第二章 6
数日後。
「航空券と、向こうでのスタッフの手配、その他の準備もすべて整っています。入院の手続きも完了してますので、お母様には午後の便で移動していただこうかと思います」
母はアメリカに行くことになった。遺伝病の研究の権威であり、母の症例に近い研究を行っている大学があるのだという。
「なんだっけ、論文の分析とか」
カフェで甘いミルクティーを飲みつつ聞く。
ここは学内カフェの奥まった席である。人影はないが、私は念のためにときどき周囲を見回す。今後は学内での安全にも気を使わないといけない。
イカロはそのあたりも手掛けると言っていた。すでにあのマンションは引き払い、学内に新たに拠点を作っているという。この三ノ須の中に作るのならば守りやすいだろう。
「はい、オフラインのものも含めてアクセスできるすべての論文の構文分析を行いました。免疫学の分野はランキング化されていますが、上位はほとんどアメリカの大学です。その中でもジョンズ・ホプキンス大学のトレイル教授の研究がきわめて近いとの結果が出ました。内々に当たりをつけたところ、快諾を頂けました」
この場に亜里亜はいない。彼女はひとまず身を隠すということで都内の高級ホテルに入っている。もともと住んでいたのは利根家の分家らしいが、そこには一度も戻らないままに家を出ると告げたらしい。
「そういうのってすぐに受けてもらえるものなの? 治るかどうかも分からないのに」
「いえ、AFTD……アスリート系図病は研究によって解明と治療が可能だと推測されています。しかし世界で20例も確認されていない症例のため、研究されていないのが現状だったのです」
日本においては、患者数が1万人に5人未満の症例を希少疾患。5万人に1人未満の症例を超希少疾患と定義している。実際には100万人に一人にも満たない超希少疾患というものが世界にはいくつもあるらしい。
そして、そのような病気は研究されない。
遺伝子疾患ならばDNAの構造解析によって疾病の原因を見出し、カギ穴にぴったりと合うような形状の薬を製造する、それで治ると目されている病気もある。しかしそのためにはスパコンを何十時間も稼働させねばならず、優秀な研究者が何百時間も研究にあたらねばならない。それだけのリソースを払うには、救える命が少なすぎるというわけだ。
それは別に悪ではない。トロッコ問題の例えを出すまでもなく、その研究者もスパコンも常に誰かの命を救うために働き続けているのだ。人間社会のリソースが足りていないというだけのことだ。
「架空の篤志家の名前を用い、遺伝子解析に演算力を提供することを条件に教授に依頼しました。おおまかな予想ですが1年以内に治療法が確立するそうです。お母様は回復とリハビリのためにしばらく入院が必要になりますが……」
「それはいいんだけど、それって、つまり……」
その教授の、本来の研究テーマを変えるということ。
おそらくは遺伝病理学、免疫学の権威だったであろうその教授が本来研究していたこと、その研究の成果によって救えるはずだった命はどうなるのか。どこへ行くのか。
「……ミズナさん、演算力とは有限なんです。それは貨幣のように振り分けられた価値です」
イカロは、私に遠慮するように声を潜めて、しかし確固たる価値観の裏付けを持つかのように言う。
「ある個人が何かを多めに専有するということは、多少なりと命の公平性を損ねているということです。経済的な先進国の平均寿命は、発展途上国よりもずっと長い。経済の偏りは命の偏りということです。それは演算力ですら例外ではありません」
そう、世界は平等ではない。
私が母の治療を願うことは、それは命の選択に他ならない。残酷な真実であり私のエゴなのだ。
だからそれ以上、イカロにそのことを言及させることはするまい。
「わかったわ。ありがとう、イカロ」
「いえ、ミズナさんは当然の報酬を受け取っただけです」
そこで話を切り替える。
「例の襲撃者たちはどうなったの」
「はい、そちらも演算力によって解決済みです。ファントムを捕らえたときと同様に、余罪を調べ上げて通報しました」
もちろんあの男たちのやっていたことは重大な犯罪。誘拐未遂、あるいは殺人未遂の疑いが濃厚だ。それなりのペナルティを与える必要はある。どうせ闇サイトでこんなヤバい仕事を受ける連中だ、余罪はあるだろうと踏んでいた。
それらはダイダロスによってあっという間に暴かれ、彼らはいずれも裁判所行きとなったらしい。実刑にならない可能性のある者もいたが、いずれにしても職も生活も失うことになる。犯罪に手を染めるなら、それぐらいのリスクは負うべきだろう。イカロもあのマンションを引き払い、新しい住処を用意するという。もう二度と関わることもあるまい。
だが、あのスーツの男については依然として不明だった。そもそも、闇サイトの仕事なのに管理会社の人間を抱き込むというのが不自然だ。
イカロの説明は続いている。
「闇サイトでのログを追いましたが、大本の依頼主は亜里亜さんの叔父、利根千次氏に間違いありません。自宅のPCで自ら書き込みを行っています」
「ふうん」
「しかし千次氏がどのように襲撃のお膳立てをしたのかが分かりません。おそらくネットを介さずに打ち合わせたと思われます」
「亜里亜のことが邪魔なのはその人だけなの?」
私の問いに、イカロはダイダロスに接続されたノートPCを叩く。さまざまなウインドウが開いているが、その中で家系図らしきものが前に出てきた。亜里亜は利根家の総帥であった人物と、その愛人との子供、系図上ではトップからすぐ下に来ている。しかしそのラインにはバツが乗っかっている。
「そもそも亜里亜さんが利根家とほぼ無関係になっていることは親族全体が承知しています。その上で襲撃が行われた、この事自体が少し不自然です」
亜里亜がどこで誰に殺されようと、それを利根家の争いと完全に切り離して考えるほど警察はぬるくないだろう。容疑者だってさほど多くはない、最大の利益者を疑えというセオリーに、利根千次なる人物は見事に当てはまっている。
拡張世界の姿がどうあれ、小学生の亜里亜に害をなすのはあまりにも常軌を逸している。TONEグループの総帥がどのぐらい莫大な財産を左右するのか知らないが、しょせんは一族経営、そこまで何もかも自由にできるはずもない。
つまりあの襲撃は、どこか無理矢理に行われた、という印象があるのだ。誰かが利根千次なる人物を焚き付け、襲撃のお膳立てを行ったという印象が。
「スーツの男の正体……どうしても追えないの?」
「あたれる限りの人相データベースを洗っていますが、該当がありません。あの年齢の社会人で何のデータベースにも載ってないのは考えにくいのですが……。街角の監視カメラ映像まで手を広げていますが、都内のすべてとなると流石に手持ちの演算力では……」
「……あの襲撃の時だけ、特殊メイクで顔を変えてたとか」
「……な、なぜそんなことを?」
イカロは当惑する。
私だって半分は思い付きで言っているが、もしそれが当たりだったらどうなるのか、何を意味するのか?
そして狙っていたのが亜里亜だったとしても、襲撃したのはイカロの家だった。私にはもはや、それが偶然とは思えない。
キナ臭い。
私一人のことならいいが、こんな脅威に身を晒して、私はともかくイカロと亜里亜は……。
「……イカロ、天塩創一の迷宮から手を引くつもりはないの?」
「……」
「亜里亜と一緒になるのもいいんじゃないの。ちょっとグイグイ来すぎだけどいい子よ。一生遊んで暮らせるぐらいのお金はあるんでしょ」
「……いえ」
イカロは一言だけ拒絶して、そして一分ほども沈黙が降りる。
おそらくイカロ自身に、私を説得できるほどの言葉の用意がないのだ。イカロが迷宮に挑む理由、それはまだ誰にも言えず、イカロの胸の裡にだけある。それは少年らしい頑なな感情となって、胸の中にしこりとなっているように思えた。その理由を明かしてくれる日は来るのだろうか。
「……手を引く、ということは、ミズナさん、は……」
イカロが私の真の目的と考えていたのは、母の治療。そのために予め母のことを調べ、治療法についても当たりをつけていた。もちろん5200億という仮想通貨にまったく興味がない、というほど世間離れしていないが、一個人が抱えるには大きすぎる額、そんな認識もある。
「私も引けないのよ」
だが、私にも、まだ欲しいものがある。
そして私は思い出す。先日。亜里亜のホテルを訪ねたときのことを――。
Tips 超希少疾患
5万人に1人以下の症例を超希少疾患という。これらの疾患は症例の少なさや、それに伴う臨床試験の困難さ、研究投資の回収が困難などの理由によって、大学や製薬会社などの研究対象となることは少なかった。
しかしゲノム解析の進歩によって、その多くが遺伝病であることが分かってきており、遺伝子治療や万能細胞など、先進分野の活用によって治療の可能性が示唆されている。
これらの超希少疾患について創薬を行うベンチャー企業や、支援を行う団体なども存在する。しかし21世紀初頭におけるそれらの支援的取り組みは、超希少疾患の中でも比較的患者数の多いもののみに留まっている。




