第七章 3
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それより数時間前。
セーラー服姿の私が亜里亜の後ろをついていく。彼女は見事な日本庭園を右手に、鶯張りの回廊を歩く。
「どうでもいいですけどミズナさん、セーラー服が似合いませんわね」
「自覚はあるわ……」
私は亜里亜の付き添いだ。日本ではこれがフォーマルな服と認められてるというのもあるが、学生なら荒事は避けられるだろうという計算もある。
亜里亜はいつもと同じ黒のゴスロリ。彼女自身の放つ空気のために浮いてはいない。この凝り固まった古い家を塗り替えながら歩く、そんな気もする。
ここは岐阜県の某所。山中を切り開いて現れる巨大な屋敷である。広さはざっと35000㎡、ショッピングモールなみだ。
すでに一切の根回しは終わっているという。私は単に亜里亜が心配でついてきただけだが、屋敷内をうろつく黒服はヤクザなのかSPなのか、亜里亜を認めると端に寄って目礼をする。
案内の人に連れられ、到達したのは奥座敷。
そこにはスーツ姿の男たちが集まっていた。みな高齢で、四人ほど呉服もいる。亜里亜を睨み付けている者もいれば、目をそらす者もいた。
そして一番奥。左右に人の列を見て座するのは巨漢の男だ。亜里亜が人の列の間を歩き、その人物の前へ進み出る。
「千次おじさま、ごきげんよう」
私は少し後ろで待機する。私を見て何人かが耳打ちをするが、ポーカーフェイスを保つ。
この人物が利根千次か、確か、亜里亜がちらりと名前を言っているのを聞いたことがある。彼女を拡張世界に幽閉した人物であり、絵に描いたような一族経営であるTONEグループの現在の総帥らしい。
「やあ亜里亜ちゃん、大きくなったねえ」
70がらみの肥え太った老人。鼻の下に白髭を蓄えて、丸っこい顔で人懐っこく笑う。目が笑ってないことぐらいは分かるが。
「おや、そちらは北不知ミズナさんだね、有名人がこんなところに何の用で」
「おじさま、唐突ですけどお願いがありますの」
駆け引きをするつもりはまったくない、そのような意思を見せて亜里亜が言う。千次なる人物はかなり巨漢のため、小学生の亜里亜では立っていてもわずかに見下ろす程度だ。
「何かな?」
「TONEグループ総帥の座から降りていただきますわ。そして自首していただけますこと? 容疑は私に対する誘拐と監禁、そして榛葉栄子の殺害容疑、殺人教唆と言うのでしたかしら?」
背後でざわざわと声がする。
確か、亜里亜は利根家の総帥とその愛人の娘だったはず。
あまり詳細は聞いていないが、その愛人はこの屋敷にて前総帥と同居していた。しかし総帥が伏せると同時に行方不明になったという。
内縁関係の人間は相続権を持たない。まして前総帥には正妻がいたから尚更だ。
だが実子の亜里亜は別。紛れもない直系だ。彼女の存在を疎む親族の人間が、亜里亜の母親を亡きものにし、亜里亜を拡張世界に幽閉したという。その愛人というのがいま名前の上がった榛葉栄子。
そして犯人というのが目の前の人物。利根千次か。
「はは、何を馬鹿なこと……」
「おじさま、もう終わりですのよ」
亜里亜は、それは母の仇とはいえ叔父である人物を破滅させたためか。強く断定的な口調であったけれども、舌先のもつれるような悲しげな響きが混ざっていた。悪戯をした子供に言い聞かせるように、ゆっくりと静かな様子で言う。
「もうあなたは何も持っていない。この家に私が踏み込んだ時点であなたは全てを失いましたの。私と貴方の力の差は、いま貴方が思っている差とまったくの真逆。貴方は小学生の小娘であり、私は海千山千の怪物になってしまった。なりたくも無かったのですけどね」
「何を言っている……」
利根千次は、一堂に会している場の男たちを見渡す。それが誰も動こうとしないのを見て、苛立たしげに眉根に力を込めて叫ぶ。
「おい、誰かおらんか!」
廊下に向けて叫ぶが誰も出てはこない。庭園にはモズが鳴くのみだ。遠景の秋の山々が目に優しい。
「おい! お前たち! 亜里亜をつまみ出せ!」
誰も動きはしない。
利根千次に求心力やカリスマ性など無いのは分かっていたが、抑え込みは上手くいってるようだ。把握していないのは利根千次だけか。
次第に旗色の悪さを察してきたのか、顔色をどす黒く変えながら狼狽する。
「な、なぜだ、笹本! 辻原! お前たちどうした!」
「本当は忘れてあげてもよかったのですわ。利根家の総帥の座など小さいこと。母の仇についても、それに取り組めば私の一生は復讐に塗り潰されてしまう。だから私は自由に生きるつもりだった。でも仕方ないのですわ。私はちょっとお金が入り用ですの。別に貴方への恨みはどうでもいいのですわ、だから早く席をどいてくださる?」
利根千次は、そこで初めて気圧されるように後退し、座椅子が畳を擦る音がする。
「馬鹿な、こんなクーデターなどあるはずがない。TONEグループの時価総額がいくらあると……」
「お疑いなら実践してみせますわ。利根家のグループ内約款によれば、グループの当主は親族株を持つ44人のうち、31人以上が招集された親族会議により決められる。この場には36人おりますわね。代表当主の解任動議については会社法と同じく当主自身に議決権はなく……」
「やめろ!」
利根千次は叫び、座椅子を蹴倒しながら立ち上がると、鹿の角でできた刀掛けから日本刀を取り上げる。
「そんな勝手が許されるものか!! 黙らんと子供だろうと容赦せんぞ!」
「何ですのそのチープな恫喝は!」
まったく気圧されることなく進み出る亜里亜。
「こんな場で小学生の私を斬れると思っていますの! 悪あがきにしても浅薄! 安い劇のようですわ! それにその刀で人が斬れると思ってますの!」
「なに……」
刀を抜く。
果たして、足元にへたりと広がる紫の花。
亜里亜の胸元を飾るものと同じ、紫のリボンが柄から流れ出てきた。
「な……」
「ああそれと、自室に隠していた銃も回収しておりますわ。手入れの際は手袋を付けたほうがよろしくてよ、あちこちにおじさまの指紋がベタベタと」
「な、あ……」
すでに工作は済んでいる。
何より大きかったのは亜里亜の母親、榛葉栄子の殺害に関する証拠が集まったことだ。すでに実行犯は逮捕済みであり、その情報で他の役員を懐柔できた。
だがやはり、恐るべきはダイダロス。
いくら亜里亜に理があっても、小学生がこれだけのグループを乗っ取れるはずがない。ここにいる役員は誰に懐柔されたのかも分かっていない。これは外資による買収か、親族内部の亜里亜以外の誰かのクーデターであり、亜里亜は傀儡だと思っている者がほとんどだろう。あるいは金銭で、あるいは弱みを握って協力を承諾させたが、これだけの工作を数日でやってのけるとは。
もっとも、利根千次という人物は調べれば調べるほど同情に値しない人間だった。亜里亜がやらなくても、いずれ誰かに寝首をかかれていただろう。
「そ、そんな馬鹿な……」
「さあ、2時間以内に自首して頂ければ悪いようにはしませんわ。表に車を用意してあります。それで警察までお行きなさい」
「あ、ああ‥…」
利根千次は、それは抵抗の道を探すと言うより、本当に事態を受け止められないという様子で硬直していた。目を丸くして恐怖に震えていれば、やがて事態がやり過ごされると思っていそうな子供じみた態度。察しの悪いことだ。
「――亜里亜、あんまりいじめんとき」
と、そこへ声がかかる。
脇を見れば縁側に立つ人物。黒っぽい袷の着物を着て、薄紫の帯を締めた女性だ。髪は部分的に赤茶色のウィッグが入っている。黒い着物に合わせてか、やや化粧が濃い。
「あら……棗おばさま」
この人物は資料で見て知っている。利根棗、前総帥の正妻である。
「もうええんちゃうの。千次さんも務所に入りはるんやろ。それよりちょっと話があるんよ、私の部屋へ来とくれやす」
「……」
彼女はTONEグループの経営には関わっておらず、贈与された財産だけを手にして隠居の身である。亜里亜を拡張世界に幽閉した人物の一人と目されていたが、それによって彼女が手にする利益があまり無いため、あくまで首謀者は利根千次、棗夫人はそれを黙認したのではないか、と推測していた。
亜里亜は少し考えた後、私を振り返って言う。
「ミズナさん、いっしょに来てくださる?」
「いいけど、この場の人たち放っといていいの?」
「そろそろ弁護士の先生とか税理士さんとかがいっぱい来ますわ。皆さん、その方々の指示に従ってサインとかハンコとかお願いしますわね」
日本の経済史に残るほどの、電光石火のクーデター。
それを何とも雑にやり終えて、亜里亜は棗夫人の後を追った。
※
通されたのはこの広大な屋敷の離れ。離れと言っても立派なお屋敷だけど、ひたすら長い廊下だの飛び石だのを通って向かう。
「亜里亜、栄子さんのこと恨んでますのんか?」
「そうでもありませんわ」
亜里亜はどこか遠くに投げるような声で言う。何だか疲れたような、ようやく肩の荷が下りたような印象である。実際には巨大な荷物をいま背負ったばかりなのだが。
「母は前総裁が伏せった時点で、とっとと逃げるべきだったのですわ。まして一族経営の利根家で私を産むなんて、どれほどの波乱を呼ぶか想像できないはずがありませんわ。母は母なりの野心を持っていて、それに敗れただけなのでしょう」
「せやね。栄子さんは強い人やったわ。千次はんがやりすぎたのは確かですけど。因果を含めて追い出すだけのつもりが、死なせるまでに至ったんは、それほど栄子さんが脅威やったのかも知れませんなあ」
棗夫人は50過ぎぐらいだろうか。京都弁のようなそうでもないような微妙な言葉遣いだが、この岐阜の家でずっと過ごしていたせいだろうか。複数の方言が混ざっている印象がある。
そして離れの家に至る。
奥座敷にある襖を勢いよく開くと、果たしてそこにあったのは。
「! ダイダロス」
「そうです。今はどこにでもありますなあ」
私は小さな声で亜里亜に問う。
「ねえ、あなたが拡張世界に幽閉されたときのインターフェースって」
「ダイダロスじゃないですわよ。普通にハイエンドなPCでしたわ」
「あんたらの乗っ取り、子供に準備できることではありませんわ。演算力でも使わんとね」
……!
まさか、この人物も走破者?
いや、しかしそれならこの乗っ取りが成功するのはおかしい。演算力で身を守れるはずだ。
「なぜ知ってるのか教えたりましょ。天塩創一っちゅう男はな、大昔にうちのTONEソフトプランニングの社員やったんよ」
「初耳だわ……」
ぽつねんと、そう反応する。
いや、そういえば利根家はPF、フィジカルフィードバックの普及の初期から、拡張世界での早回しの研究をしていたと聞いたことがある。亜里亜に適用されたのもそれだとか。
「もっとも半年で辞めてます。私は当時その会社で部長やっとってね、顔を覚えてたんよ。でも天塩創一が海外でPFを発表して有名になったあと、当時の記録を見たけどそんな社員の名前はカケラもなかった。社員旅行の写真にも写ってなかったんよ、いた記憶はあるのに」
「どういうことですの?」
「推測でしかないけどな、そもそも人事課の人間に彼を採用した記憶がないっちゅうのよ。何らかのデータ上の工作で潜り込んだんやね。当時、世界最高やったうちの開発機器を使うために」
「……」
絶句するのは私も亜里亜も同じだろう。イカロには言いにくい話だ。
「私は指示を出してPFを徹底的に調べさせた。早回しについては独自の成果も出てきたけど、核心部分のコードは複雑すぎてまるで解析でけんかったんよ。そしたら天塩創一からコンタクトがあってね。迷宮、というものについて」
「……」
私は相手の反応を窺っていたが、相手にはそういうつもりはなさそうだ。ダイダロスに触れつつ、遠い思い出のように話す。
「彼はこう言うてはったわ。走破者を育成してほしいと。頭脳にも肉体にも優れた、迷宮を走破できる人間を育てて欲しい。その人間が、やがて世界の望みを叶える、と」
「……」
何度か聞いたような話だ。迷宮を走破したものは莫大な演算力を手に入れ、人類の次なる一手を示す。望みを叶えて、世界はその望みに合わせて変容すると。
「だから亜里亜、あんたには英才教育を与えたんよ。千次はんの望みは経営学から遠ざけること。それとうまく折り合える選択やったからね。さいわい、あんたはバイクやら車やらに興味を持ってくれたしなあ」
「……」
あらゆることの奇妙な因縁。
それは果たして天塩創一の仕掛けた絵図か。あるいは彼すらも迷宮に使役される駒の一つに過ぎないのか。首謀者などどこにもおらず、迷宮それ自体が意思を持つのか……。
「亜里亜、うちの走破者と戦うか?」
棗夫人がそう切り出したとき、部屋に一陣の風が吹くように思えた。
Tips TONEグループ
旧財閥である利根家を前身とする複合企業群。現在はTONE投資信託銀行を中心として、戦後に結成された127社ほどのグループであり、強固な一族経営体制が敷かれている。
グループ全体の時価総額はおよそ17兆円。主要企業の社長と、親族内の有力者は親族株を持ち、独自の約款に従って経営方針が話し合われる。




