第一章 5
舌にぴしりと響く感覚、視界がブラックアウトする、それは私という連続性の喪失。
極小の時間だけ私の自我が無の領域を横切り、私は異なる場所に降り立つ。視覚が、重力の感覚が、そして肌に感じる熱が私に実在感を強制する。
「――暑い」
肌にひりひりと吹き付けるような熱気、空気が乾燥している。
目を開ければ痛みにも似た焼け付く感覚がある。石の床が白く見えるのは照り返しのためか。
『その迷宮は、谷間で気温41度、湿度は1%以下しかありません、砂ぼこりがありますので、ゴーグルを着用して下さい』
イカロの声が宙に響き、からん、と地面に保護ゴーグルが落ちてくる。私はそれを拾い上げて、埃を落として装着する。
さらに帽子と、肌を保護する黒の長袖シャツに手袋も降りてくる。
「真上から日が照りつけてる……。これじゃ逃げ場がないわね」
地球が太陽から受けるエネルギーは、その放射の数十億ぶんの一に過ぎない。
太陽のエネルギーをもらさず受け止めるために、大地を拡張し、ときに球体となって恒星を包みこむ、これがダイソン球殻天体だ。
アメリカの宇宙物理学者、フリーマン・ダイソンが提唱したこの構造体は、恒星のエネルギーを余さず利用できることから文明の究極の形と言われている。広い宇宙では、優れた知的文明によってこのような天体が存在し、閉じたエネルギー系の中で栄耀栄華を誇っているのではないか……と。頭のいい人は妙なことを考えるものだ。
まあ、恒星系が夜空の見た目よりもずっと多いかも、という想像は嫌いじゃないけど。
イカロの説明によれば、この場所は恒星を中心として球形に大地を構築している。そのためどの場所にいても夏至の正午の日差し、つまり真上からの光に晒されることになる。
「本当にそんなに広いとして、どうやってゴールなんか探すのよ」
私はつばの広い白の帽子、八分袖の黒シャツという、日焼けしたくない主婦のような格好になって呟く。
『真横を見て下さい』
言われて首を動かす、そこには石材で作られた壁。鉄板がはめ込まれており、文字が刻まれている。
迷宮を走破せよ
シンプルな一文だ。
『その言葉はすべての迷宮に刻まれています。ゴールには『走破者に喝采を』という言葉と、アクセスキーとなるパスワードが物理的に刻まれているんです』
つまりこの場所がスタート地点、というわけだ。
『探していただきたいのは、ゴールの碑文です』
私は迷宮を観察する。壁と床は黄色っぽい石材。壁の高さは10メートルほどで、触るとほんのりと温かい。対して床は焼けている。ゴムサンダルなら溶けて張り付きそうな温度だ。
「壁はあまり熱くなってないのね」
『投影面積の関係でしょうね。太陽に対していつも垂直になっていますから。さらに言うなら本来はもっと気温が高くなっていても不思議ではないのですが、壁の存在によって表面積が増えているために気温が抑えられているようです。もっとも、人間が活動できる程度の温度に調整しているだけ、かも知れませんが』
この世界を構築したのは天塩創一、どのような環境にするかも彼の思うがまま、というわけか。
「まあいいわ。それで……ドローンを飛ばして調べてたんでしょ? 何か分かってることはあるの?」
『……』
沈黙の気配があり、答えの代わりにドサドサと物が降り注ぐ。
それは書籍である。卒業アルバムのような大判で、開いてみるとモザイク画のような迷宮の空撮写真がある。
次のページも同じ写真、その次も同じ。とにかく1ページにみっしりと迷宮が描かれてるため、見た目は色覚検査のようになっている、少しだけ生理的嫌悪感をもよおす。
「何これ?」
『ドローンによる空撮写真です。真上からではありますが、スタート地点のレリーフはわずかに映っています。同様にゴール地点にあると思われるレリーフも撮影できないかと思って、ここ数日の間、ずっとドローンで撮影していたんです』
私は降ってきた大判の本を見る。ざっと50冊はあるだろうか。
「けっこうな量ね」
『それはごく一部です。僕は75台の空撮用ドローンを運用し、2000万回以上の航空撮影を行いました。撮影した面積はアフリカ大陸のほぼ50倍、地球の全陸地面積の10倍に相当します。ですが、これでもダイソン球の面積の数千万分の1……』
「そんなダラダラ数字並べられても分かんないっての」
私は少しぶっきらぼうに言う、とにかくとんでもない範囲だということだ。
「ところで、さっきからいろいろ降ってきてるけど、ここってモノを送り込めるのね」
『はい、ある程度の物でしたら自由に送り込めます。単一の物質なら無尽蔵に送れますが、機械はその挙動を、こちらの演算力で物理シミュレートしなくてはいけません、そのため送り込めるものには限界があります』
さらにイカロが説明するには、空撮用ドローンは極力シンプルな構造にして、最大で75台。
大型バイクなら10台。クルーザーなら2台、イカロの所有している「演算力」をリソースとして、そのぐらいの物資を生み出せるらしい。
だが、ドローンが750台だろうと、7500台だろうと似たようなものだろう。
要するに、力技の通じる場所ではない、ということだ。
「どれ、それじゃちょっと走ってみるわよ」
『お願いします。僕の思うに、意外に近くにゴールが隠されているのではないかと……』
私は走り出す。
熱い湯をかき分けながら走るような感覚。肌に吹き付ける熱波が水分を弾き飛ばし、床からの照り返しが網膜を焼かんとする。
段々と加速する。ストライドを伸ばし、迷宮の壁面に手をついて、反射するように曲がる。迷宮は幅3メートルほど、十字路を横切り、ジグザグな道を直線に近いラインで進み、三叉路をとっさの判断で曲がっていく。そして頭の中に地図を描く。スタート地点の正面を便宜的に北とした場合、最初は北東へ、しばらく進んでから南下し、スタート地点を中心に大きな円を描くように進む。頭の中で常に位置感覚を保ち、己がスタート地点から長いロープで結ばれているような気分で走る。
そして1時間ほど。
「んー……」
かいた汗はすぐに蒸発してしまうため、体は乾燥しきっている。もちろん汗も疲労も実際の肉体には反映されないはずだが、もし反映されていたら今ごろ本体はバケツの水をかけられたような有様だろうか。
走破距離はおよそ20キロあまり、発汗はともかく疲労はさほどでもないが、私はふと足を止めて上を見上げる。
「ちょっと上から見てみるわ、壁を登ってみる」
『分かりました、大型の脚立を出します』
「別にいいわ」
私は靴を脱ぎ、靴紐同士を結んでそれを肩にかける。靴下ごしに足の指をにぎにぎと動かし、壁の角の部分に取りつく。
壁はよく整えられた石材で、摩擦力が強い、私は手と足の握力を動員して登る。
そして壁の上へ。
足をかけようとしたが、はっと気づいてまず帽子を置き、その上にえいやと足を乗せる。
『あっぶない、かなり熱くなってるわ』
そしてまずお尻を乗せ、急いで靴に足を入れて立ち上がる。
「……」
ゴーグル越しに眺めれば、360度、どこを向いても均一な迷宮。そこには果てもなく、迷宮以外の何らの人工物もない。この迷宮には「外に出る」という概念が存在しない。何かしら圧倒的に巨大なものに呑まれる感覚。人によってはこれを絶景とも言うだろうか。
「この迷宮、大して迷路になってないわね」
『? どういう事です?』
イカロが問い返す、私は漠然とした感覚を言語化しながら答える。
「迷路って、スタートからゴールまでが基本的に一本道で、間違った道が枝みたいに存在してるでしょ。ここは違う、一番長い壁でも20ブロックぐらいしかない、少し複雑な路地で構成された町、って感じ。だから方向感覚さえはっきりしてれば、意図した方角に進める」
『そうですね、迷宮そのものはアトランダムに生成されてると思います。迷路生成のアルゴリズムで言うと棒倒し法、等間隔に置かれた柱から、封鎖区画ができないように壁を伸ばしていくような方式で生成されています』
私は熱風を肌に感じつつ、思い付いたことを言う。
「この壁の並びがヒントになってるんじゃない? 何かの暗号になってて、読み解くとパスワードが分かるとか」
『いえ、空撮写真を分析しましたが無駄でした。もし暗号だとしたら、壁の配列に規則性があるはずですが、迷路を成立させるためのアルゴリズム以外には何も見いだせません。棒倒し法は、迷路生成のアルゴリズムとしては最もシンプルなものですし』
「壁の破壊は試してみた? 何か埋まってるかも」
『スタート地点から300メートルの範囲で掘り返してみました、何も埋まってません。迷宮の破壊については、プレイヤーがログアウトして無人の状態になるとリセットされます』
それはそうだろう、と私は思う。
もし壁に何か埋まってるだとか、スタートの碑文を壁から剥がし、ひっくり返すとゴールになるだとか、そんな答えではあまりにも無体だ。これだけの迷宮を作って、そんなトンチのような答えのはずが……。
「……ねえ、でもおかしくない?」
『何がでしょう?』
「この迷宮、いくらなんでも広すぎるでしょ、太陽を挟んで反対側の位置までは2天文単位、つまり3億キロ。もしそんな位置がゴールだったら、どうやって行くのよ。スタート地点は固定なんでしょ」
『いえ、おそらくそんな位置がゴールになってるはずはないかと』
「…………」
私は、そのイカロの当たり前のような発言に違和感を覚える。
(そうかしら?)
(こんな馬鹿げた巨大さの迷宮を作って、その大半が意味のないもの、なんてことがありえるの?)
この迷宮は、おそらく「謎解き」の迷宮、その予感はある。人間が物理的にねじ伏せられる規模ではない。
(必要なのは、思考)
(この迷宮の不自然な点は何? 隠されているものは何……?)
(考える……頭の上から、順に)
「空に何か浮かんでるとか」
『いえ、様々な波長のレーダーで探査しましたが、なにも見つかりません』
「じゃあ……」
瞬間、私はそれに気づいて顔を上げる。
「ちょっと待って、おかしいわ」
『?』
「ここはダイソン球でしょ、恒星をすっぽりと包んでる」
『はい』
「なぜ私たちは立てるの?」
私の言葉に、イカロは即座に答える。
『それは、重力がそう設定されているからかと』
その答えに私は顔をしかめる、イカロも分かっていたのだ、物理法則をねじ曲げ、そう設定しなければいけない、不自然な場所である、と。
「イカロ、ちょっと調べて、もし地球の全質量を使ってダイソン球を作った場合。その厚みはどのぐらいになる?」
『調べます……出ました、利用可能な質量をどう見積もるかによりますが、幅数千キロほどのベルト状に作れば厚さは数十キロ、球体で作った場合はほんの数メートルの厚さになるかと』
地球の質量は60垓トン。
これを50京平方キロで分配するわけだから、一平方キロあたり一万トンの質量が使える。
言うまでもなく、ぺらぺらだ。バルサ材でも十分な厚みが得られるかどうか。というか、明らかに迷宮の壁だけでその質量を上回っている。
「そうか」
私は言う。
「よく考えればおかしかったわ。空に太陽しか見えない、レーダーでも何も見つからない、つまり水星と金星がない、おそらく、ダイソン球を建造すると星系の重力に影響が出るから、太陽系にあるすべての質量を投入するんだ、それなら辻褄が合いそう」
『す、すいません、仰ってることが……』
「いや、まだ足りない。太陽系の惑星質量は太陽の質量の0.13%しかない。この大地と迷宮の壁は作れても、まだ地面の引力より太陽の重力の方が強くなりかねない。それに厚みもせいぜい数キロメートル、潮汐力で構造体が破壊されるか、最悪なら私たちごと真上に吸い上げられるはず」
『……』
イカロの沈黙は何をかいわんやである、彼は「そう設定されているから」という感覚が払拭できないのだろう。
イカロはどこかから言葉を探してきたように、ぽつりと言う。
『……例えば、ダイソン球を回転させて、外側に向けた遠心力を発生させるという手もあります』
「それだと回転軸上、つまり南北の極点はどうしようもないでしょ、それに地球の遠心力は、重力よりずっと弱いはず」
『で、ですから、極点まで行くことは前提として……』
「分かったわ」
私の唐突な発言に、イカロが声を押し止める。
『ど、どうかしましたか?』
「この迷宮の中で、何が真実で、何が嘘か、よ」
私は迷宮の壁面から、真上を見上げる、足元では靴底のゴムが溶けてきて、肌の露出している部分はじりじりと熱されている、この苛烈な環境だから思い至るのが遅れた。ここが太陽を中心としたダイソン球なら、この気温は異常なほど寒すぎる。
「迷宮を構成するのに光が必要なら、わざわざ太陽を作る意味がない」
「あの太陽だけが偽り」
「迷宮のゴールは、あの太陽に隠されている」
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