第六章 6
「拡張世界において出せる物体についてですが……」
三ノ須内部にある情報処理教室。私と亜里亜は白い椅子に腰掛けてイカロの話を聞く。イカロはダイダロスを背にして、小型のノートPCに何か入力しながら話している。
「これまではきちんと設計され、素材の指定された物体を出現させていました。CADのようにフレームで形状を構築していたのですね。僕も基本的にはそうやって出しています」
ダイダロスの中に3D設計画面のようなものが浮かび、ワイヤーフレームで表現された車が現れる。フレーム、ボディ、エンジン、タイヤなどが次々に構築され、やがて一個の軽自動車となって地面に落ちた。
「ですが、拡張世界にいる走破者は少し違うようです。機械を生み出すには駆動機序を厳密に理解してなければならず、車のような複雑なものを出すのは非常に難しい作業です」
「まあ私はすぐ出せますけども。天才なのですわ」
そこはもう否定する気はない。拡張世界で機械を出すというのは一種の特殊技能である。いまだに鉄クズしか出せない私には未知の世界だ。
「しかし、物体の出し方というのはそれだけではないようです」
イカロがダイダロスに動画を映す。
それは先日の戦い。「蛙都嘯風の涯」での様子だ。
大柄なチェーンソー使い、たしか名前はドライアとか言ったか、イカロが撮影していたらしい。
彼が肘から先を真上にかざす、そして目の前から伸び上がるのは点に届くほどの巨木だ。何十本も続けざまに伸びて、目の前を埋めつくす防壁となる。
「この場面です。これは北アメリカなどで見られる大型のセコイア杉。世界最大とも言われる巨大樹ですが、これを植物細胞一個から作るとしたら、極小のICチップをぎっしり詰め込むような複雑さとなるでしょう」
「もっと楽に出せる方法があるってこと?」
「はい、おそらくメガデモではないかと思います」
イカロの説明によれば、Demoとはリアルタイムに映像や音楽を生成するプログラムのことだ。
今ではゲームの世界においてもあらかじめ収録した映像と音楽を流すのが当たり前だが、かつてはプログラムの指示によって、マシンがリアルタイムでフィールドを描画し、内蔵音源を駆使して演奏を行うという仕様があった。
Demoとはそのプログラムを制作するサブカルチャーであり、とくにファイルサイズが1MB以下のものがメガデモと呼ばれ、後にはDemo全体を示す言葉となったという。
「大木というのはもとは一つぶの種です。その細胞分裂と変異、樹皮や維管束の形成、枝葉の分岐などをリアルタイムでレンダリングすることにより、巨大なものを一瞬で生み出せるのだと思います」
亜里亜が足を組んで言う。
「なんだかずっこいですわね、そんな技があったなんて」
「いや、亜里亜もこれをやっていると思うよ」
「え?」
亜里亜はきょとんとしている。
「バイク一台分の3Dデータを数式で表現すると、それは辞書一冊分を越えるほどの分量になる。ある程度はダイダロスが補佐してくれてるんだよ。もしくはウェブサイトの入力履歴のように、過去に作ったものはダイダロスが記憶していて簡単に作れるとか、そういうことだと思う」
どうでもいいけどイカロって亜里亜に対してフランクよね……。前からだけど。
亜里亜は利根家の跡目争いからドロップアウトした後、オンライン上の草レースに出ていたと聞いたことがある。そこでイカロに見いだされたらしいが、二人にどんな過去があったのか少し気になるところだ。
まあ小学生同士だし、敬語なんて無いほうが普通なんだけど。
話を進めるために質問する。
「つまり、一度出したものなら簡単に出せるってこと?」
「はい、オートコンプリートですとか、プリレンダのような概念に近いかと」
「……」
何か……違和感がある。
もちろん私はコンピュータは素人だけど、イカロもぼんやりと概念を掴んでいるだけ、という印象だ。結局のところはイカロにも詳細には分かってないのかも知れない。
……もっと言うなら、イカロはなまじ知識があるために、起きていることを既知の概念に当てはめているだけのような……。
「つまりメガデモを物質創造に生かせるってことですわね?」
亜里亜の言葉に意識が引き戻される。
「そう、このセコイア杉の例で言うと、発芽から若木になり、成木となるまでの成長のルールをイメージし、演算力によって高速で処理させることで巨大樹を生み出す、そういう理屈だと思う」
イカロが回答し、ダイダロスの画面にはCG作品のような映像が流れる。成長する雪の結晶、カルマン渦を描く線香の煙、壁の切れ目から延々と生まれ続けるマフラー、最後のやつはなんか気持ち悪い。
これはつまり、ダイダロスがリアルタイムで演算し、物体を生み出している様子、というわけか。
「ミズナさん、これを応用すればミズナさんにも物質創造が可能と思います。馴染みが深く、イメージしやすいものならなお良いかと」
「なるほどね……」
……。
何だろう、この感覚は。
今のイカロの話、何かもっと重要なことを示唆していたような気がする。
その感覚が私の原記憶と呼応する。納屋にものを探しに入って、何を探しに来たのか忘れてしまったような居心地の悪い感覚。
私は、いや、私たちは何かを見逃したまま迷宮に潜っていないだろうか。迷宮で物質を創造するとは、どういうことなのか……。
分からない。だが錯覚と片付けることができない。
いったい私は、何に気づいていないと言うのか……。
※
新井式回転抽選器、という言葉をご存じだろうか。
名前に聞き覚えがなくても、必ず見たことがあるはず、ピンと来そうな言葉で言うなら「福引きでガラガラ回すやつ」だ。
回転する野球場。非常識ながらも神話的な迫力すらあった光景に対して、内部はまさに地獄のような現実的やるせなさ。
スタジアムは基本的に外周部分が繋がっている。すなわち、あらゆるものが真下の位置に集まってきて回転し、かき混ぜられ、粉砕されるわけだ。
私は上から入場ゲートの降ってくる位置に立ち、そこから中に入ったが、すぐそばに大量のゴミが迫っていてあわてて上に行く。都合上、ハムスターの回し車のように回転方向に沿って坂を上がる。
坂を様々なものが落下してくる。売店の小物、清掃用具、プラスチックやガラスの破片。私は走りながらもそれを回避する。
まさかとは思うが売店もすべて再現してるのだろうか? ならば下手をすればフライヤーの油が降ってくる恐れもある。知り合いの父親ではあるけど、あの創造者ならやりかねない。
私は外側の壁を走る格好になり、この状態だとスタジアムへの入場口は真上に空いていることになる。とはいえ大した問題ではない。私は天井だった側に飛び付き、蛍光灯の台座を伝って入場口に取り付く。真下では撹拌されるゴミの海。それをやり過ごすと角度が段々と高まり、私のいる位置は時計で言えば6時から5時となり、4時になったあたりで急いでスタジアムまで走る。
観客席へ出る。そこは目にも眩しいエメラルドの海。天然芝が青々と繁り、そして土台から外れた椅子とか、剥がれた看板の破片なんかが殺意と共に落下していく。遠くを見れば摩天楼の素晴らしい眺めだ。
現在、時計で言えば3時の位置、みるみるうちに高さが上がっていく。そして内野は真正面だ。
そしてさらに遠く、いま地面に接している左翼ファールポールの向こう側。看板を乗り越えて入ってくる影が見える。
あれはゼウス、フィールド側から入ってくる作戦か。
私は椅子の側面を飛び歩く。角度は急激に高くなりつつあった。できればバックネットを切断してフィールドに入りたかったが、ネットがスチール製で頑丈そうだ。いちど左翼側ファールゾーンからフィールドに入った方がいいだろう。私はジャンプして階段を下るように進み、最後は両足踏み切りで内野ネットに飛び付く。
イカロの声が降る。
『ミズナさん、各塁のベースを調べましたが、どうも一塁二塁三塁はタッチパネルになっているようです。ドローンで接触しましたが反応ありません』
まあそんな事だろうとは思っていた。つまりホームランを成立させるため、一塁から順番に素手で触れということか。
私はネットの切れ目まで降りていき、フェンスを越えて内野へ、そのままフェンスを滑り降りて真下まで行く。ちょうどファールラインがフェンスと接するあたりまで来た。
今はホームベースは2時のあたりにある。フェンスを足場にしつつ、下まで降りてくるのを待てば簡単にクリアできそうだ。
ゼウスを見る。彼はなんと椅子に手をかけて外野席を登っていた、左翼側からバックネット裏へ。
しかも早い。クライミングの経験があるようには見えなかったのに、椅子を掴んで体を放り投げるように登っていく。
「まずい、あいつは待たない作戦。このままだと頂点付近で先に内野に入られる」
そして私は見た。ゼウスの痩せた細腕、その表面にぶるぶると震えが見えて、表面をぱしりと火花が走っている。
「あれは……」
「電気だよ、日本のお嬢さん」
拡声装置でも使っているのか、ゼウスの声がここまで届く。
その細腕が、私の経験則の何倍もの力を生んでいる。椅子を掴むだけで不自然な角度で体が支えられ、易々とその体を真上へ送り出す。
「何でも出せるということは、すなわち自由電子すら出せるということ。己の筋肉を電気で制御し、痛覚を麻痺させ、限界以上の力を引き出すのもたやすい、というわけさ」
なるほど、それがゼウスの特性。
……だが、言うほど簡単ではないはず。自由電子そのものを出して制御するなんて、どんなイメージと演算力があればそんなことが……。
私は地面を掴む。天然芝と土だ。常に剥がれてきており、ぱらぱらと土くれの雨が降り注いでいる。とてもこの芝に体重を支える強さはない。
だが。
「イカロ、あれをやるわ」
『はい、お気をつけて』
私は目の前にある地面に手をかざす。
そう、必要なのはイメージ。内容物、結晶構造、節理と層理。イメージは吹き上がるマグマ、それが冷えて固まり、長年の磨耗や地殻運動で凹凸を持つ。私のイメージがダイダロスを通じ、無限の演算力によって処理され、この手の中に再現される。
そう、私にもっとも馴染み深いもの。この手に記憶となって刻まれている、あれを!
瞬間。
手のひらから爆発的に広がる白の伝播。光の軌跡が真上に突っ走り、一瞬でスタジアムの端まで到達。
それは岩だ。でこぼこした火山性安山岩がスタジアムを横断している。地面にしっかりと食い込み、何千年を経たような浸食をも再現している。
練習できた時間はわずかだったが、うまく行った。これが、迷宮でものを創造するという概念……。
「ほう、岩とはね。だがそこからどうする? 登る気なら僕の方がずっと早いと思うが」
「そう?」
確かにゼウスも早い、椅子を手がかりに、ハシゴを登るような速度だ。
だが、スポーツクライミングももはや立派なオリンピック種目。それは体系化されたトレーニング科学と、蓄積された技術の結晶。人より動ける程度で埋められる差だと思うのか。
私は安山岩の岩肌に手をつき、一気に飛び上がる。ホールドを掴んだ瞬間に腿を胸にまで引き上げ、足場を蹴ると同時に一メートル真上に。その動きが連続し、イナズマのラインを描いて垂直の壁を駆ける。
「うおっ……」
ゼウスの驚愕の声を遠く聞く。
隆起を多めにした壁は階段も同じだが、この速度はそれだけではない。
拡張世界においては筋肉の疲労はない。私は常に最大限の膂力を駆使しながらホールドを渡れる。現実ではとても出来ないルートと速度、この動きがもし現実でやれるなら金メダリストすら凌駕する世界。
そして内野に到達した瞬間、私は一塁を平手でひっぱたき、ぴこんと電子音が鳴るのを確認すると同時に斜め下へ、進行方向を石化させつつ二塁、そして一気に三塁、ホームベースへ。
「取ったあ!」
そしてホームベースにタッチ。するとGOALの赤文字が消え、32文字のパスワードが浮かび上がった。イカロのドローンが素早くそれを撮影する。
ゼウスがフェンスを越えて内野へ来たのは、丁度その時点だった。
Tips メガデモ
音楽やCGアニメーションをリアルタイムで生成するプログラムのこと。それ自体の美しさと、限られたプログラムにいかに多くのコンテンツを詰め込めるかという競技である。
現在でもコンテストが行われており、動画共有サイトなどで広く知られるようになった。