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迷宮世界のダイダロス  作者: MUMU
第三章 刻淀む夕景の町
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第三章 1



ある時、父は日本陸連から除名された。

理由は公にはされず、父は一言も抗弁しなかったらしい。


どこかの名誉欲にまみれた企業が、受精卵のときに遺伝子をいじった。

言ってみれば、それだけのこと。


それを企んだ企業はもはや地上になく、首謀者と言えるような人々も老いさらばえてしまった。

残ったのはただ、配列をいじられた遺伝子だけ。


その人物が、栄光に満ちた人生を送れると本気で思ったのか。

もし悪い方に働いた時、どのように思うか想像もしなかったのか。


父は失踪した。

私と、すでに遺伝病の徴候が出ていた母を放り出して、どこかへ消えたのだ。


それは絶望の末に人生を投げ出したのか、あるいは他に理由でもあったのか。


そして私は、なぜ父の遺志を継ごうとしているのか。

なぜ金メダルが欲しいと思っているのか。


それは言語化してしまえば、溶けて消えそうな不定形の感情。

しかし熱のように光のように、私を常に追い立てる。


仮に手に入れたならば。

それまでの人生すべてが肯定されるのだろうか。


あるいは父の代から続く、くろぐろとした執念すらも、

肯定されるのだろうか――。









三ノ須で最大の購買部はちょっとしたデパートほどの規模があり、売り場面積は1万平方メートル。スイーツのお店や高級ブランドの服飾店まで何気なく存在している。


私とイカロ、亜里亜の三人は買い物に来ていた。主に私が拡張世界でのユニフォームを選ぶ付き合いだ。

それというのも最初にイカロが設定した黒のジョガーパンツにジャストサイズの長袖シャツという格好に、激しいダメ出しが飛んだからだ。


「お洒落じゃありませんわ! そんなダサいの論外ですわ!」

「動きやすければいいじゃない。まあ多少ダボッとしてるけど、ジョガーのほうが通気性がいいし」

「絶対にライン入りのロングタイツですわ! 上もちゃんとインナー付けて、上に羽織るものも探すべきですわ!!」


そんなわけで、日曜日に購買を見てみることになった。

イカロを店の前で待たせつつ、ああだこうだと言い合って決まったのはダークバイオレットのロングタイツ、モモから銀のラインが二本降りて、膝頭を取り巻くように交差して踵へと降りている。


上はインナーブラの上からダークアッシュのシャツ、上には真綿色の薄いジャケットを羽織るスタイルになった。走る際にはジャケットの裾が脇の下辺りまでまくり上がって翼のように見えるだろう。


「なんかストリートファッションみたいになってない?」

「それでいいのですわ。いかにも運動しますって感じは抑えめにするのが小粋ですわ」

「そうかなあ」


髪はと言うと肩に軽く触れる程度の長さがあったが、拡張世界ではひっつめにして後頭部でまとめるスタイルにした。デコが丸出しなのを亜里亜が嫌がるかと思ったが、「こんな綺麗なオデコ初めて見ましたわ!」と驚嘆してオーケーになった。そう言われるとなんか恥ずかしくなるけど、まあいいか。

私の髪は日に焼けてブラウンが混ざっており、先端も少し波打っている。デコを丸出しにするとなんとなくスポーティな、ラテン系の印象が増したかなと思った。


亜里亜の髪型はというと肩までの美しい黒髪を自然に流している。同じ女性として見ても格別なほど滑らかなロングヘアだが、拡張世界ではさらに伸びて腰までの長さになる。拡張世界では編み上げてヘルメットの中に仕舞うか、ゴスロリの中に収めているらしい。亜里亜のゴスロリはいつも黒だが、よく見ると毎回微妙にデザインが違う、似たようなものを無数に持っているらしい。


「で、このウェアをイカロにスキャンしてもらえばいいのね」

「スキャンというか何枚か写真を取るだけで十分ですわ、ダイダロスで補正してアバターに反映できるはず、買う必要すらないのですけど」

「いいわよ、しばらく付き合う服だし、買うわ」


私たち三人はチーム結成後、いくつかの迷宮を走破した。


深度16000メートル、高温の世界で地中に埋まった電車の中を走破する「暗処銀垂あんしょぎんすいの迷宮」


ヴェネツィアに似た都市空間にて、平均流速50ノットの川が入り乱れる中をパワーボートで走破する「万蒼呑竜ばんそうどんりゅう八関はっかん


特にパワーボートのラスト付近では命がいくつあっても足りなかった。想像できるだろうか。スカイツリーと同じ高さの急流をボートで登坂し、頂点から先端が二千に分岐したあみだくじを降りていくさまを。


「これで、確保できた演算力は三千台ぶんを超えました」


購買デパートの屋上、学園を一望できるテラス席で、私たちはイカロから説明を受ける。


「同時にこの三ノ須学園の買収も完了しました。すぐさま業者を入れ、学内の認証システムとセキュリティに大幅に手を入れていきます」


その買収は以前から進めていたのだという。イカロとしてもあのタワーマンションにずっといるつもりはなかったらしいが、学内に拠点を作るというのが、まさか学園を要塞化することだとは思わなかった。

もはやイカロが動かしている額は半端ではない。ダイダロスのことがなくても、いつ自分のことが誰かに知られ、身柄を狙われないとも限らないのだ。セキュリティの構築は迷宮の攻略と同じぐらい重要だった。

私はレモン入りのミネラルウォーターを飲んで足を組む。


「でも三ノ須を要塞化するって、基本的に生徒は出入り自由だし、見学者だって多いはずだけど」

「すべてのゲートにて複数台のカメラによる顔認証を行っています。生徒か、その関係者、あるいは学内職員や出入り業者ではないと判断された場合、すぐにSPが追跡を行う手はずです。武器や薬品の持ち込みにも遠隔スキャンと化学物質感知のシステムを入れます。これは国際空港などで採用されている第一級の……」

「ああ、うん、そのへんは高い水準ってことは分かるんだけど」

「ふんっ、イカロさまに抜かりなどありませんわ!」


甘いホットミルクを飲みつつ、亜里亜は静かに憤慨する。


「実際には三ノ須学園の外側、市街地や公道にある数千台のカメラからも情報を得ています。シミュレーションを繰り返しましたが、暴漢やテロリストが僕やミズナさん、亜里亜に接触できるルートは皆無です」


この世に絶対という言葉はないが、あまり考えすぎても仕方ない。イカロの構築している防衛システムはたしかにかなりの規模だし、その全容を知らない相手がすり抜けてくるのは容易ではないだろう。


「その事はいいわ、それで……進展があったとか」

「はい、ミズナさんのご希望について検討を行いました」


イカロはノートPCを私たちの方に向ける。


「ミズナさんは金メダルが欲しいとのことでしたが……もう一度確認しますがオリンピックのゴールドメダル、それもできるならば、女子百メートル走のゴールドメダル、という認識でよろしいですね」

「そうね……」


女子百メートル走。その世界記録はかの有名なフローレンス・ジョイナーが記録した10秒49。現実的にこの数字を超えられれば金メダルは確実と言えるだろう。


私の百メートルのベストタイムは10秒78だ。これは現在の日本記録よりも早く、そして体感としてはまだまだ伸びしろがあると感じている。これからのトレーニング次第で世界記録すら狙えるだろう。

だが、だから金メダルが取れる、という単純な話ならばダイダロスに頼るまでもない。これまでの短い人生の中でも、私なりに考え、調べ、そして思い知らされたことがある。イカロはそれを静かに紐解いていく。


「ダイダロスに無数の書籍、および論文を学習させ、「専門家の見解」を再現しました。要点をまとめたものを動画にしましたので、こちらをご覧ください」


ノートPCの画面にアニメ調の白人男性が出現し、合成音声が流れる。合成と言ってもよく聞かないと肉声と判別がつかないが。


『それは不可能である』


『現在、WADA、国際アンチ・ドーピング機構はゲノム編集された人物のオリンピック出場を認めていない。北不知きたしらずミズナは遺伝子処理を受けていないと主張しているが、両親は明確に処理を受けており、北不知ミズナの遺伝子にも自然界ではありえない配列が見られる。両親からの遺伝によるものか、受精卵の段階で処理を受けたものかに関わらず、WADAの指針に反する』


また別の人物が浮かぶ、アイコン化された黒人女性のようだ。


『条件付きではあるが可能である』


『北不知ミズナの遺伝子配列は本人の落ち度ではなく、ひるがえって見れば両親も同じであり、受精卵の段階で処理を受けたことは本人の責任ではない。倫理的な情状酌量の余地は十分であり、世論の同意が得られれば参加が認められる可能性は大いにある』


そのアイコンに覆いかぶさるように、アジア系女性のアイコンが浮かぶ。


『先の提言に関して反論、不可能である』


『国際アンチ・ドーピング機関においてはドーピングの接種は選手本人が責任を負うという厳しいルールを課している。たとえ選手本人に自覚がない場合でもことごとく成績抹消、団体除名などの厳しい処分が科されている』


「そんな、ミズナさんの責任ではないのにダメなんですの? 理不尽ですわ」

「オリンピックってそういうものなのよ……」


アジア系女性のアイコンは発言を続けている。


『さらにいえばJOC、日本オリンピック委員会がそのように国際世論にセンシティブな選手の参加を認めるとは思えない。女子百メートル走は国際的な注目度が高く、国内予選の段階から世論が喚起されることが予想されるが、北不知ミズナの出場を実質的にIOC、国際オリンピック委員会を主導しているアメリカが、または他の有力選手を抱える国などが認めるとも思えない』

「……」


そこまではおおむね予想通り、だがダイダロスの能力は流石と言うべきか、また違った角度からの報告もあった。黒いスーツを着た大柄なアイコンが出現する。


『可能である』


『北不知ミズナは中学生大会でいくつか記録を残しているものの、全日本規模で有名な選手とは言い難く、雑誌などの取材もあまり受けていない。よって出生記録について詳細な調査を受けたことはない。北不知きたしらずという珍しい名字であるために、その名前のままでは両親との関係を想像する人間がいるはずであるが、架空の戸籍を用意し、名前を変えて別人となることは可能であり――』

「イカロ、それは却下よ」

「は、はい」


イカロに強い口調をぶつけたくはなかったが、どうしても張り詰めた感じが出てしまったらしい、イカロはあわててアイコンを切り替える。今度は白衣を着た白人女性のようだ。


『条件付きではあるが可能である』


『性同一性障害や、身体障害を抱えた選手のオリンピック出場については常に議論が行われている。ゲノム編集についても同様であり、遺伝病の治療や、美容や身体強化のためなど一般人でも行う例は増加しており、潜在的な被施術者は数万人とも言われている。これらの被施術者を一律に排除することはやがて現実的とは言えなくなる。議論のスピードを早めれば、いずれWADAの指針が転換されることもありえるだろう。ただしスプリント競技における選手のピークは20代前半と言われている。10年以内に議論を沸騰させる必要があり、容易ではない』


一連の動画はそこで終わる。


「以上です……これ以外の低い可能性として、IOCやWADA役員の買収、ドーピング検査時の検体すり替えなどがありますが、なかなかに難しく……」

「ありがとう、だいたいわかったわ。どの方針で行くか検討しておくから、それぞれの可能性について調査は続けておいて」

「はい」


要するに、ことは簡単ではない、というわけだ。


「話しておくことはまだあるでしょ。あの男。イカロのマンションの鍵を開けてた男については何かわかったの」

「はい」


イカロはまたノートPCを操作する。ダイダロスに紐付けされた演算力を呼び出しているらしい、ということが雰囲気で分かった。


「ミズナさんはご存知でしょうか。近年、新興勢力として規模を拡大している民間軍事会社、Taurus Corporation、またの名を」

「……」

「ミノタウロス社、のことを……」














Tips 世界アンチ・ドーピング機関


英語名はWorld Anti-Doping Agency

国際的な組織であり、世界における禁止薬物の制定と、分析手法などの統一、また反ドーピング精神の啓蒙や教育などの活動を行っている。

禁止物質、またはゲノム編集などを含む禁止手法については一年に一回以上改定される禁止リストに列挙され、10月1日に公表、三ヶ月後の翌年1月1日から適用される。



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― 新着の感想 ―
[良い点]  待ってました。今回も非常に面白かったです。  ミズナの動機が複雑でそれでいてあやふや。悩め若者。応援しています。  5000億円ともなれば他にも気付いた人間や組織がいてもおかしくないし、…
2020/04/08 17:30 退会済み
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