第六章 1
ありのままに自由に生きたいと願う。
しがらみから自由になり、衣食住に不自由せぬ日々を過ごし、成すべきことを成したい。
純粋で無垢な、赤ん坊のような願い。
だが、その願いを本当に実現できてしまったなら。
法規や倫理、他人の生命財産すら羽虫のように無視できるとしたなら。
その人物を誰が許容するだろうか。
その人物が、無垢で純粋であればあるほど、放置しかねるだろう。
赤子に罪のあるはずもなく。
ただその罪苦、神の杖を握ったがゆえに。
※
「やあ……」
ゼウス、彼はそう呼ばれたことに反応したのか、私に応答を返す。喉が焼けているかのような枯れた声だ。
「メール見たわよ。私に何の用」
「ちょっと待ってくれ……」
ゼウスは壁に背を預けつつ立ち上がり、部屋の隅へ行く。そこには小さなへこみがあり、手をかけると引き出しのように開いた。どうやら外から物資を入れられる引き出しのようだ。
ゼウスは小さく透明な水差し、そして薬の入ったビニールの袋を取りだし、何錠かの薬を飲む。
水差しは置いた音からしてプラスチックのようだ。けして彼にガラスや金属を与えまいとする執念を感じる。
「……確かに、僕はゼウスだ。君は走破者だね」
ようやく疲れ果てていた様子から少しは回復し、そのように問うてくる。私は首肯した。
「そうよ。あなたもそうなの? 奥にダイダロスが見えるけど」
「そうだよ」
こんな海底の、牢獄の奥からアクセスする走破者にも驚いたが、もっと驚いたのは彼が本当にゼウスを名乗った事だ。私にメールを寄越した彼が。
イカロによって、この施設の全容はすでに解明されている。職員も、他の囚人たちの情報も分かっている。最奥にいるという囚人だけはすべての情報が抹消されていたが、それがつまり走破者だ。
そのような事実は二つの意味を持つ。奥にいるのがダイダロスの演算力でも追えない存在であること、そして、この収監施設は走破者の要塞ではないことだ。
この施設自体が何かの罠の可能性は低かった。だから来たのだが……。
「ケイローンは僕たちの同士だった」
ややあって、そのように言う。
「彼は医師であり、特に馬の治療が専門だった」
「馬? え、あいつ獣医なの?」
「元々はね。今はなぜか生物学研究所の所長をやってるらしいが、まあ演算力さえあればできない知的労働はないんだよ」
考えてみれば、アレイオンとかいう馬の走破者を従えていたし、獣医である方が自然なのか。偏見だが何だか研究者然としてたので、医師だとしても内科医だとか研究専門のように見えた。
「彼がとうとう演算力の総取りに走った。いずれ起こることだったが、誰かが止めねばならない。だから僕たちに協力してほしい」
「……」
なるほど、独善だ。
オリンピアとかいう走破者の集団。それは彼が求心力を無くしたことにより瓦解したらしいが、少しの会話でも何となく察せられる。
「……なぜ止めるの? 演算力は仕様上、最終的に誰か一人が手にするようにできている。それがケイローンになるだけでしょう。私は先日、彼と戦ったけど、フェアなもんだったわ。むしろ私たちの方が卑怯千万だった。徒党を組んで、大規模攻撃でゴールを阻止するなんて戦略を」
「ケイローンはべつに善人じゃないし、走破者の争いはスポーツじゃない。君たちの中にだって内通者ぐらい潜ませてたんじゃないのか」
「……」
そう言われると何だか実も蓋もない。
まっとうな勝負だったと判定してくれる人もいないし、あれが謀略のうごめく暗闘だった、という見方も確かにできるだろう。
「ケイローンが何をしたいか分かってるの?」
「分からない。だがその事が危険だ。ダイダロスでも推測できない目的、それはつまりダイダロスでなければやれない事だ。何かしら地球が、人類が大きく変容するほどの出来事のはずだ」
紋切り型の会話である。ゼウスの目は薬が効いてきたのか、だんだんと光を増して大きく見開かれるかに思える。
彼がとめどなく話すので見失いがちになるが、彼はやはり疲労を抱えている。肌はかさかさに乾き、目には深い隈どりができて、筋肉は衰えて間接の丸みが浮き出てきている。ツナギの囚人服の上からでも、彼が肋骨が浮くほどの痩身なことは分かる。私は何となくカゲロウを連想する。
「彼とはある点で意見が折り合わず、やがて彼は僕のもとを離れたんだ。それは、彼が人間という種そのものに満足していなかったことだ」
「? というと?」
「彼はよく言っていた。あなたは……つまり僕だが、あなたはより多くを助けようとする。より善き人を助けようとしている。それでは駄目なのだと。人は根本的に善悪の判断などできない。誰かが導くのではなく、人がそもそも種として変わらねばならぬのだと、そう言っていた」
遺伝子が書き換えられた桃が連想される。
あの要領で、ケイローンは人間そのもののDNAを作り替える気だろうか。いくらなんでも無理がある気がするが。
それに何だか漠然とした話で、ゼウスが危惧を抱くのもしっくりこない。
ゼウスは察しているのだろう。ケイローンの放置しがたい危うさ。より明確に言うなら、邪悪さのようなものを。
だが、ゼウスの側に同意するには慎重になるべきだろう。
「それはあなただって同じじゃないの。演算力で、人を導こうとしてる」
「僕は弱き人々を助けているだけだ。世界で起こる無為な争いを止めている。麻薬の畑を焼き、兵器開発を頓挫させ続けている。僕は人そのものに干渉はしない。悪とは行為であり、物質的なものだ、それを排除している。ケイローンはそうじゃない、彼は危険なんだ。人間を書き換えるなら、看過できない」
「……」
手に負えない。
頭に浮かぶのはそんな言葉だ。何がよくて何がダメなのか。つまりは彼の定めたルールの上での話ではないか。
ようやく、彼が疲れ果てている理由が分かった。薬の助けがないと意識を鮮明にできないほど、彼は演算力を行使し続けているのだ。この牢獄から。
正義中毒者、そんな言葉も浮かぶ。喩えばかり浮かぶのは、彼との会話が、どこかまともに聞いてられない、という色を持つからか。
果たして、最後に彼が勝ち残ったなら世界はどうなるのか、想像するだにしんどそうな話だ。
彼が私に声をかけた理由は他でもない、他の知り合いは彼の呼び掛けを無視したからだろう。
「協力はしてもいいけど」
だが、それでもやはりオリンピアのリーダーだった人物だ。無視して帰れるものでもない。
「どんな作戦があるって言うの」
「たとえば、中国を核攻撃する」
何か飲んでいたなら吹き出したに違いない。
「はあ!?」
「いや、語弊があった。正確には中国人民解放軍が配備している核ミサイルを、中国本土上空に向けて誤射させる。
上空20キロから40キロほどで核爆発が起きた場合、希薄な大気中の分子にガンマ線が当たり、分子から電子が弾き出されるコンプトン効果が起きる。このとき生まれる電子は地球の磁力線に沿って広がり、水平方向に数百キロほどの影響範囲がある。つまり電磁波攻撃だ。
ダイダロスが健在であっても、衛星を含むネットワークは完全にダウンする。車も航空機も大半は使用不能になり、ケイローンが中国を脱出することもできない。期限切れが来て、彼は演算力を失う。君には作戦に気づかれぬよう、迷宮の中でケイローンの注意を引き付けて……」
「待ちなさい!」
だらだらと止めどなく喋る彼を、強い口調で制止する。
「その攻撃で何人死ぬか分かってるの!? いくら電磁波だけの攻撃でも、人工心肺に繋がれてる病人や、手術中の患者は確実に死ぬのよ! 交通事故だって……」
「可能な限りの救援は手配する。ダイダロスで検算を繰り返してるが、人的被害は最小で200人、金銭的被害がこれも最小で80億ドル。すでに病院などに電磁波被害の際のマニュアルを配っていて……」
ばん、と私はアクリル板に張り手を打つ。
「論外よ! 一般人を巻き込むのはやめなさい!」
「僕だって辛いんだ。だがケイローンを放置できない。様々な可能性を考えた上で、最適な……」
私は踵を返して去ろうとする。余計な仕事が増えそうだ。イカロに言って中国のミサイル基地のセキュリティを強化させないと……。
「いや、すまない、待ってくれ。今のは次善の策なんだ。君が重要な意味を持つ作戦もある、でなければ呼ぶわけがないだろう」
「……」
走破者はみんな、どこかいかれていると思っていたが、ゼウスはかなりタチが悪そうだ。
私は露骨に不機嫌な顔をして向き直る。
「どうして私を呼んだかだけ言いなさい。それ以外は聞きたくもない」
「ケイローン、彼がパートナーにしているプルートゥ、僕も何度か見かけたが、彼女は迷宮世界において完全なる不死を体得している。もう見たかい?」
「嫌というほどね」
「あれは少し異常だ……何かしらの技術なのか、トリックなのか分からないが、背景にはケイローンの持つ莫大な演算力があるのは間違いない。そして君たちはまだ駆け出しだ、上位の走破者と戦えるだけの演算力は持たない、そうじゃないのか」
「……」
「現在、どれだけ持ってるかは言わなくてもいい。だが、ケイローンと戦うには演算力はそれなりに必要だ、そうだろう」
「何が言いたいの」
そこでゼウスは、口を結んだまま首をわずかに傾ける。もしかして、そのわずかな動作が彼にとっては愛嬌を振り撒いたつもりなのだろうか。
最初から今までずっと張り詰めた無表情であり、目だけがぎらぎら光っているようなこの男。彼はおそらく、迷宮に感情の一部を落としてきたに違いないと思った。
「僕と戦うんだ。それで演算力を勝ち取れ」
※
「お預かりしていた荷物はこちらで全てですね」
「ええ、大丈夫、揃ってる」
基地を去る段までに、まだ色々な手続きだの検査だのがあったが、不思議なことにゼウスと何を話したのか、ゼウスがどんな様子だったかを聞いてくる人物はいなかった。
ヘリが施設を離れていたため、到着までしばらく待つこととなる。海風の吹きすさぶプラットフォームの上で、私は案内してくれた軍人に問いかける。
「ねえ、彼はいったい何者なんですか? なぜこの施設に?」
「彼は預言者ですよ」
預言者。
その言葉が不思議な印象を持って受け止められる。
プラットフォームには強い海風が吹き、言葉はすぐに凪ぎ散らされるかに思える。そんな音と風の渦の中で、軍人は今ならば誰にも聞かれない、という風情で口を開く。
「多くの信者を抱える宗教団体の教祖でした。自然清廉主義団体とか言いましたかな。あるとき、数百人の信者とともに集団自殺を図り、彼だけが生き残った。そして殺人罪の容疑に問われ、ここに収容されたのです」
「……あのホワイトボードは?」
「私物は希望すれば持ち込めます。彼は清貧な男でして、あのボードと、いくつかの薬の他には何も」
「でもネットワークへの接続を許すわけないでしょう? しかも彼は全感覚投入をやっているはず。それを見てて何も言わないの? こんな、存在自体が秘匿されてる施設で自由にネットを?」
「お嬢さん」
軍人は振り向く、その顔にはやはり、色濃い疲労の気配が見えた。
「私にも本当は分からないのです。なぜ彼だけが特別とされるのか。なぜ我々は彼をモニターしていながら、たまにある面会の時に音声を切らねばならないのか。全ては書類上のことで、それを誰が命じているのかもよく分からない。分かることは、彼はこの施設の法では動いていない。彼が従うのは自分で定めた法だけであり、彼は自分の意思で自らを幽閉し、自分の意思で自分に罰を与え続けている、ということ、そして」
走破者の周りでは、世界が歪む。
それは強い重力が生む時空の歪みにも似て、法規も、倫理も、時には物理法則すらねじ曲がるかに思える。
そしてそれに巻き込まれれば、多くの人は正常ではいられない。この疲れ果てた軍人のように。
「……彼は誰よりも自由であり、そして、誰よりも不自由なのですよ」
Tips 中国と馬獣医
2020年現在、中国では宝くじを除く賭博が認められておらず、公営ギャンブルとしては一国二制度を掲げる香港とマカオにのみ、競馬場とカジノがある。そのため本土での馬獣医の仕事は農耕馬、騎乗馬などに限られる。
2010年代より中国本土でも競馬解禁の機運が高まり、2018年ごろからは解禁を見越した競馬場の建設も行われている。
章題の読みは「たいぼんほうしゅのねっかい」です




