第十二章 8
周囲に構築される岩山。数をこなすにつれて並べた石板のような眺めから、ひと繋がりの山嶺の形状に変わりつつある。
衝撃波の波が山体にぶち当たり、岩肌に沿って左右に弾かれる。それは大瀑布を両断するようなエネルギーの奔流。そして岩は重力と握手をして落ちていき、道路をいくつか砕きつつ消滅。
「跳ぶぞ」
ミノタウロスも加速する。私を肩に担いだままでさらにストライドを伸ばし、車を一つずつまたぎ超えての疾走。とてつもない膝のバネ。重心が上がっているはずなのに体幹がぶれていない。
私達は大腿部から腰へ、上空にあるのは数十本の道路が束ねられた巨大な構造物。
確かにあれは肋骨だ。インターチェンジマニアが見たら感涙モノの眺めか、それとも道路建築というものへの冒涜か。
走る。車の流れに沿ってボンネットを跳び、あるいはスチールの階段を出現させながら。
「龍哭!」
すべての槍がほぼ同時に打ち出されているため、衝撃波が脊柱部分に同時に到達する。走るならそこしかない。私の演算力で岩の壁が周囲を取り巻き、衝撃波が拡散、周囲のコンクリートが砕けて車が中破しながら吹き飛ばされる。鼓膜どころか内耳骨を破壊するほどの轟音だが、耳孔に埋め込んだイヤホンが極大の音だけをカットする。
脊柱部分を構成するのは螺旋だ。七本の道路がメイポールダンスの柱のように螺旋を描いて伸びている。ミノタウロスが平面を走るような速さで登る。
ふと通り過ぎるのは赤黒い構造体。毛糸玉のように高密度で道路が編み込まれた球体だ。ぎりぎりの隙間を車が高速で駆け抜けている。
一瞬の連想。
あれは心臓だろうか。では、仮にあそこを破壊したならどうなるのだろう。演算力で心臓すらも瞬時に作れるのか、あるいはこの巨人でも死ぬことがあるのか……。
「頂上に着く」
「ええ」
そのような想念に捕らわれたのは一瞬だった。ミノタウロスは両手両足を動員してジグザグに脊柱を登り、ついに最後の一点を掴んで躍り出る。
そこは石板がタイル状に敷き詰められた場所。全体は円形である。
ここだけは他と雰囲気が違う。古びた本の並んだ書架、誰も座っていないカウチソファ、赤と紺色の絨毯。そんなものが散らばって配置されていた。
「ようこそ北不知ミズナ。それにミノタウロス」
ダークのパンツスーツと、鮮血にまみれた包帯。
プルートゥはそこにいた。彼女のそばにはブラウン管テレビがピラミッド型に置かれ、迷宮のあちこちを映し出している。
私はミノタウロスの背から降り、三者で正三角形を描くような間合いをとる。
「プルートゥ……この場所は」
「この巨人の操縦席といったところでしょうか。それとも、この迷宮の主である人間の居場所とでも言いますか。この日記に大体は記してありました」
プルートゥは一冊の本を手に取っていた。紙をめくりながら薄く笑う。
「もうお分かりでしょう。この迷宮はかつて走破者だった。彼は世界のすべてを手に入れ、永遠の寿命と、万物の創造という能力を手に入れ、地球上で唯一の知的生命体となっていた。しかし遠い宇宙の果てから、始めての外敵が訪れた。世界そのものとなった巨人は不意打ちを受け負傷していた、というわけです」
さらりと語っているが、あまりに大きな尺度の話に頭がくらくらする。
「……何を言っているの?」
それは、プルートゥとの認識の齟齬から来る混乱だ。彼女が当たり前のように流していることが、私には引っ掛かりとなって混乱の渦を生む。
「走破者が世界を支配して……宇宙人が攻めてきた? 走破者は拡張世界の中だけの存在よ。演算力で社会に干渉はできても、現実世界で物質を生み出すことなんて」
「そうでしょうか?」
プルートゥは刀を生み出し、それを宙に放り投げる。それは地面に刺さろうとする瞬間。吸い込まれるように消える。
「走破者は何でもできる。寿命を伸ばすことも、この世にまだ存在しない技術を生み出すこともできる。ならばいつかは物理法則すら書き換えるでしょう。念じるだけで岩を出し、バイクを出し、肉体を再生させる。それが究極の未来。この迷宮はまさに想像の最果て、走破者の至るべき終着点、人が神へと至る階梯なのですよ」
未来……究極の走破者。
まさか、こんなものが……。
「――違うな」
地の底から響くような声、我知らず背筋に力が入る。私は声の方角を振り向いて呟く。
「ミノタウロス……」
「この未来はまやかし。迷宮の創造者がそう設定しただけの世界に過ぎぬ。このような未来は訪れぬ。時の流れを迷宮に例えるならば、誤った枝道の一つに過ぎぬ」
「……ミノタウロス、謎めいた迷宮の怪物よ。あなたに未来の何がわかる。なぜそのように言えるのです」
「この未来は、浅はかだ」
ミノタウロスは石板の地面を踏みしめ、その上気した体から熱を放つように思える。
彼の両足は肩幅に開かれ、いつでも飛びかかれる体勢に見えた。十分の一秒ほどでも隙を見せれば、踏み込みと共に頭骨を吹き飛ばしそうな気配がある。
「世界の意思は一つであってはならない。多くの意思が混ざり合うことで、人はより高みへと至る。それはやがて一つになるというものではなく、時の終わりまで続く研鑽。人の人生に終着があるとしても、世界にゴールなど設定すべきではない」
「……」
そう、この迷宮は、いわば戒めの迷宮。
走破者がどれほど万能に近づき、強大になっても、それでも神にはほど遠い。
例え地球という星を一つに束ねても、それで永遠が約束されるわけではない。
あの円盤を退けても、それで終わりではあるまい。この何もなくなった大地で、自らの肉体を変異させて、永劫に戦い続けるさだめとなってしまっただけだ。もはや地球に一人となってしまった巨人では、より高みへ登ることもできずに……。
「何よりも」
ミノタウロスの体はより熱を帯びるかに見える。それは彼の中で起きている何かの変化なのか。あるいは彼の激昂なのか。
「この迷宮は、醜い」
言葉を受けて。
プルートゥは片目を歪め、吐き捨てるように言う。
「戯れ言ですね。主観に過ぎない」
「いいえ」
私がそこに踏み込む。三人の間にはもはや火花の応酬が隠されていない。一刀の間合い、一撃の間合いを見定めて重心が揺れ動いている。
「プルートゥ、美しいものが必ずしも優れているとは思わない。でも私の目から見ても、この巨人はあまりにも歪んでいる。こんな姿が人間の究極であってはならないという強い忌避を感じる。なぜならこの巨人は一人だから。分かるでしょう。この巨人が勝つためには誰かの手助けが必要だった。これほどに強大になった走破者でも、一人では生き抜けなかった、それが迷宮からのメッセージよ」
「それはあなたの主観。何かの真理のように語るな」
「いいえ! 分からないの、プルートゥ!」
私はそこでわずかに肩から力を抜き、高ぶりかける己の心を熱として放散するように構える。
「この迷宮は、あなたよ、プルートゥ」
「……!」
なぜ、彼女はこの迷宮の主題にすぐ気づいたのか。
なぜ、手に持った手記に至るより早く、味方するべきは巨人の方だと思えたのか。
それは、この迷宮が彼女に近いからではないか。
彼女はケイローンとともに行動していたが、庇護下という印象はなかった。
彼女は誰よりも血気盛んな走破者であり、肉体の死をも辞さない強さがあった。
それは、彼女が一人だから。
登るべき高みへと真っ直ぐに向かっていける強さ、それは一人である者の強さだ。
「プルートゥ、走破者はいずれはこのような巨大な存在になれるのかもしれない。でもそんなものが理想なの? 分かってプルートゥ。迷宮は一人で歩むことはできない。歩もうとすれば破滅が待っている。走破者は、本来は敵対すべきでは……」
空中に出現する黒い球体。私は無意識に演算力を励起させ、大岩が出現すると同時に巨大な爆炎。
「私はね、このままでいいのですよ、ミズナ様」
プルートゥは両手を軽く開く、その周囲に、何十本もの日本刀が出現する。
「確かに私は一人でした。ケイローン様の言う人類の進化にもさして興味はなかった。私はただ人の痛みに寄り添いたかったのです。そのために慈善施設に勤めたり、病気もちの兄のそばにいたりしました。私は痛みに触れるたびに泣き、それでいてひどく安らぎ、痛みに耐え難いのに、寄り添うことから離れがたかった。世界には痛みが満ちていて、心はいつも泣いていて、泣き腫らしてなお、さらなる涙を欲した。つまり私は」
刀の一本を抜き、床の石板で切っ先を鳴らす。
すると火花が炎へと変じ、それが石の円舞台を一周する。存在していた書架も、ソファも、テレビも火が呑み込んで、すべてをあかあかと染め上げる。
そして炎の起こす風が、彼女の首もとの包帯をあぶり。
その奥にある、深い傷を……!
「世界で一人きりになって、その痛みに泣きたいのです……」
――死の神
全身全霊をもって、死をいつくしむ神。
それが彼女の本質だとでも――。
踏み込んでの袈裟斬り、瞬時に出現させた岩の表面を刃が走り、刃が岩に食い込み。
「!?」
身を伏せる、頭上を抜ける刀身、そして畳んだ足で床を蹴って跳ぶ。
「そんな、玄武岩で作った盾を」
「高速度鋼というものです。日本刀よりやや勝る程度の強度ですが、何度も見て理解しました。あなたの出す岩と、それを斬り裂きうる見えざる線の存在を」
「……っ!」
背中に感じるのは炎の熱、多少の傷は治せるとはいえ、不死身ではない私が炎に飛び込むわけにいかない。
この炎のリング、冷凍武器による凍結を防ぐための選択か。あるいは、この場で決着をつけるという決意の現れだろう。
「……プルートゥ」
手足に包帯を巻き、血を流し続ける彼女の姿。
あれが彼女の本質だと言うのか。あまりにも巨大な歪み、自らを傷つけ、何人もの痛みを、あるいは死を見てきて、彼女は微笑みながら血潮の涙を流すのか。世界は彼女が泣くためにあり、彼女が泣くためにあらゆる痛みが存在するというのか。
それはあるいは彼女の境遇であるとか、触れてきた考え方よりも根の深い。
原罪。
そんな言葉が浮かぶ。
あるいは彼女の出現は必然なのか。この世が痛みで満ちているなら、そのすべてを受け止め、呑み干すような人間がいつか生まれるというのか。それは二千年前の、あの人物のような……。
違う。
そんなはずはない。彼女の気迫に呑まれるな。
ミノタウロスが飛び出す。
大きく振りかぶった腕から放たれる猛烈な拳。風を纏って吹き抜ける、プルートゥはすんでで身をかわし、肘から両断しようとする一刀。
だがミノタウロスが拳を引くほうが早い、刀をすり抜けるように引かれる拳と、入れ替わりに襲う左の拳。それが彼女の顔面を捕らえて一撃で頬骨を折り砕き。
プルートゥが廻る。顔を半分砕かれながらも拳を受け流し、踵で回転しながら更なる加速を加えての一撃。刃が鎖骨に食い込み、人工筋肉が火花をあげる。
「ぐっ……」
「格闘戦でも私は誰にも負けない。そして忘れたかミノタウロス、私には味方がついていることを。今や彼は私と同一の存在」
――まさか。
それを視界に捉えるより早く、演算力と無意識の深みが繋がる。
「空山龍哭!」
出現するのは数十万トンもの山嶺。この円舞台とその外側の道をさらに包み込むように展開される安山岩の翼。
そこに衝撃。岩肌を数百メートルえぐりとって火花を上げつつ槍が弾かれる。全身に鳥肌が立ち、衝撃波がさらに広範囲を破砕せしめる。
「演算力の槍……。あ……あれを自分に射つなんて」
120センチ口径の列車砲すら比較にならない威力。ドーム球場ほどの岩の塊でようやく軌道を逸らせるという恐ろしさ。およそ人の領域を超えている。
「ぬ……」
さしものミノタウロスも脚が止まる。私を無言で振り返るが、彼の期待通りに防ぎ続けられる自信はない、ということを目で伝える。
この炎のフィールドでは迫り来る槍が見えない。音速を超える槍は音で知覚できず、また周囲はコンクリートの道路とはいえ、空山龍哭ほどの質量を支え続けることはできない。飛来するその瞬間に出すしかないのだ。
それに、果たして迷宮世界をそこまで何度も打てるのか。演算力がもし尽きたなら……。
先程からタケナカと亜里亜の声も届かない。当然のように電波妨害されているわけか。
「ミノタウロス……長期戦は不利、一撃で勝負を決めるしかない」
「……承知した」
策はある。
一か八か、あの方法なら……。
Tips 高速度鋼
鉄鋼材の一つ、鋼にクロム、モリブデン、タングステンなどを添加して作られる。硬度と耐摩耗性、靭性に優れる。
刃物としては粉末ハイスピード鋼などが用いられ、包丁などに加工した場合、研がずとも半年ほど切れ味が持続する。




