1章 15
シャルロ先生が連れていってくれた焼肉屋は、まごうことなく文句無しの超高級店だった。
感想を一言で言うと、めちゃめちゃ美味しかった。
あんなに美味しい焼き肉を食べたのは生まれて始めてだった。
肉の柔らかさやくどくなく丁度いい量の脂の甘みという肉そのもの旨みは言うに及ばず、タレも味深くて、ただでさえ美味しい肉の旨みを数段上に押し上げていて、これ以上はないってくらい最高のベストマッチだった。
メインの焼き肉だけじゃなく、サイドメニューも相当いい仕事をしていて、味だけじゃなくて盛り付けも綺麗で隠し味や奇抜な組合せなどがあって、ちょっとした遊び心もにくい
思い出しただけでも、口の中が唾液で溢れてくる。
「それにしてもシャルロ先生、よくあんないいお店知っていましたよね?
結構グルメなんですか?」
「いやいや、一人暮らしだから外食は多いけど、あのクラスの店にはさすがに頻繁にはいかないよ。
けど、こういう職業柄、お偉いさん方に接待しないといけない時っていうのが必ずあるんだよ。
面倒だけど、失礼にならず、いい気分になって貰うくらいの場所は詳しくないといけないんだよ。」
「そう聞くと大変ですね。」
「大変だよ、童師霧切の従者は私と後もう一人を除いて未成年だからね。
お酒屋が入る席だから筆頭を含めた他の子達は無理だし、もう一人は潜入先の仕事が忙しすぎて時間が取れなくて、必然的に消去法で接待は私の仕事になっちゃうんだ。
地位や権力という高価な椅子を尻で磨く仕事を長くやっていた人に限って、我が儘な人が多くて多くて。」
どう考えてもはずれクジを引かされているとしか思えない。
大人って世知辛いなぁ、損しかないじゃん。
「その接待シャルロ先生にとって、メリットあります?」
「美味しい店を知れて、自分の懐が傷まず食事が出来るメリットはあるけど、店選びから、接待相手の性格や趣味に添った話題選び、相手を不快にさせないレベルのよいしょと謙遜、精神的疲労でプラマイゼロどころか完全にマイナスだよ。」
「お疲れ様としか言えないですわ。」
「接待の日が近づくたびに、胃が痛くなるし、寝付きが悪くなって寝不足になるし、情緒不安定になっておっさんが嫌みを言われる悪夢を見るし、衝動的に腹を掻っ捌きたくなる。
まぁ、でも組織のお偉方と比べたら数倍マシだけどね。」
思わず切腹したくなるとか、そんなに接待が嫌か!
いや、僕だって同じ立場になったら、接待前に夜逃げをするように、こそこそと尚且つ速やかにトンズラこくに決まっている。
しかも切腹って本来は、自分の身の潔白を証明するために、腹を見せるって意味があり、当時の武士にとっては名誉ある死として扱われて、堂々した態度で腹を切った武士は立派な見事の最後だったと、称賛を受けるものだったらしい。
けど、切腹したくなると言ったこの人は、ドMのロリコンという潔白というには程遠い業を抱えている。
切腹程度じゃ、到底穢れたこの業は浄化しきれないと思う。
それがマシ扱いとか、組織の人はどれだけ底意地が悪い集団なんだろうか?
特に会話もなかったから、ぼーっと流れていく窓からの景色を眺めていると、なんか違和感を感じる。
そこまで遅い時間じゃないのに、一人っ子一人いないうえに、信号機が赤色や黄色に点滅している。
とどめに薄黒っぽい霧が周り一帯に覆い被さって、まさに一寸先は闇状態になっている。
「これは………まさか!?
佐倉君、シートベルトをきつく締め直して、何か掴まって!」
前の席で運転していたシャルロ先生が、突然切羽詰まった声で僕に運転が荒くなると暗に伝えてきた。
バックミラーに写るシャルロ先生の目付きが鋭くなって、ハンドルを握る手が強くなる。
「え?何が?」
「早く!敵襲だ!!」
そう言うと、広がっていた黒い霧が凝縮するように集まって、進行方向に鬼や狼や人の形をした複数の邪なるものが出現した。
出現したのを確認すると、シャルロ先生は急速旋回のように車をUターンさせると、アクセルを全開に踏みしめて一気にトップスピードでその場から退避の選択を取った。
乱暴にハンドルを切ったせいで、発生したGに振り回されてベルトに締め付けられて息が苦しくなる。
今は息が苦しくなるだけで済んだけど、シャルロ先生の言う通りにきつくシートベルトを締めていなかったら、確実に吹っ飛ばされていたかもしれないほどの衝撃が体に襲いかかってきた。
「ぐぅぅぅぅ!きっつぅッ!!」
「ごめんね、佐倉君。
でも、私達だけでは邪なるものには対抗出来ないから、今は逃げるしかない。
クッションの座り心地が悪くなるのは我慢してくれ。」
「それはいいですけど、このまま逃げているだけじゃあジリ貧ですよ!」
「それなら心配ない。
既に童師霧切には救援信号は送ってある。
後は彼女が私達に合流、もしくはオフェンスとして邪なるものを殲滅するまで逃げるなり、耐えるなりすればいいだけだよ。」
「シャルロ先生!前からも!」
前方から数体の邪なるものがこちらに向かって、突進してきた。
車と敵が接触しそうになるギリギリのタイミングで、シャルロ先生はシフトレバーを操作した。
すると、突然車体の左側だけが重くなったように、車体の右側が大きく傾いて、タイヤが中に浮かんで車体が60度の角度を描いた。
その隙間を一体の邪なるものが通り過ぎた後、すぐにシフトレバーを操作して元の平行の体勢に車体を戻した。
その後直ぐ真横にまで近づいていた邪狼におもいっきり車体をぶつけて、スピードを落とさずに突っ切る。
更に進行方向の正面に待ち構えていた邪鬼を目の前にして、シャルロ先生はハンドルを真っ直ぐに固定したままだった。
このまま体当たりするつもりじゃないよね?
向こうは2mを越える巨体だし、絶対にこっちが当たり負けするに決まっているし、ギリギリで避けますよね?体当たりなんてしませんよね?
「佐倉君、対ショック体勢用意。」
「え!?まさか、冗談ですよね!?」
僕の希望と反して、車は更にスピードを上げて、邪鬼に体当たりせんがために突進していく。
バゴォンととてつもなく大きな音と衝撃が体だけじゃなくて、脳や内臓などの内部まで響き渡り、少し胃液が上がってきて気持ちが悪い。猛スピードで突進してくる車に体当たりされた衝撃で、仰け反った邪鬼の体をジャンプ台代わりにして、数m空中をムササビのように滑空して、ズドンとバウンドしながら激しく着地する。
シートベルトをきつく締めている分、衝撃を逃がす事が出来なくて、お尻が痛い。
「ちょ、ちょっと、大丈夫なんですか!?」
「何がだい?車の事?邪なるもの?」
「どっちもです!さっきからハリウッド顔負けカーアクションしてますけど、ぶっ壊れて途中で車が動かなくなったら、洒落になりませんよ!!」
「大丈夫大丈夫、心配ないよ。
この車は組織から支給された車でね、軍隊が正式採用している装甲車レベルの堅牢さで、戦車の砲撃なら一発くらいなら耐えられるから、大船とは言わないけど、安心してくれてもいいよ。」
不安は尽きないけど、泥舟と言われるよりましか。
シャルロ先生は邪なるものがいないルートを見極めて、僅かな隙間をすり抜けて時間を稼ぐためにドラフトを繰り返していく。
うえっ、気持ち悪い、さっき食べた焼き肉を吐きそう。
車酔いに苦しんでいると、ボォンと車の屋根に何か落ちる音がした。
恐る恐る上の方へ視線をずらすと、邪狼の頭が屋根からこちらを覗きこむように下ろしていた。目がないけど、目が合った気がした。
「ヒッ!!」
「しまった!取り付けれた!」
シャルロ先生の焦った声に驚いて、前を向くと邪狼がボンネットの上に乗っかっていた。
飛びついた邪狼達が車の装甲を破ろうと、牙や爪を立てて、四方八方から金切り音や金属が軋むが少しずつ大きくなってくるのが聞こえてきて、殺人鬼が一歩ずつ近づいているようで恐ろしい。
シャルロ先生は邪狼を振り落とそうとしているけど、深く食い込んでいるみたいで落ちる気配がない。
「ッ!!先生!前に邪鬼が!」
僕達の真正面に邪鬼が仁王立ちして待ち構えていた。
待ち構えていた邪鬼は、両腕を車の下に通すと、そのまま掬い上げた。
フワッとした浮遊感の後に、内臓ごと引き摺られるみたいに落下して、車はひっくり返った亀のようになった。
落ちた時に作動したエアバッグのおかげで痛みはないけど、タイヤは夜空の方向に向いてしまっていて、もう逃げる事が出来なくなってしまった。
エアバッグの隙間から見える景色には、邪なるもの達が群れなして近付いてきて、ガリガリと車の装甲を破壊しようと躍起になっている。
「佐倉君、大丈夫かい?」
「怪我はないです、先生は?………先生、血が。」
「ああ、どうりで生温かい感触がすると思ったら。
ところで血も一応は水なのだし、水も滴るいい男っていう訳で、私の男気も少しは上がったかな?」
シャルロ先生は頭から血を流して、服を赤く染めていた。
こんな状況で、しかも頭から血を流して自分の方が酷い怪我をしているのに、ふざけて態度を取って僕を安心させようとしている事に、自分の不甲斐なさを感じて、無性に腹が立つ。
「何冗談言っているんですか!!早く手当てしないと。」
「大丈夫大丈夫、人間意外とタフな生き物だから、この程度の怪我はどうって事ないよ。
見た目は派手だけど、額の表面を薄く切っただけだから。
それよりも、君の怪我がなかった事に安心したよ。」
「まず自分の心配をしてください!!
なんで先に僕の事を気にかけるんですか、順番逆ですよ……。」
「それは君が子供で、私が大人で先生だからだ。大人に守って貰えるのは子供にとって最大の特権で、子供を守るのは大人の義務だよ。
特権っていうのは、使える時に使っておかないと、大人になって特権を持っている人を僻み妬み嫉みを持つ悪い大人になっちゃうよ。
それに元々君をこんな時間まで連れ回さなれば、危険に巻きこまれずに済んだのだから、私の責任だよ。」
こんな時だけど、シャルロ先生の大人としての在り方に胸くる。
胸が一杯になって、目頭が熱くなる。
こういうところは本当に尊敬出来る。
「それに君に怪我でもさせてたら、童師霧切にどんな厳しい折檻をされる事か。
……………いや、むしろ望むところ、それどころか私の方から土下座でお仕置きしてくださいと願い奉りたい。
それを絶対零度の如き冷たい態度で、心から軽蔑した目で見下ろしながら、ゾクゾクするような冷笑を浮かべながら
『貴方のようなゴミとは違って、この私の貴重な時間を使わせるなんて、本当にどうしてくれようかしら?
何を物欲しそうな顔しているの、反吐が出るほど気持ちの悪い。
このまま罵ったり、嬲っても貴方を喜ばすだけですし、どうしても欲しいなら惨めにみっともなく、ただでさえ気持ち悪い顔を歪ませて感謝を込めて地面と熱烈なキスをしなさい。
そうすれば一考くらいはしてあげる。』
と言われれたら、控えめに言ってそれだけで絶頂しますね!!」
「シャルロ先生死んでください。
むしろ、今すぐ外に出て、邪なるものと戯れて来てください。
そうすれば今まで味わった事のない快楽を得られますよ。
ついでに先生が戯れている間は僕の身の安全はある程度は確保されるので、一石二鳥です。さぁ、どうぞ。」
僕の感動と尊敬の気持ちをのしつけて返して欲しい。
上げて落とされたせいで、胸を積もるこの言葉に言い表せないイライラ感は、今も際限なく上がり続けていて、まさにストップ高状態になっている。
ああ、本気でぶん殴りたい。
おじいちゃん仕込みの正拳突きを、あの変態の鳩尾に気が済むまで叩きこんでやりたい。
耳を裂く金属音が響きに全身が逆立ち、音の発生源を見るとそこにあるべきはずの壁がなくなって、墨を溶かしたような暗い景色が広がっていた。
そう、とうとう破られてしまったんだ!
僕達をギリギリのところで守ってくれて最終防衛線が突破されて、丸裸にされてしまったのだ。
そこから伸びてきた黒い腕から逃げようと、後ろに下がっても狭い車の中だから、背中がすぐに壁にぶつかり逃げ場がなくなる。
もはやシェルターから棺と化した鉄の残骸の隅に追いやれて、恐怖で頭の中がパニックになって、体が震えて、涙が頬を伝い、怖いという感情以外何も考えれない。
「死にたくない!助けて!………助けて…絹姉さん!」
口についてでた助けを求めた声に応えたみたいに、僕の掴まえようと腕を伸ばした邪鬼と僕を閉じ込めていた鉄の残骸を、空から落ちてきた何かよって纏めて両断された。
両断された車からなんとか這い出て外に出ると、赤色のマントを夜空になびかせ、左肩に孕斬鋏を担いて後ろ姿が目に入って、安心感でそこ場に腰が抜けてように座り込んだ。
「絹姉さん!!」
僕の声に微笑みながら、絹姉さんは振り向いて、空いている右手で僕の手を取って、ゆっくりと立ち上がらせてくれた。
「遅くなってごめんなさい、茜君。
怖くなかった?さっきまで一緒にいた変態にお婿に行けなくなるような事はされていないわよね?
まぁ、でも、ヒーローいうのはいつだって遅れてやってくるものでしょう?」
僕の頭を撫でた後に僕を後ろに下がらせると、左肩に担いだ孕斬鋏を空を薙ぐように振り下ろして、戦いの素人の僕にも分かるくらい濃密な闘気を身に纏って、片手で孕斬鋏を構えて一歩踏み出した。
絹姉さんに警戒していた邪なるものの群れは、怯えた様子を見せて、訓練された軍隊のみたいに一斉に距離を取った。
「さぁてと、随分と好き勝手に私の茜君で遊んでくれたみたいだけど、」
絹姉さんの姿はもの凄く頼もしいけど、
一つ気になったのは、邪なるもの達は絹姉さんの強さに警戒したみたいじゃなくて、桁外れた憤怒にビビっているように見える。
もしかして、僕が危険に合わされた事にぶちギレてる?
私の茜君って言葉が異常に強調されていたように感じたのは、気のせいじゃないと思うし。
「ここから巻き返すわよ、貴方達、討たれる覚悟は決めなさい。
せめても辞世の句くらいは聞いてあげるわよ、まぁ断末魔以外認めないけどね。」
良かったあの怒りを向けられたのが僕じゃなくて。