第一章 1
かつて人類にとって、共有された価値の基準は食料であった。
穀物、魚、肉、それぞれが収穫したものを別の食べ物、あるいは道具や衣服と交換する。
やがてそれでは不便なため、貨幣経済が発明される。
黄金の価値、紙幣の価値、そして電子的なデータマネーの価値を誰もが認め、物資と兌換する幸福な時代は長く続いた。
そして貨幣の先にある価値、それはすなわち演算力である。
演算力こそは世界のリソースであり、共有されるべき普遍的価値である。それが認知され始めたのは、おそらく1943年。コンピュータの登場以来のことであろう。
演算力、この漠として掴みどころのないリソースは、今や社会の隅々にまで、あるいは自然の中にすら存在している。人は演算力というまばゆき価値に我を忘れ、寝食も忘れ、生命としての営みすら忘れ、麦の実るがごとくノードを生み出す。
それは何のためだろうか? 使い切れないほどの演算力を何に使うのか。社会制度の効率化、新薬の開発、あるいは金融情報の管理だろうか。
演算力とは、人類がおそらくその終焉まで生み出し続ける演算リソースとは、何のために在るものなのか。
疑いもなく、それは迷宮である。
迷宮を走破せよ
人の最後の拠り所、想像力までを演算力に兌換せよ。
迷宮を走破せよ
大地を演算力に変え、新たなる大地を生み出せ。
迷宮を走破せよ
迷宮を走破せよ
迷宮を――
――――――天塩創一、自筆のメモより。
※
縦穴を下ること120分。
四枚プロペラが六基の大型ドローンが私を吊り下げ、ゆっくりと降下していく。時速にしておよそ8キロというところか。
間違いではない、時速8キロで120分、およそ16キロ近く降りている。
地球上で存在する最大の穴は、ロシアのムルマンスク州にあるコラ半島超深度掘削坑だという。
深さは12キロで、マリアナ海溝の底より深い。しかしこれは研究用の穴で、直径はごく小さかった。計画では深さ15キロまで掘り進めるはずが、12キロ地点で地熱などにより気温が180度まで上昇し、掘削ドリルが損傷、計画は頓挫したという。
つまり、深さ16キロの縦穴はそれを超える世界。
周囲の空気は250度を超えている。耐熱用のクーラースーツを着ていなければ一分とかからず死ぬだろう。
『何か見えてきましたか』
空間に声が響く、ナビゲーターの声だ。
私はヘッドライトの電源を入れる。スリ鉢型の光が照らし出すのは、ごつごつした岩肌。私は宇宙服のような耐熱スーツ越しに話す。
「酸素はあるみたい、景色はずっと縦穴よ、穴の直径は200メートルほど、ライトがなきゃ何にも見えないわ」
『もうすぐ縦穴の底に着くはずです』
「やっぱりドローンじゃ効率が悪すぎるわ、次は別の移動手段を考えて」
『はい、考えておきます』
私はライトを下方に向ける。高熱により大気が歪んでいるため光学観測ができなかったが、前もって飛ばしていた偵察ドローンがその「迷宮」の様子を映し出す。
それは電車。
あまり詳しくないが、映像分析によればかつて山手線を走っていたデハ6260系、上越新幹線「あさひ」、スーパーひたち、九州旅客鉄道「ななつ星」、蒸気機関車C51形、かの有名なすみれ色のオリエント急行まで。
それらが、まるで木の根が分かれていくように、あるいは子供がストローで作った工作のように有機的に連結されている。客車の横っぱらに貨物列車が接続し、機関車が新幹線の真上に食い込んでいる。それらは巨大な縦穴の中で斜めに突き立ち、引き抜きかけた木の根のように全てが繋がっている。そして列車たちは地面へと潜っている。
「悪趣味ね、というか列車の種類にまったく脈絡がないし、接続の仕方も適当だし、鉄道マニアが見たら激怒しそう」
『新幹線の先頭から中に入れるはずです。深さはどこまであるのか想像もできません。スーツの破損には十分に注意して下さい』
ナビゲーションの声はスタート地点から電波で飛ばしている。迷宮に入れば聞こえなくなるだろう。
私はその、創造者が「迷宮」と言い張る難物をじっと見下ろす。
「あれが……闇処銀垂の迷宮……」
これで幾つめの迷宮か、私はぼんやりと思う。
高熱と深い闇の中、人の歪んだ想像力が生み出した迷宮。それは凄まじく異様であり、異形の極みであった。
あるいはこの場所こそが根の国、イドの底。無意識のおぞましさだけが存在する世界であった。
※
迷宮世界のダイダロス
※
「まただ」
私はぼんやりとつぶやく。学食の壁、そこに小さな赤い三角がある。
「何がまたなのー?」
友達のサチがそう言いつつ、たぬきうどんをゆっくり食べる。私は肉と野菜テンプラと玉子3つ乗せの大盛うどんを食べつつ説明する。飲み物は麦茶だ。
「また赤い三角形のいたずら書き、ほら、あっちの壁。時計の真下あたり」
「めっちゃ遠いんですけどお」
壁とは30メートルぐらい離れている。三角形の大きさは5センチぐらいか。
「とにかく、これで5つ目よ。先週からあちこちで見かけるの」
この問いかけも何度目か、サチの答えもいつもと同じだろう。
「なんかのオマジナイでしょお、恋の願掛けとか、呪いの儀式とか
……と、そお思っていたのは昨日までの私」
サチがそう言って、かけていない角縁メガネをくいっと持ち上げる仕草をする。おお、昨日と違う。
「情報を入手したのよお。あれは怪人のマークらしいわ」
怪人? 妖怪とかじゃなく?
「その名も怪人デルタ。美術準備室に「ダイダロス」があるでしょー。それを三枚、三角形の形に並べると、中に怪人デルタを召喚できるって噂なのー。どんな願いでも叶えてくれるとか」
「そういうのって「質問に答えてくれる」とかじゃないの? 願い叶えてくれるの? 大盤振る舞いなのね」
ダイダロスといえば、情報端末としての機能を持つ移動式ホワイトボードだ。会議のプレゼンなんかで使うものだったが、最近では教育にも取り入れられてるとか。三ノ須では通常の授業ではなく、美術科だけで使われている。
「その噂が立っちゃったもんで、美術準備室にカギがかかっちゃってね。入れなくなっちゃったのよー」
サチはそう言って項垂れる。試すつもりだったのかな、その妙な儀式。
「ミズナもお、やってみたいと思わない? その儀式。何か理由つけて鍵借りて、行ってみようよー」
「……」
どんな願いでも。
という言葉に一瞬心が揺らぎかけるのを、自嘲気味に噛み潰す。馬鹿馬鹿しい。神頼みならぬ、怪人頼みだなんて。
「興味ないよ。放課後は忙しいし」
※
三ノ須学園には160ほどの部活があり、生徒は強制的にどれかに入らねばならない。そして学園外でのアルバイトは全面禁止。いまどき古風な校則と言う人もいるし、時代だから仕方ないという人もいる。どっちも正しいのだろう。
私は棒状のバーベルシャフトを丁寧に点検し、滑り止めの炭酸マグネシウムをブラシで落とし、錆止め剤を吹き付け、最後に布で丹念に磨き上げる。バーベルプレートとダンベルにメッキの剥がれがないか確認し、あればテープで保護する。他に機械式のトレーニングマシンを全て点検し、油をさし、シートやスポンジの破れを補修し、動作を確認して布で磨き上げてたっぷり二時間の作業。
「全部終わりましたー」
と、リフティング部の部長に報告する。全身が黒光りしているマッチョな先輩が駆け足でやってくる。
「やあ、早かったね。業者に頼むと時間が掛かるからな、助かったよ」
先輩は磨かれたあとの器具を見て、感心したように言う。
「おお、なんだか随分キレイになってるな、ガタついてた器具もビシっと調整されてるし……こういうの経験あったの?」
「そんなことより」
先輩はうむと言って、ぽち袋をこっそり渡してくる。中身は部員から集めたカンパで、掲示板の通りなら千円。
「千円じゃ安かったかな」
「別にいいです。それじゃ、これだけ置き場所が分からなかったやつ」
私はダンベルを片手で差し出す。
「ああ、それは休んでる部員の私物だろうな、明日聞いて……」
受け取る時、がくんと腕が沈みかけるのを反射的な注力でこらえる。
「じゃ、私はこれで」
「う、うむ、ありがとう」
20キロのダンベルをよくこらえたものだ、と感心する。
私は廊下を進みつつスマホを操作する。学内イントラネットからアルバイト募集の掲示板へ。
学外でのアルバイトは禁止だが、学園内では掲示板を介してアルバイトを行うことができる。外では働けないのに、学園内にある購買やカフェの店員ならOKなのだ。どういう理屈でこんなことが許可されてるのか分からないが、これも時代の流れだそうだ。学園というのは、いつも時代の変化と古風さの尊重との間で歪んでいる。
この三ノ須学園は生徒数4万人。敷地はランドとシーを合わせた広さの14倍。
巨大な学園だけあって仕事も多彩だ。資格を持っている生徒は簡単な修理や工事を請け負ったり、体を張ってもお金が欲しい生徒は大学部の治療臨床試験、いわゆる治験バイトまで行える。私は御免だけど。
噂では、頭の方を低くして寝続けるというバイトがあって、請け負った生徒は2ヶ月で80万ほど稼いだらしい。これは無重力下での筋肉の衰えを知るための実験らしいが、運動機能の減少と引き換えでは、8千万でも割に合わない。
まあ、そのようなバイトは都市伝説のレベル。特殊な時期でもない限り、募集は本当に雑用ばかりだ。引き受ける生徒もあまりいない。それでも無いよりはマシと、私はいくつかの仕事依頼のページを開く。
それからは空き教室の清掃。生物部で水槽を洗い、天体観測部の資料の整理。すべて終わったのが夜中の9時である。私はゴミに出すという書類の山をダンボールに詰めて、暗くなった廊下を進んでいた。
「今日は陸上部に顔出せなかったなあ。週一ぐらいで行っときたかったけど……」
私の本来の所属は陸上部、でもここ最近、まともに顔を出せていない。ないとは思うがスポーツ特待が取り消されては困る。あれは学食がタダになるという重要な特権があるのだ。それにオリンピック代表にと声がかかる可能性だってなくはない……。
ふと、足を止める。
どこかの教室から光が漏れている。ここは文化系の特殊教室が集まる第Ⅶ棟、少しだけ開かれた扉の上部には「美術準備室」と書かれた札が刺さっている。
中を覗く。誰もいない。しかし教室の奥、ハードルを仕舞うときのように壁にぴたりとくっついて並ぶホワイトボードがある。「ダイダロス」だ。
そのうち何基かの表面が薄っすらと発光しており、電源が入っていると分かる。
「ったくもう」
例の怪人デルタとやらの噂が思い出される。どうやら誰かが儀式を行い、ちゃんと電源を切らずに帰ったらしい。
私は書類の詰まった段ボールを片隅に置き、その電子黒板へと歩み寄る。
そして、しばし考える。仕事を頼まれた天文学部の部室は四階の奥、もう部員は帰っていて、私もダンボールごと書類をゴミに出したら、その足で帰宅するつもりだった。廊下から物音は聞こえない。この時間、他に残っている文化部もないだろう。
「……」
私はホワイトボードをがらがらと動かし、教室の中央に引っ張り出す。電源の入っていたボードは三基、チョークを使わずに文字が書けたり、板書を保存して生徒にメールで配布したり、授業にwebサイトを引用したりと実に便利なボードだと宣伝されていたが、これを本格的に授業に取り入れている学校はあまり無いらしい。やれノートは手書きしないと覚えないとか、ネットの情報は間違いが多いとか、そんなカビの生えた理由らしいが、まあ、あまり成績優秀でない私が指摘することではない。
発光している面を外側に、三角形に並べる。ちらりと窓の外を見れば、日の落ちた学園の風景に、チラホラと明かりのついている部屋が散らばっている、誰かに見咎められるほど目立ちはしないだろう。
「デルタ」
私は声に出してみる。
「怪人デルタ、出てきなさい」
瞬間。ホワイトボードが真っ黒に染まる。
そしてジジジと目の細かい網をひっかくような音。それは古いアナログ式機械のノイズにも聞こえる。画面にはモザイク状に乱れ、さいの目上にあらゆる色が踊り、明滅し、そして像を結ぶ。
『これはこれは、うるわしいお嬢様ですね』
そして、そいつは現れる。
※
Tips 三ノ須学園
東京都に本拠地を置く大規模な学園施設。幼年部から大学院まで含めて生徒数は40870人、教育機関の他にも研究機関、医療機関などを数多く抱えている。外部には農園や牧場、大型の海洋養殖場や研究林など全国に施設がある。
というわけで新たに連載を始めることが出来ました。
前作ほどのペースではないかも知れませんが、ゆるゆると更新できていければと思います。
前作はこちら
異世界クイズ王 ~妖精世界と七王の宴~
https://ncode.syosetu.com/n1867fd/