第四章 4
イカロが用意していたのは合宿所の近く、今は使われてないグラウンドに設置された大型トレーラーである。内部には一通りの生活空間が確保され、ダイダロスも設置されていた。
「イカロ、バックアップ頼むわよ」
『はい』
わずかに斜面が意識される山裾に立って、私は現実世界のイカロに呼びかける。
そこは夜に囲まれた山野の眺め。下方を見れば盆地には水が溜まっており、周囲のぐるりを山が囲んでいる。中禅寺湖のような山中の湖畔だが、完全に山に囲まれているためにどこにも流れ出していく様子のない、ダム湖のような不思議な湖だ。
中天には月、見事な満月が柔らかい光を投げ下ろしている。
目を凝らせば湖の端には桃色の明かり。桟橋のような木組みが築かれ、ひな壇を飾るような桃色の灯火が二つそびえていた。
おそらくはスタート地点。
この迷宮の名前……「夜遊無垠の邦」というのが何を意味するのか、この迷宮にどんな仕掛けがあるのかは分からないが、今は迷宮に関わる気はない。
「リタイアするわ」
「私もリタイアしますわ」
私たちはつぶやく。体にぴしりと静電気が走るような感覚がある。これが迷宮におけるリタイアだ。
プルートゥたちとの邂逅の後、私たちはリタイアの方法について検討した。方法は簡単で、ただ宣言すればいいだけだ。どんな小さな声であろうとリタイアが成立し、演算力のやり取りと無縁になる。
このリタイアは迷宮に入ってから五分以内に唱えるか、迷宮に一人でいるとき、誰かが入ってきてから五分以内に唱えれば成立する。この迷宮が対人戦だとすれば、相手を見定めてからリタイアすることも可能なわけだ。
なにごとも検討から始まる。
私たちには検討と練習が必要だった。私と亜里亜は出現地点から大型ドローンで移動し、ほどなく山頂に至る。
ぱさ、と草の上にナイフが落ち、同時に工事現場にあるようなバルーン型照明なども出現する。
私はそのナイフを構え、手のひらを少し切りつける。
覚悟しているとは言えけっこうな痛みだ、後頭部がかっと熱くなるような気がして肘から先が震える。
次の瞬間、その傷口に肌色の泡のようなものが生まれ、痛みが抑えられる。泡はぶくぶくと盛り上がるように見えて、段々と小さい泡に変わってやがて手のひらの皺に埋もれる。
「……つ、やっぱり痛いわね。慣れるのに時間かかりそう」
確認すべきはPF、フィジカルフィードバックでの死の概念だ。
なぜ死ぬほどのダメージを受けるとログアウトするのか、直感的には納得できるが、理屈としてなぜなのかと言われると難しい。
「そもそも拡張世界での体ってアバターなのよね。外見をポリゴンで作ってるだけで、ダメージなんて意味がないと思ってたけど……」
PFとはアバターに身体感覚を反映させることで処理を低減するシステムだ。その世界ではアバターの外見や性能はプレイヤーの自己認識に依存する。それはダメージや死ですらそうなのだろう。
なんだかディックの人間原理のような考え方だが、つまりは単純な話。
死なないと、強く思い込めば死なない。
そういうこともあるかも知れない。
死とは医学的な基準を満たすことだけではない、世の中には首を切られた後に頭部が言葉を発したり、胴体が動いたという話も残っている。本人が死を受け入れなければ意識は世界に残り続ける。そうも言えるのだ。
アポロが見せた再生。あれはつまり死を拒みつつ、細胞レベルでの修復、欠損部への新規細胞の充填を行った、そういうことだろう。
「イカロ、どうかしら。拡張世界では何でも出せる。今みたいに細胞を再現することも可能なのよね?」
私はイカロに問いかける。イカロは少し迷っていたようだが、おずおずと言葉を返した。
『とりあえず傷口の修復はできましたが……凄まじい数の工程を踏む荒業です。細胞一つとっても細胞膜、リボゾーム、ゴルジ構造体、そして無数に伸びる毛細血管の複雑さは筆舌しがたいほどで、これを同時並列的に何千万個も……』
「核はどうなの? DNAまで再現してるの?」
『一応は……。こちらでミズナさんの細胞を分析し、HMC(主要組織適合遺伝子複合体)を含ませて拒絶反応を防いでいます。しかし精度は甘く、その状態で数日経てば拒絶反応が起こるでしょう。間に合わせの接着剤に近いものです』
確かに、手の平に残った傷にはかなり違和感がある。痛みも残っている。不死身になったわけではなさそうだ。
しかしこれは紛れもない魔法。現実にはありえない治療法だ。精度もやがて高まっていくだろう。
「仮に、袈裟懸けに刀傷を受けて、それを再生するとしたらどのぐらいの演算力が必要なの?」
拡張世界では何でも出せる。道具も、薬品も、銃器も、エンジン付きの乗り物も。
では生命が出せないという道理がどこにあるだろう。生命とは細胞の集合体、細胞とはつまりタンパク質で構成された機械に過ぎないのだから。
『み、ミズナさん、それはチューリング完全の世界における大いなる暴挙です。生命を模倣するなどと……』
「できるのね?」
『……お、おそらくは。ですが、今現在の手持ちの演算力を使っても、再現できる細胞はごく僅かなものです。人間の体細胞はおよそ60兆個、致命傷の刀傷を埋めるとなると数千億個の細胞を再現せねばなりません。演算力もそうですが、医学や生理学の知識も必要ですし、僕自身の操作練度もまるで達していません。ダイダロスは世界中のネットワークから利用できそうな知識を集めていますが、そんな治療法に関する論文はどこにも……』
「研究は続けて、こちらも身体感覚を磨くから」
必要なものは、心と肉。
もし致命傷を受けた時に肉と内臓を瞬時に生み出せば、そしてプレイヤーが死を認識することを拒めばログアウトを免れ、肉体を再生して走り続けることができる。つまりそういう理屈だ。もちろん死なないように立ち回ることが何より重要だが、それだけでは迷宮は走破しきれないだろう。
『これも試算ですが、治療できる程度は受けるダメージの種類によります』
イカロが言う。
『ありていに言うと刃物での切断、銃撃による銃創などなら多少は治しやすいかも知れません。とりあえずの止血と増血なども可能です、しかし……』
「しかし?」
『大きなダメージ……例えば肉体が四散するですとか、頭を吹き飛ばされる、または絞め技などで脳の血流を止められた場合は補填は困難です。ログアウトを回避する方法が思いつきません」
「つまりエグい攻撃を受けずに、脳を守るのが大事ってことね……分かったわ』
……ん。
ではあの女。プルートゥ。
日本刀による攻撃は少し効率が悪いような気もする。なぜそれを武器として選択したのだろうか。彼女の言っていたように美学というやつか。
私はその後、いくらか死に抗うための訓練を行ったが、それはあまり精神衛生に良いものではないので詳述は控える。痛みに耐える訓練など数日で身につくはずもないし、苦労の割には成長の実感は得られなかった。
同時に亜里亜も練習を続けていた。
彼女は夜の湖を見下ろす山頂で大型列車砲を出現させている。さまざまな方面から図面を集め、イカロと協力して設計を行い、拡張世界でそれを再現しているのだ。
様子を見に行ったとき、山裾はクレーン車の墓場のような眺めになっていた。廃材が積もっているのだ。
「うーん、やはり薬室の圧力が難しいですわ。試行錯誤の連続ですわ」
彼女の目指しているのは自走列車砲だ。大口径の砲門を持ち、どこにでも駆けてゆき、圧倒的な火力ですべてを打ち砕く。そんなものを目指していた。
「私は手伝えないけど、頑張ってね」
「あら、ミズナさんにも特訓のメニューを用意してますわよ」
と、亜里亜が髪をかきあげる。
「え、私?」
「こちらへいらして」
大人の姿の亜里亜に手を引かれ、山肌に沿って歩く。山頂には木が少なく、坂が緩やかな部分を選べば歩きやすい。
少し離れた場所にL字型のシステムキッチンが組まれていた。三つ口の高火力コンロだけがあるシンプルなものだ。
「な、なにこれ」
「ミズナさんは純粋なランナーですけれど、やはり道具を出せたほうが有利ですわ。拡張世界で自由自在に物を出せてこそ一流ですわ」
「物を出す……私その感覚自体よくわかんないんだけど」
「ミズナさんには、ここでカレーを作っていただきますわ」
「カレー!?」
私は頓狂な声を上げる。そりゃまあ女子だしカレーぐらいは作ったことはあるけど一回ぐらいは。でもなんで拡張世界で。
亜里亜はいつのまにかエプロンを出現させて身につけている。テーブルの上にもう一枚あるが、まさか私も?
「いいですこと、拡張世界で物を出すにはイメージ力が必要なのですわ。道具のスペックと大きさを正確にイメージし、大脳皮質からダイダロスに訴えかけることで出現させるのですわ。ではまず包丁を出していただきますわ」
キッチンの上に玉葱とジャガイモがごろんと転がる。道具はなにもない。
「食材は非常に難しいのでイカロ様に出してもらいましたわ。さあ、まずは頭にCADをイメージするのですわ」
「そんな器用なことできない……」
「そして包丁を思い描くのですわ、上空に意識を伸ばしてダイダロスの存在をとらえ、出すものの輪郭を保ったまま指で出現場所を示すのですわ、それで出るはずですわ」
そう言われても……。ええと、大きさはこのぐらい、刃がついてて、握りも。よし、こんな感じか。
ごどぉん。と鉄の塊が落ちてきた。かろうじて包丁の形をしていなくもないが、握り柄も含めてすべて鉄でできていて、これでは棍棒だ。
「誰か撲殺しますの?」
「初めてだから……」
次に鍋を出そうとしてみる。ラーメン屋にあるような大きめの寸胴鍋、中は水が満たされてて……。
ずどぉん。
ドラム缶のような鉄塊がキッチンを押しつぶす。
「……つ、次はオタマを」
先端に鋼鉄球のついたハンマーが出てきた。背負えるほどに大きい。
「やはり撲殺願望が」
「ないから!」
想像以上に難しい。というか亜里亜は毎回こんな方法で大型バイクを出現させてるのか。気の遠くなるような工程と精度が要求される術だ。
ミノタウロス社の皆さんに謝りたい。部品点数の少ないAK-47でも十分な神業だったと。
そして数十分。
周囲を鉄くず置き場か、前衛芸術家のアトリエのような眺めにして、私は肩で息をつく。
「こ、これ私には根本的に向いてないかも……」
「ぶきっちょですわねえ。フライパンとか包丁ぐらいなら私は一発で出せましたのに」
どうにかうまく出せたのは鉄パイプぐらいだ。しかも肉厚すぎてめちゃくちゃ重い。武器にできるような代物ではない。
「と、というか必要なものはイカロが出してくれるんでしょ、別にいいじゃない」
「そうですわね。まあこの練習は続けますけど、道具についてはイカロ様との連携を強化する方向で行きましょう」
『ミズナさん、ちょっといいですか』
と、そのイカロから声が降り注ぐ。
「どうしたの」
『望遠観測で下方……湖のあたりに何かが見えます。誰かが迷宮に下りたものかと』
「そう、こちらに気づいた素振りはある?」
『照明を設置してますから見えるはずです』
「……」
どうする、他の走破者たちはぜひ見ておきたいが、まだまだ初心者である身であまり存在を知られたくない。
しかし相手がすでにこちらを見つけている可能性は高い。こそこそしているのも印象が悪いだろう。
「降りてみましょう」
私は亜里亜とイカロの両方に言う。
「迷宮では観戦はアリなんでしょ。向こうが逃げないなら、見せてもらうのもいいでしょう」
Tips チューリング完全
あるプログラミング言語がどのようなプログラムをも再現できるほどの万能性を持つこと。
ここではVR世界において、想像できる限りの物理現象がすべて再現しうることを指す。
一つの例として三次元世界でプレイするサンドボックスゲームにおいて、ゲーム内での操作によってそのサンドボックスゲーム自体を再現可能か、という命題がある。チューリング完全ならば自己のゲーム自体も再現できる。この議論においてはメモリの物理的限界などは無視されることが多い。




