第一章 4
イカロはノートPCを開く。スリープ状態から覚醒したPCはいくつかの操作により、何かの模式図を表示する。タブレットPCじゃないのは何かのこだわりだろうか。
「このPCで、仮想的に34台相当の演算力を使えます。それで何ができるか、先ほど見せた通りです」
「……」
確かに。
あのファントムの一件、あれが作り事とは思えない。
「でもあれは君の力でしょ、君がカメラをハッキングしたり、警察に情報を流したり」
「ある程度はそうですが、PCは効果の高そうな手段を「連想」することも可能です。僕はそれに従っただけです。最初に、街の監視カメラを分析するよう提案したのはマシンなんです」
「ふうん……」
AIというやつか。最近は随分性能が上がったとかで、人間の代わりに記憶や計算はおろか、思考とか連想まで行ってくれるという。
「それで? なんで迷宮を解くことが、そんな大金を手に入れることに結びつくの?」
「天塩創一は、己の支配した400万台相当に及ぶ演算性能を、いくつかのパスワードによって封印しました。そのパスワードは彼の作り出した拡張世界の中に封印されたのです。拡張世界の中での、物理的なカタチとして」
そういうパスワードの隠し方があるのは知っている。AHキー、アルターハイディングキーという考え方だ。
今や、拡張世界は一般のPCでも構築可能だ。その創造した世界の中では自由に物を置けるし、鉛筆でメモを残すこともできる。隠したいファイルのアクセスキー、あるいは秘密の日記などを、拡張世界の中に物理的なカタチとして隠す、という手法があるのだ。たとえ鉛筆で数文字だけのメモでも、データとしては膨大な量であり、外部からの検索のしようもない。その拡張世界に行った人間にしか分からない理屈だ。
もちろん、拡張世界のどこに置いたか忘れてしまう、という例もあるらしいが。
「その天塩創一は、あなたのお父さんは……」
おおよそ、想像のつく質問ではあるが、それを無視して話は進められない。
「死にました」
特段、感情を込めるでもなくイカロは言う。
「自殺です、銃で自分の頭を撃ち抜いて」
「銃なんてどうやって……いや、それはいいわ。ごめんなさい、お父さんのことなのに不躾なこと聞いて」
「いえ……」
そう呟くイカロの声に揺らぎはない。彼と父親の関係性がどのようなものだったのか知らないけれど、今のイカロは父親の死をリアルなものと感じていないのか、あるいは感傷を覚えるほど関係が深くなかったのか。喪失感だとか、押し殺した悲哀などは感じられない。
そういう親子関係だって世の中にはある、私はそう理解する。
「話は分かったわ」
私は細かな事情はあとでおいおい聞く、という意思を言葉に秘めて、何かを断定するように言う。
「その迷宮を私に走破しろってことね。楽勝よ、あの家具屋の迷宮と似たようなものなんでしょ」
「いえ、あれは僕が近場の量販店をデジタライズして作った簡易的な迷宮です。天塩創一の迷宮は、あれとは比較になりません」
イカロがなぜ父親をフルネームで呼ぶのか、それも少し気になるが、今は迷宮のことを掘り下げよう。
「そう? 拡張世界のパスワードは設定した本人の備忘録なのよ。天塩創一が見られないパスワードは意味がない。つまり拡張世界で天塩創一が辿り着けるもののはず。彼がオリンピックのメダリストでもない限り、私に走破できないはずがないわ」
「…………」
イカロはPCを操作し、一つのファイルを呼び出す。
表示されるのは、一枚の絵。
左右が石組みで埋められた景色の中央、半円型の門があり、全身を鎧に包んだ兵士が左右から鉾斧を交差させている。そして画面に文字が浮かび上がる。
―――赤鏡伽藍の迷宮―――
「……なんか、演出がアナクロというか……大昔のアニメみたいなんだけど」
CGはとても平面的で、文字の出てくる感じもすごく人工的だ。言ってしまえばチープだ。これは天塩創一の趣味ということだろうか。
「このPCでは全感覚投入はできませんが、僕がドローンで撮影した映像ならお見せできます。見てみますか」
そんなこともできるのか、私は短くうなずく。
イカロはスポーツバッグからバイザー型のサングラスを取り出し、PCとジャックで接続する。全感覚投入はハイエンドPCの領域であり、一般にはこのようなバイザーグラスを使って拡張世界へ行く。全感覚投入ができるPCは、今だとだいたいサラリーマンの月収三ヶ月分ぐらいのお値段だろうか。それでもけっこう売れてるらしいが。
私はバイザーをかける。それなりに性能がいいモニターだ、上下左右のかなりの視野をカバーした映像が出てくる。
「スタート地点から高さ50メートルです。全周囲カメラで撮影していますので、左右上下に視界を動かせます」
私の視界に、迷宮が出現する。
それは絵に描いたような迷路の街。
方眼紙に描いた四角十字の、あるいはマヤ文字のような複雑に入り組んだ道が眼下に広がっている。高さ10m程度の壁がどこまでも広がり、やや遠くでは迷路が溶けてカルマン渦のような、あるいは樹皮のような入り組んだ景色となる。立体交差もなければ開けた空間もない、完全に通路だけを組み合わせたシンプルな迷宮だ。それが地平線の果てまで――。
「おかしいわ、何これ」
真上を振り仰ぐ、あかあかと燃える太陽、実物より少し赤が鮮明に見える太陽が燃えている。視線を下ろせばどこまでも迷宮が広がり、それは視界の果てで雲霧にかすんでいる。左右を見ればそこも迷宮の大地、しかしおかしなことに、一切果てなどないように見える。靄にかすむ彼方には、おぼろげながら迷宮の姿が、それも、真上から見たような眺めが。
「地平線が内向きに反ってる」
「そうです」
イカロの声がする。先程の怪人の声とは違う、あどけない少年の声。もちろん聴覚は投入していないから、これはイカロの生の声だ。
「その迷宮があるのは、ダイソン球殻天体。恒星を大地で包み込んでいるのです。赤道面の長さは地球の公転距離とほぼ同じ。この球殻天体を球体と捉えた場合、その半径はすなわち1天文単位。表面積は地球のおよそ10億倍、すなわち……」
イカロはその数字を、絶望的という言葉と同じニュアンスで述べる。
「この迷宮の広さは、5.1×10の17乗平方キロメートル……。およそ50京平方キロメートル、です……」
「冗談でしょ……」
この日、私は、はじめて冷や汗を流した。
ここは完全なる迷宮だけの世界。圧倒的な物量だけの迷宮に、この私が圧倒されていた――。
※
翌日
三ノ須学園から北東の山並みを仰ぎ見れば、角砂糖をいくつか並べたような真っ白な建物が見える。
それは大学部、医学部付属の施設であり、その片隅、角砂糖の並びでさらに少し離れた病棟に私はいた。
パイプ椅子に座って、読むでもない雑誌をぱらぱらとめくる。
――来たる自衛隊改革、入札企業に黒い噂
――大物俳優の息子にゲノム編集疑惑、アジアで広まる「金の卵ブローカー」とは
――あのネットアイドルに実在疑惑が浮上、証拠はネットの「人海戦術」?
――心霊スポットブーム再び。東京に残された「無電波地帯」の怪現象とは
30分ほど適当に眺めてから、ふと視線を上げて眼の前のベッドを見つめる。
そこに眠っている女性は、年齢は40ちょうど。しかし髪は綿のように白くなり、骨と皮ばかりにやせ細っている。彼女がかつては一世を風靡した陸上選手であったことなど想像できるだろうか。
足音がしたのでふと廊下を見ると、看護士の女性が廊下に置かれたホワイトボードに書き込みをしていた、私の視力がその文字を読む。
北不知さん、清拭08:00
看護士さんはそこに赤いペンで「1h後」と書き込む。
その赤い字はすぐに消え、08:00の表示が09:00に変化している。その変化に合わせ、以降のスケジュールも微調整が加えられて書き換わっていく。
あれも「ダイダロス」だ。
ユーザーの意図を読み取るというホワイトボード、あまり意識していなかったが、便利なものだと思う。
清拭とは寝たきりだったり、身体に不具合がある患者の体を拭いて清潔さを保つこと。つまり私が見舞いに来ているから作業が後回しになったわけだ。
私はベッドの脇にある白い紙を手に取る。それは無地のハガキのように白一色の紙で、適当な部分に親指を押し当てると、中央にぱっと幾何学模様が浮かび上がる。私はスマホのカメラをそれにかざす。
いくつかの認証処理ののち、ぴっと短い電子音。
「入金が完了しました、用紙を初期化する場合は、この用紙を折り曲げて下さい」
私は紙を折り曲げ、ベッド横の屑籠に入れる。それなりのお金を支払ったのだが、まったく実感がない。金融システムの発展とは、いかにお金を使う実感を失わせるかの歴史だろうか。
私はスマホを出したついでに、チャットアプリを立ち上げる。
――サチ、今日は授業休むから、あとで板書の写真送って
――りょ
了解の略である、シンプルな答えだ。サチは噂話は好きだが、あまり余計なことは聞かない。
「また来るよ、お母さん」
私は腰を上げて、病室を出る。
※
路面鉄道に乗って学園へ、さらに巡回バスに乗り換えて第Ⅶ棟へ。左右にはナイアガラの滝のように巨大な学舎がそびえている。
はるか上空から見たならば、初等部、中等部、高等部の建物は中心から三方に伸びるように存在し、中央には教員や事務のオフィスがある筒型の第Ⅰ棟がある。特殊教室の多い第Ⅶ棟は高等部と初等部の間を渡すように配されている。音楽室、理科室などの基本的な特殊教室は、学園全体に数えきれないほどある。
この学園、全体的には車のハンドルのような、あるいは高級車のエンブレムのような、円の中に三菱紋を描いた構造をしている。空白の部分にグラウンドがある。
幼年部と初等部はいわゆるエリートコースであり、一貫教育を目標としているため、それなりに狭き門らしい。私のいる高等部から外部編入がどっと増えて大所帯になる。
だが、その少数なはずの初等部ですら学舎は十二階建て、教室の数は174ある。ちょっとよく分からない規模だ。
閑話休題。
私は歩を進めて第Ⅶ棟、美術準備室へ。
フリーカリキュラム制に近いこの学園では、誰がいつ、どこにいようと不思議ではない。しかし一応前後の気配を探りつつ廊下を進む。
五神楼はもう来ていた。ぽつねんと「ダイダロス」の脇に立っている。
「お待ちしてました」
「授業はいいの?」
私の第一声に、イカロは落ち着き払ってうなずく。
「学力試験をパスしたり、論文を発表するなど実績が認められれば、授業の一部が免除されるんです。僕は四割免除されてます」
その制度は知っている、その上は飛び級だ。イカロが小学生の授業レベルにそぐわないことは見れば分かるが、世の中には断固として六年制にこだわる人もまだ多く、制度の拡大や縮小をめぐり、たびたび議論になっている。
だが、私もすべての授業を受けてきたわけではないし、そこに口を出す権利も、そのつもりもなかった。
「準備はよろしいですか」
「ところで、なんで「ダイダロス」を使うの? ハイエンドPCなら情報処理室とかにもあるけど」
イカロは首を振る。
「いえ、迷宮はオンライン上に存在しますが、そこにアクセスするためには認証が必要なんです。それが「ダイダロス」のロットナンバーです」
「ロットナンバー?」
「そうです、迷宮はアクセスのためのパスワードとして、ダイダロスそれ自体のプログラムを要求します。そしてダイダロスには個別のロットナンバーがあり、それは膨大なプログラムの中に無数に散りばめられているんです。また機械としての電圧や読み込み速度なども感知しているようで……、つまりダイダロス実機を用いる以外のアクセスは不可能です」
「…………」
何なのだろう、その意味不明な仕様は?
そんなことに何の意味がある?
私はホワイトボードを見る。
天塩創一が開発したというこのホワイトボードは何なのだろう。
ただの情報端末? ユーザーフレンドリーな電子黒板? あるいは、それ以上のものだとでも言うのだろうか。
ダイダロス、それは古い神話に登場し、広大無比の迷宮を築いた名工だ。なぜその名前を与えたのか。
だが考えていても仕方ない、私はおもむろに赤いコードを引き出し、先端のガーゼを口にくわえた。
※
Tips PF
フィジカルフィードバック、使用者の身体感覚を拡張世界に反映させることを主目的とした国際規格。拡張世界における身体感覚をユーザーの主観で補うとされる方式。身体能力が現実のそれに準拠するという制約があるが、演算にかかる負担は大幅に軽減される。