掛けたのだろうが。
「一息に殺せれば良かったがな」
ハキムの呼吸は荒く、大きい。
一呼吸するたびにこちらまで聞こえてくるような喘ぎをしている。
その様な隙を逃す連中ではない。
アガムが疾風の如く駆け出し、ハキムの首を取らんと両手剣を振り上げていた。
頭から一刀両断にするつもりだろう。
殺意を込めた雄叫びが響き渡る。
だが、両手剣がハキムを両断する事は無かった。
「今度は僕が恩返しするんだ!」
背後から追いついた、アーダルの気を纏った手刀がアガムの両腕を切断し、更に首を刎ねていたのだ。
電光石火の三連撃。
左腕、右腕をほぼ同時に斬り落とし、更には驚愕しているアガムの首を横薙ぎに一閃した。
その速度に、流石のハキムも目を丸くしていた。
「短期間にここまで成長するとはな」
「貴方とイシュクルさん、影法師さんに皆のおかげです」
更にメナヘムを、いつの間にか貞綱が袈裟懸けに斬り倒していた。
「この国最高峰の騎士と言うからにはどれ程の腕前かと思ったが、この程度か」
やはり俺の師匠は自慢したくなるほどに強い。
あの騎士とて、普通の冒険者連中なら軽くあしらわれてしまうだろうに。
残るはフラウィウスただ一人である。
「フラウィウス。まだ戦うつもりか」
俺の言葉に、フラウィウスは言葉を返さずに手を組み跪き、奇蹟を祈る姿勢を取る。
そして大地にすがり、神に祈り、懇願するかの如く頭を上げ、天を見据えて念じ始めた。
――神聖なる我が願いを、父なる神に希う。哀れな子羊の群れに、今こそ大いなる慈悲をその手から与え給え――
瞬間、フラウィウスの周囲に光芒が幾つも天から差し込んだ。
それは虹の七色に分かたれた光であり、何かをフラウィウスに指し示しているかのようにも見える。
フラウィウスは眩く青く輝く光の中に手を差し込み、光を手に宿した。
次に立ち上がり、光を両手に掲げて天に向け、ぐっと握り込んだ。
光は瞬く間に拡散し、死んだ仲間たちへと向けて放たれる。
すると死体は、目も眩むほどの光を放ち始めた。
「ううっ」
「なんだ、これは」
仲間たちが呻く中、俺は一つの光景を思い出していた。
青い光は、ノエルが消失しそうになった時に使った生贄の魔石の隠された力を使った時の、光の奔流と酷く似ている。
ノエルの肉体を現世につなぎ止め、魂が完全に天へ昇るのを留めてくれた、神の奇蹟にも思えるような光景であった。
その時とは状況は異なるが、神は奇蹟を相手にもたらすのであろうか?
ようやく光が収まると、死んだはずの者が全て蘇り、立ち上がっている。
蘇生が死んだ者すべてに掛かるなど、俺は今まで見た事も無かった。
一体なんの奇蹟を願ったのか。
俺だけでなく、仲間全員が唖然と目の前の光景を見ている。
だがフォラスだけは、鋭い目つきでフラウィウスをねめつけていた。
「サプリケーション、絶体絶命の状況で通るとはのう。運があるのか、儂らに運がないのか」
「運などで片付けられるものではない。もはや我らは神と共にある。ハキムは動く事すら出来ぬだろう。後でゆっくり始末するとして、まずは眼前に立ち塞がる邪魔者をこの世から排除しようではないか」
フラウィウスらは不敵な笑みを浮かべ、俺たちの前に再び立ちはだかる。
神と共にあると言うのなら、その神すらも俺たちが薙ぎ倒してやるまでだ。
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