第九章 6
「それはピース、フランシスデュブリュイ、ロサ・レヴィガータ。極めて美しい品種ばかりですが、肉に食い込むほどの鋭いトゲがあります」
インカムから声が響く。
「走ったりすれば脛の肉がえぐれますよ。無理はしないことです」
「……お気遣い感謝するわ」
私は回廊を見通す。最上級の画材セットのような極彩色の眺めは、ゴンドラのほのかな光を受けて幻灯のようにお腹に抱える。建物の内側なら走れなくはない。
そう……光を得るためには、ゴンドラで移動した際、それが動き出すまでに次のゴンドラに駆け込む必要がある。そもそもアフロディーテとの対人戦である以上、いちいちイバラを踏み潰しながら歩くわけにいかない。
――必要なのは、覚悟。
ナビがいない現状であっても問題はない。拡張世界での負傷は現実に戻ればリセットされる。肉が削げて血が噴き出そうとも、先にゴールにさえ辿り着けば。
私は何度か息を吸って肺の奥で固め、奥歯を噛み締めつつ目を見開き、そして疾走る。
「! 何を」
アフロディーテが動揺する気配。イバラを踏み砕く音が届いたからだろう。
私はゴンドラに飛び込んでそれは重低音とともに上昇。花によって迷宮の構造は見通せている。この迷宮は言わば五階建ての群体、高さ20メートル、厚み10メートル、横幅80メートルほどの建物が積み木のように重なっているのだ。
ゴンドラの床に血が流れ、私はまなじりに力を入れて痛みに耐える。
「ぐっ……痛ったあ」
「そんな馬鹿な……走れるはずがありません」
「アスリートの覚悟なめてもらっちゃ困るわ。こっちは毎日血ヘド吐きながら練習してんのよ」
ゴンドラが最上階に至る一歩手前、五階の床に手をかけて隙間から体を通し、到着の一足先に躍り出る。イバラの海の中を再度走れば、すでに高さは100メートル以上。
そしてゴールが見える。
それはまるで積み重なったプレゼントボックス。カラフルな直方体が積層するその頂点。五階の端にほの赤い光が見える。ゴンドラが月のような蛍光色を放つ世界で、その部分だけは火照るような赤の光。おそらくあれがゴールだ。
「……棟が違う」
積み重なった建物の頂点部分、それはコンセントの先端のように二股に分かれていた。ゴールのある棟は私のいる棟から八メートルばかり離れた位置、ほぼ並列に並んでいるのだ。あそこへ行くには一度降りて、渡り廊下のようになっている棟の中を通るか、その天井を行くことになる。
アフロディーテはそこにいた。この位置からは真下に見える、ゴールの方向に伸びる棟の五階部分を走っている。彼女の足元からは水面に立つ波紋のようにイバラが生まれる。
「……っ、降りてたら間に合わない、ならこっち!」
血に染まった足での前蹴り、ガラスが粉砕されて外側にばらまかれる。
「まさか! そこからここの屋上に飛び降りる気!?」
そんなことはしない。高低差は20メートル。受け身をとれる高さではない。
窓の上枠を持ち、外に出るとともに壁面を三手で登る。
屋上に行けばそこも花で埋まっていた。対岸までの距離は八メートル。助走距離は建物の横幅ぶんで約10メートル。
……およそ十分な助走とは言えない、しかも私の走り幅跳びの記録はせいぜい6メートルだ。
放物線で三階か四階の窓に飛び込む? 冗談ではない。そんな絶妙の角度と勢いで飛び込めるのは百回に一回だろう。
「その距離を飛ぶなんて無茶です! 死にますよ!」
「……大丈夫、やれる」
思い出せ、あの技を。
ミノタウロスの跳躍を、プロメテウスの走りを!
私は全力でダッシュをかけ、そして屋上のヘリを土踏まずで捉えて。
――そして、あと一歩。
足元に出現させた岩を蹴って、跳ぶ。
「な――!?」
理屈では可能だと思っていた。走りながら足元に質量を出現させ、蹴るという技。質量は出現した瞬間から落下を始める。だがゼロ秒で得た加速よりも、私の踏み足の方が早い。私は空中に身を踊らせ――。
しかしさすがに対岸の屋上までは届かなかった。二段ジャンプと言うには無理のありすぎる粗末さ。
伸びた飛距離はせいぜい1.5メートル。私は対岸の屋上にしたたかに腹をぶつける。
「ぐっ!」
内臓が飛び出そうな痛み。肋骨がまともに折れた。これが現実なら走行不能になる負傷だ。
だが幸運にも窓の真上。私は足を振り上げてガラスを粉砕し、体を屋内に滑り込ませて、そしてふらつく足で赤く発光する台座まで歩き、ゴールプレートに覆い被さる。
「ま、まさか……」
ゴンドラからの光。そこへようやくアフロディーテが上がってくる。
「なぜ……いくら覚悟を決めたとしても、あのイバラの蔓の中を走れるはずがない。あなたは防具を出せないはず……」
やはりそのぐらいの情報は得ていたか、準備されていたわけだ。
「そうね……あの速度で走っていたら、棘で筋肉や腱が傷ついて、物理的に走行不可能だったでしょう」
私も本当に満身創痍だったので、荒い息をつきながら答える。この迷宮に演算力の奪い合いは関係なく、ゴールプレートにもやはりパスワードはなかった。
だがまあいい、勝利だけは手にしたから。
アフロディーテがようやくそれに気付いたようで、目を見張る気配がある。私は床にくずおれたまま、足を軽く上げて言う。
「だからイバラのツタで防具を作った。足首から膝下までを覆う脚甲をね」
そこには何重にも巻かれたイバラのツタ。突き出たトゲは吹き矢か画鋲か、出血も痛みも半端ではない、ゴールした途端にアドレナリンの巡りが弱まり、さらに痛みが数倍になった気がする。
そして私は目を閉じ、二度と御免だと思いつつログアウトした。
※
「いたたた……まだどこか痛い気がする」
「大丈夫ですか? キスしましょうか?」
「なんでよ」
拡張世界での負傷は現実には関係ないとはいえ、幻痛のようなものはしばらく残る気がする。陸上に差しさわりなければいいけど。
私とアフロディーテは屋敷へと戻り、私は紅茶を御馳走になりつつ足をマッサージしていた。
「イカロ様、お幸せですね、あなたのようなナイトに守っていただけて」
「……いや、守れなかったのよ。それとナイトはやめて、まだ女子のつもりだから」
私はようやく幻痛が遠ざかったのを確認して、アフロディーテを見遣る。
「じゃあ、あなたに頼んでもいいかしら。ノー・クラートを守るイージス艦への攻撃」
「はい、何とかいたしましょう」
攻撃の際、地下のダイダロスから地上までアンテナを伸ばすらしいが、やはりこの島に誰かがいなければ操作できない。私たちは攻撃の日時を打ち合わせる。
「しかし……普通に銃も兵士も出てくると思いますが、本当に大丈夫なのですか?」
「潜入して助け出すだけよ。無茶はしないわ」
命がけなことは間違いない。
だが、命ぐらい賭けるべきだろう。
こんな孤島から、八歳の子供が脱出したのだ。父親のことを知るために。
イカロも既にいくつかの死線を潜っている。拡張世界での戦いも、敗北すれば破滅を招く場面は何度もあった。命を、人生を賭けている回数なら、イカロの方がずっと多い。
何のことはない。
イカロには私がいるし、亜里亜もいる。
私はすでに戦いに身を投じている。
ノー・クラートが、ケイローンが、あるいはゼウスが演算力の全てを手にした世界。それはもはや容認できない。
走破者はもはや、人間の精神を超越した怪物になってしまった、そしてそれは私も例外ではない。
ならば私も最後までやり抜こう。競い合い、そして奪い合う戦いを、最後まで……。
「アフロディーテ、あなただって大丈夫なの? 攻撃があなたの仕業だとノー・クラートにばれたら」
「心配いりませんよ。ダイダロスの隠密能力は完璧です、それに」
「それに?」
「私としては、イカロ様の方を応援したく思いますよ。この島を出た時点でイカロ様は立派な男子でした。それを力ずくで連れ戻すのは間違っていますからね」
「イカロはどうやって島を出たの? 通りかかる船に助けを求めたとか?」
「この島には船が近づかないようにあらゆる手が打たれてます。イカロ様はライトプレーンを組み立てて脱出したようですよ。圧力釜をエンジンに、バスタブをプロペラにして」
まさかの空路だった、イカロ意外とワイルド。
「まあ、それでなくとも私はイカロ様のほうに味方しますよ。乳母としてミルクをあげていた方ですからね」
……。
「……え、ミルク、って……粉ミルクって意味、でしょ……?」
「ふふ」
アフロディーテはソファにもたれ、妖艶に足を組み替えて言う。
「私、二児の母ですよ。二人とももう独立してますが」
「あ、あなた何歳なの……?」
ゲノム編集者だから? 化粧とかエステで? それとも女神ヘラが入るとかいう若返りの泉?
アフロディーテは唇に指をあて、片眼をつぶって笑ってみせた。
「女には二つの時代しかありません。少女か、女かですよ」
※
「オリンピアってのは全員あんな感じなのかしら……」
数十分後、私は沖合いに待たせていたクルーザーに乗って船上の人となる。
短いながらも激しい戦いだった。帰ったら入念にストレッチをして、身体感覚に狂いがないか確認しておきたい。
『北不知さん、島を離れましたね』
「タケナカ、これから戻るわ。イカロ奪還の日時が決まったから打ち合わせるわよ」
『はい、それと、ケイローンの事なんですけど』
ケイローン?
彼が迷宮に潜るであろう日はもう少し先だと思ったが、もう動きがあったのだろうか。
「彼がどうかしたの?」
『その……何と言えばいいのか』
やり手のビジネスマンのようにはきはきと喋るタケナカだが、この時は妙に雰囲気が重かった。数秒、言葉を整理するかのような沈黙のあとに声を寄越す。
『敗北しました』
『おそらく全ての演算力を失い……姿を消したようです』
Tips バラの棘
バラの棘は刺状突起体と呼ばれ、茎から生える毛に近い構造物である。
その発生理由はいくつかの説があり、外敵から身を守るため、他の植物に引っ掛けてつるを支えるため、表面積を増やして体を冷やすためなどと言われる。




