世界の果て
多分みっちゃんなら、「わっ、 見て!凄い!綺麗……」なんていうような、ありきたりな感想を大きな声で叫んで、僕をほうってスマートフォンを片手に写真を撮りに行ってしまうだろうなと思った。そんな、ありきたりな夕焼けだった。夕陽の誇らしげな朱色と、夜の闇と、昼間の澄んだ青空が油絵みたいに歪に混ざって、その下を厚く細長い雲が化粧水をたっぷりつけたコットンみたいに薄く湿っぽく、幾重にものびていた。夕陽自体は半分ほど山に隠れてしまっていて、もう夜がそこまで来ているようだった。風は冬の午後の、顔や耳が鋭いマチ針で刺されているような感覚に陥る、あの特有の風に変わっている。僕はマフラーを巻き直した。僕のアイフォーンは、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』を流している。電車が来る気配はない。――そう、僕は今駅にいるのだった。
控えめに言って、その駅は一見すると住宅街に何故かたまに存在する誰も住んでいない廃屋のように、冬の海岸の海の家のように、ただ木材によって組まれた寂しげな何かにしか見えなかった。辛うじて雑草の合間にひっそりと埋まっている線路によってだけその一画を駅たらしめていた。駅の片側には、その駅が終点であることを示すバツ印の木のサインが立っていて、反対側を見ると線路が遠くまで続き、次の駅は見えないままに地平線の先へと続いているようだった。
僕は駅のホームにある木のベンチに座っていた。木材の角の風化の具合やそれらを繋ぐ鉄筋の錆び具合を見るに、かなり年季の入ったベンチであるようだ。この駅には屋根もないようだし、長い年月ここで雨風にさらされながら乗客の一息をそっと手伝ってきたのだろうと想像できた。
ベンチの後ろの看板には駅名が記されてあったようだが、文字はベンチと同様風化して禿げ、駅名の最後の文字が『口』であること以外読み取れなかった。何かの入り口が近くにあるのだろうか? と僕は想像した。
ホームから見える景色は草原だった。そこには一本の花も見当たらず、様々な具合の緑が先の方まで続いていた。先には山があり、斜面には木々が生えているようだったが、葉はほとんど落ちてしまったようで、山自体は緑と茶色の混ざったような色をしていた。
僕が目を覚ました時と比べて変わったことと言えば、イヤホンから流れ出る音楽と太陽の位置ぐらいだった。アイフォーンの左上には象徴的に、『圏外』という文字が浮かび続けていた。電車はやはり来る気配がないし、誰も駅に入って来てはいない。目の前の草原を誰かが通ることもなければ、虫が僕の周りをせわしなく飛ぶようなこともなかった。時々左から風が吹いて草をほのかに揺らすか、あるいは太陽の光が雲に覆われ、何か暗示的に周りが少し暗くなるぐらいだった。
ここで僕が目をさます前の最後の記憶を辿ってみる。僕は確か高円寺の喫茶店で契約客とのアポイントメントを終え、喫茶店を出て駅へ向かい、ホームで数分待ち、一分遅れて来た総武線に乗って席に座った。その時イヤホンからは確か、ビリーホリデイの『ストレンジ・フルーツ』が流れていた。向かいの席には、右端に七十代ぐらいに見える白髪の老夫婦と、左端には黒人の男が座っていた。老夫婦は何故か二人ともきちんとした正装をしていた。彼らの服はこれ以上ないくらいに手入れされ、洗練していた。老紳士は埃ひとつ付いていない黒いスーツに、これまた真っ白なシミひとつないシャツを着て、艶やかなシルクの臙脂色のネクタイを締めていた。老婦人は灰色のコットンワンピースを着て、胸元には高級そうな金色の数珠繋ぎのネックレスをしていた。二人は何をすることもなく、目の前の虚空をぼんやりと眺めているか、もしくは何も見ていないようだった。黒人の男性はナイキの紺のジャージを上下着て、腕を組み、首を少し上にあげ、ヘッドホンに流れる音楽に集中しているように見えた。そして僕は、午後の電車の柔らかな陽気と体に未だ染み付いていた珈琲と煙草の匂いに酔い痴れ、ウトウトとしていた。そして――この廃材置き場のような駅の片隅にいる自分に気づく。腐りかけたベンチ。名もなき雑草に紛れ忍ぶ線路。夕陽。僕は何とは無しに、「なんだか、世界の果てみたいなところだなあ」と思った。そう思うぐらいしか、手段がなかったのだった。
アイフォーンの電源が切れてしまったようで、音楽が止まった。仕方なく僕はイヤホンを外し、丸めてポケットにしまった。あたりはしんと静まり返り、風の音だけがトンネルを歩いている時の足音みたいに幾何学的に響いていた。僕は用心深く立ち上がり、意味もなく太ももの部分を手で払った。駅を出てみることにした。
この時に初めて気づいたのだが、この駅はホームと外の道の間に駅舎があって、そこが雨風をしのぐ休憩スペースのようになっていた。壁に沿ってベンチが設置してあり、外のものよりも綺麗で新しく見えた。真ん中には冬用の大きな灯油ストーブが置かれていた。試しに電源をつけてみたが、何も反応はなかった。まるで自分の役割は部屋を暖めることではなく、街の中心から一歩外れたところにある小規模な博物館の展示物のように、その機械的構造の歴史的背景や、かつての所有者の小粋なエピソードを語ることであると主張している風に見えた。端に駅員用の部屋らしき空間につながるドアもあったが、鍵がかかっていた。そのドアには小さな窓が付いていたが、内側のカーテンが閉められているようで、中を覗くことはできなかった。薄い緑のカーテンで、無地だった。僕はその駅舎をぽつぽつと歩いて、壁や地面を点検してみた。かなり昔からあることは匂いや雰囲気で察せたが、ここがどこであるかの情報はどこにもなかった。
しかし、外へ出るドアの横に、小さな木の物置台が設置されているのに気がついた。それは小中学校の美術室の椅子みたいに簡素だった。そこには青色のキャンバスのノートと、三菱の赤と黒の模様の鉛筆が置かれていた。そのノートは何故か、ついさっき文房具店で買ってきたみたいに新しく、逆に鉛筆は、数年ぶりに引き出しを整理してたら奥の方から出てきたみたいに六角形のすべての角に何らかの傷があったり、欠けていたりしていた。ノートには黒いペンで、女子中学生が書いたみたいな丸っこい文字で『駅ノート』と書かれていた。ノートをペラペラとめくってみたが、どのページも全くの白紙で汚れひとつ見当たらなかった。僕は鉛筆を取り、試しにノートの一ページ目に適当な文字を書いてみた。『世界の果てに、こんにちは』
先ほどまで赤く輝いていた空は、もうすっかり紫色になっていた。夕陽は山陰にすっかり隠れてしまっている様だ。僕が駅舎から外に出た時、辺りはもうすっかりそんな状態で、近くの街灯が忽然と光り始めた。しかしその街灯は幾年も手入れされていないらしく、蛍光灯のカバーには黒い汚れの影がデザイナーズブランドのシャツみたいに無差別な模様を描いていた。蛍光灯そのものも、もはやじっと辺りを照らし続けることは出来ず、寿命を終えようとしている蝉のようにチカチカと瞬いていた。光の周りには既に蝿が数羽舞い、より深い寂しさを演出していた。
ふと僕と街灯を挟んだ反対側の空に、アクリル絵の具で塗りつぶしたみたいに濃いピンク色の風船が飛んでいくのが見えた。風船の結び目には紐が付いていて、つい先ほどまで幼い手に握られていた気配が感じられた。風船は風に導かれ、ふらふらと宙を舞って、そのまま線路伝いに何処かへ揺られていった。僕はぼうっと風船の行く末を眺めていた。しかし僕が不意に咳払いをしたその一秒にも満たない瞬間、その風船は姿を消してしまった。まるで、突然現れた空間の裂け目にすっと入り込んでしまったかのように。
風船の流れていった方向へふらふらと歩くと、駅内から線路を眺めていたときは気がつかなかったのだが、駅のすぐ近くに踏切があることに気づいた。黄色と黒のストライプに彩られた、オーソドックスな踏切だ。塗装が所々剥げ、剥げた部分がさらに錆によって腐食されているものの、それでも未だ全身を使い、自身の背後の危険性についてを世界に訴えているようだった。
線路のこちら側から伸びた道は踏切を境にコンクリートから土に変わり、そしてその土の道も草原の奥に行くに連れて次第に細くなり、最後には草陰に消えてしまっているように見えた。一体誰がこの踏切を越えて、どんな用事で向こう側へ行くのか、僕にはわからなかった。この草原を定期的に綺麗に手入れする業者か個人がいて、その人たちが渡るのだろうか? それともあの草原で鬼ごっこをするために、小学校帰りの子供たちが渡るのだろうか? あるいは僕みたいに、ここに迷い込んだ人間が?
その時、左のほうから微かに足音が聞こえた。僕は人ごみの中で自分の名前が呼ばれた時のように、ハッと音のする方を向いた。そして、左方に続く道の先から幼い女の子が歩いてきているのを捉えた。十歳ぐらいの、小さな女の子。上品なベージュのファーがついた真っ白なダウンに、薄いピンクのスキニーパンツを着ていた。そして厚ぼったくていかにも暖かそうな、茶色のムートンブーツを履いていた。脚は繊細なガラス細工のように細く、髪の毛はあの時総武線にいた老紳士のスーツのように黒く清潔で、肩に掛かるか掛からないかの位置でまっすぐに切り揃えられていた。彼女は僕が振り向く前から僕に気づいていた様子で、まっすぐと黒い瞳を僕に据えて、その小さな口をまっすぐに閉じ、ゆっくりと歩いてきていた。僕は立ちすくんで、その様子を眺めていた。
彼女は僕の前まで来ると、立ち止まって僕の顔を見上げた。彼女の瞳は小さな物であれば飲み込んでしまいそうなほど深く黒く、底が見えなかった。少し乾燥した、けれど血色のいい唇はぴったりと結ばれ、まるで京都の甘味処で抹茶に添えて出される精巧な和菓子のように見えた。頰は外気の寒さからか少し赤くなっているようだった。
彼女は僕の前でぴたりと静止して、ゆっくりと小さく呼吸をしながら僕の顔を眺めていた。僕はまるで彼女に心を読まれているみたいな感覚に陥った。この、世界の果てみたいな場所に対する不安感や恐怖感、どこで何をどうすれば元の場所に戻れるのか全く見当もつかない、この無力感を。僕はもう一度踏切を眺めた。電線は線路とともにここまで繋がってきているけれど、果たしてこの踏切には電気は通っているのだろうか?
「君、どこから来たの?」動かないままの女の子に僕は話しかけてみた。よく考えてみれば、他所からここに来たのは僕の方なのにな、と思いながら。彼女はほんの少し首を傾げた。注意して見ていないと気づかないくらい微かに。まるで、夕方と夜の境目みたいに。けれど何も答えない。
「お名前は?」
沈黙。
「近くに住んでいるの?」
沈黙。
「ここ、なんていう街の名前か、教えてくれないかな?」
女の子は一回瞬きをした。そして数秒の沈黙の後、ゆっくりと両手を胸の前に持って行って、何か不思議な、暗示的なジェスチャーをした。小さな口を開いて、塀を歩む猫の足音みたいに小さな声で何かを発した。それは日本語のような、けれど僕にはうまく聞き取れなかった。
「もう一度、言ってくれる? はっきりと聞こえなかったものだから」僕は言った。
しかし彼女はそれに対しては何も答えず、一瞬目を伏せ、また僕の顔を見つめた。そして右手を彼女の口元に持って行き、すらりと細く伸びた人差し指をピンと立て、唇にそっと当てた。柔らかい唇が少しでも震えないように、そうっと。数秒の静止。それから彼女は手を顔の右横の方に持っていって、立てたままの人差し指で彼女の顔を、いや、詳細に言えば彼女の耳のあたりを指差した。数秒の静止。そしてまた両手を胸元の辺りに揃え、両手の人差し指を交差させた。彼女はその間、一度も僕から目を離さなかった。瞬きだって、してなかったかもしれない。
「そうか、耳が聞こえないのか」僕は思いついて言った。女の子は無表情。僕は彼女がしたみたいに自分の右耳を指差し、そのまま耳の横でバツ印を示した。彼女はゆっくりと頷いた。
僕は少し考えて、上着のポケットからアイフォーンを取り出した。けれど取り出してから、電源が切れていることに気づく。画面には、電池の消耗と充電を促すサインが映し出されるのみだ。これなら文字でコミュニケーションが取れると思ったのに。音楽なんてすぐに止めてしまえばよかった。そこで僕は、駅舎のノートのことを思い出した。そうだ、あれを使えばいい。
僕は少し屈み、彼女に向かって左手を差し出し、手全体を使って自分の方にクイっと指を曲げて戻す動作をした。右手は後方に向かって伸ばし、駅の方を指差した。「ちょっとこっちに、駅の方について来てくれないかな」というメッセージを込めて。彼女はまたゆっくりと頷いた。
僕は彼女の頷きを確認してから、彼女を促すように駆け足で駅の方へ戻った。彼女は僕に促されて歩き出している。駅舎の引き戸を乱暴に開けて、入り口すぐ横のノートと鉛筆をつかんだ。そして踏切の方を振り返った。しかし、――やはりと言うべきか、最後までこちらに来る彼女を見届けておくべきだったのだ、と引き戸を開けた瞬間に気付いたが遅かった――女の子の姿はなかった。そこに五秒ほど前まで確かに存在していたその気配さえ、消え失せているように感じられた。まるで、空間の裂け目に入り込んでしまった風船のように。
彼女と一緒に駅舎まで入ればよかったんだ。なんで最後の最後に焦ってしまったんだ。僕は深い後悔に襲われた。ついに出会った、現状打破の鍵だったのに。僕は駅舎の扉の外で、ノートと鉛筆を持ちながら、激しい台風の風にじっと耐える歩行者のように、地面をぼんやり眺めながら後悔の渦潮の収まるのを待った。
恐らく数分の時が経った後、(この時には僕にはもう、時間の感覚さえ曖昧だった)僕はぼんやりと駅舎の中に戻った。僕は左手に付けてある腕時計に目をやった。針は丁度四時を指している。四時? こんなに暗いのに? そして僕は、秒針が動いてないことに気づく。電池が切れてしまったのだろうか? 僕にはわからなかった。
僕は何とは無しに右手に持ったままのノートを開いて、先ほど最初のページに書いた文字を眺めた。この駅と世界の果ての関係について考えを巡らせようとしたが、なんだか頭がうまく情報を整理できそうになかった。そしてページをめくった。そこに、新しい文字が書き加えられていることに気付いた。まるで文書ソフトウェアの明朝フォントみたいに、精確な文字で。『知らない人には、ついて行っちゃいけないから』
辺りがすっかり暗くなってしまったことによって、駅を挟んで踏切と反対側に、ぼんやりと光を放つ何かがあるのを発見した。光は街灯のそれと違って点滅することはなく、見え方は柔らかいのにもかかわらず、光そのものには強さを感じた。まるで、雨粒を通してみた対向車のハイビームみたいにだった。長いトンネルを走り続けてようやく外の光が先の方に見えた時のような、期待と安堵の入り混じった独特の感覚を覚えた。僕は何かこの場所の手がかりが掴めないかと、その光の源へ向かってみることにした。風はパリの北風のように冷たく、うっすらと霧がかかっていた。歩きながら空を見上げると、いつの間にか空には雲が低く連なって、一つの星も見えなかった。
そこにあったのは自動販売機だった。二台の自動販売機が寒さを凌ぐように密やかに並んで、一つは光を放ち一つは電源が落とされていた。どちらも酷く傷だらけで、塗装が剥げ、錆び、古臭かった。
一つは飲み物を売っている自動販売機で、今ではもう見られないデザインのコカコーラやポカリスエット、ビックルが売られていた。他にも、六十年代のネオンサインのようなフォントで描かれたフルーツミックスジュース。発売初期のデザインの、ユーシーシーの缶コーヒー。こちらは電源が繋がれていて、逆に卑しさを感じさせるほど煌々と光を放っていたが、商品はどれも売り切れていた。ふと、自動販売機には側面に住所が記されたシールが貼られていることを思い出して確認してみた。けれどそれらしい表示は見つからなかった。あるいは風化してしまったのかもしれない。
左隣にあったのは右のそれとはサイズが二回り小さい、コンドームの自動販売機だった。オカモトのベーシックなレギュラーサイズコンドームと、微かにさえ耳にしたことのない会社から販売されている派手なパッケージをしたコンドームが二つ、合わせて三種類が売られていた。それにしても、コンドームを製造する会社には聞いたことのないようなマイナーな会社が沢山存在し、なんだか薄暗い秘密に満ちている。そして多くの場合、彼らが生み出すコンドームは薄気味悪さを思い起こさせるような色をしているか、あるいは様々なバリエーションの突起物が、潮の引いた浅瀬の海藻みたいにせめぎあっている。一体誰がわざわざ好き好んでこんな物を買うのだろうか? 僕には想像もつかなかった。この自動販売機は飲料のものと違い、電源に繋がれておらず、未開の洞窟を思わせる静寂に満ちていた。
これらの自動販売機の後ろには、これまた古臭い中規模の木製の建造物があり、『西山商店』と書かれた大きな看板を掲げている。しかしなにを売っている店なのか、絶妙に判断がつきにくい雰囲気だった。駄菓子、雑貨、料理用品、はたまたアダルトグッズだろうか? シャッターは暗黙的な拒絶の意志を表明しているかのように固く閉ざされ、丁度中心の辺りに『本日はお休みいたします』と細い線で書かれた紙がガムテープで貼られていた。本日? 考えてみれば、今が何年の何月何日であるかさえ、僕にはもはや曖昧だった。僕が今日朝家を出た時は、確か二〇一四年の十二月六日だったはずだ。だが現在僕が立っているここが、この地点が、それと同じ時代、同じ時間であるということをどうやって証明できるだろう? アイフォーンは相変わらず深い沈黙を続けている。今まで僕はどうやって、自分の生きている時間平面について確信してきたのだろう? それは僕にとって、不気味なコンドームの購入者層と同じぐらい、わからないことだった。
辺りの霧が急激に深まり、寒さが増していることに気がついた。二メートル先でさえぼんやりとし、その中を街灯と自動販売機の光が屈折し、幻想的な光景を生み出していた。湿ったコンクリートの地面の水滴が少し凍り、屈折した光を受け冬の星空のように細かく輝いていた。僕は身体を丸めて、寒さをしのぐため駅舎へと戻った。
駅舎の引き戸をしっかりと閉め、マフラーを巻き直して、ベンチに座った。ストーブは相変わらず動かなかったが、外にいるよりは幾分かマシだった。僕は両手を上着のポケットに入れ、マフラーに顔を埋め、ぼんやりと自分の履いているチャーチの革靴を眺めた。いつまで待っていれば、電車は来るのだろう? あるいは、この駅は廃駅なのだろうか? せめて腕時計が動いててくれば良かったのに、と思った。時間の整合性はさておき、一体ここに来て何時間が経過したのかがわかる。
僕は風が駅舎や窓を軋ませる音を聞きながら、みっちゃんのことを思った。みっちゃんは今なにをしているのだろう? いつもみたいにアガサ・クリスティを読んでいるかもしれない。代官山の小洒落たレストランで、友人と一緒に透き通るように白いワインを飲んでいるかもしれない。お風呂で、入念に身体を洗っているかもしれない。あるいは、僕に何かメッセージを送って、返事を待っているかもしれない。だとしたら早く帰らなきゃな、と思った。
一番最近のデートはどこへ行ったんだっけな、と記憶を辿った。記憶が混同してなければ、確かその日は井の頭線に乗って吉祥寺に行き、彼女の好みな昭和風な喫茶店に入り昼食をとったあと、井の頭自然文化園に行きぶらぶらと動物を眺めたのだった。彼女は全ての動物を平等に見つめ、説明書きを入念に読み、何かに納得し頷いていた。僕は彼女に歩みを揃え、動物達が檻の中で野性を失い漠然と死に向かって生きている様子を、僅かな同情と共に眺めていた。
文化園を満喫した後、僕らは渋谷まで戻り、夕御飯にハワイ料理を食べた。彼女はポキ丼、僕はロコモコ丼を頼み、ガーリックシュリンプを二人で分け、ピニャ・コラーダで乾杯した。ゆったりとした食事の後、もう帰ろうかと思っていたところ、珍しくみっちゃんが僕をセックスに誘い、僕らは渋谷のラブホテルに行ったのだった。
そういえばその時入ったホテルの枕元に置いてあったコンドームは、深海魚のように奇妙な色とデザインをしていたな、と思い出した。
みっちゃんはセックスをすること自体は好んだが、ホテルでセックスをする際、備え付けのコンドームを使うことを何よりも増して嫌った。かといって彼女は、「そんなものを持ち歩くなら、下着を穿かないで外に出る方が幾分かマシ」などと言って、コンドームを買って持ち歩くことは決してしなかった。だから僕は常に自前のものを持ち歩く必要があった。一度僕が手持ちを切らしていたことに気づかないままホテルに入った時、彼女はホテルのコンドームを使ったセックスを頑なに拒み、「申し訳ないけれど、でも代わりに」と言ってそれ以外の部分を使い、時間をかけて僕を射精に導いてくれた。
けれどその日、僕はセックスをすることについて全く考えておらず、したがってコンドームも持っていなかった。そのことをみっちゃんに伝えると、彼女はまるで世界の果てにたどり着いてしまったみたいに愕然とした表情をし、自身の信念と性的衝動の狭間で揺れ動き、最終的に初めて備え付けのコンドームの使用を認めたのだった。そしてそのホテルにあったコンドームは、やはり聞いたことのない会社が販売しているものだった。横浜の夜の海みたいに緑と黒の混ざったような色をして、山椒の葉の側面のようなでこぼこが付いていた。みっちゃんは興味深そうにその色と形に触れ、そこに隠された何らかの意味を探ろうとしていた。
「ねえ、『世界の果て』って聞いたら、例えばどこを想像する?」
セックスの後、みっちゃんは布団を肩までかけて横になりながら、僕にこんな事を聞いた。
「世界の果て? 一体何の話をしているのさ」僕は言った。
「いいから、とりあえず答えてみて」
「そうだなあ、どこだろう。北極の中心辺りとか、チリの南の果てとか……、あとは北欧の森の奥とか?」
「ふーん、なるほどねぇ…」
「一体なんなのさ、心理テスト?」
「もう、あんまり焦らないで」みっちゃんは僕の腹に左の頬を付けながら言った。彼女の乳房がピタッと僕の脇腹に触れた感覚があった。それはしっかりとした感触で、けれど綺麗な形をした若々しい乳房だ。「心理テストとかじゃなくて、もっと真面目な話。つまり、世界の果ての場所について。」
彼女は時々このような思想的な話をすることがあった。そういう時、決まって彼女は普段のおおらかな印象から打って変わって、ピリッとしたクールな雰囲気を纏う。まるで、彼女の人格そのものが変わってしまったみたいに。
「母方のおばあちゃんの話によるとね」彼女は言った。「世界の果てというのは、はっきりと目に見えて明らかな場所にあったり、特徴があったりするわけじゃないの。だから分かりやすく南アメリカの先端、というわけには、どうやらいかないらしいのよ。加えて例えば、『パイレーツ・オブ・カリビアン』みたいに、海の果ての大きな滝を落ちた先にあるわけではないし、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』みたいに、精神世界的な、壁に囲まれた不可思議な場所というのでもないのね」
「じゃあどこにあるのさ。僕の部屋のクローゼットの中にでもあるのか?」
「それはあながち間違いでもない」彼女は人差し指を立て、僕の両胸のちょうど真ん中を優しく触れながら言った。彼女の人差し指の爪には、光沢のある水色のマニキュアが均一に塗られている。「世界の果ては、私たちの住んでいるそこかしこに、ひっそりと寄り添っているの。まるで、二月の雪の降る夜のバス停みたいに。でも、いわゆる表裏って感じじゃないのよね。どちらかと言えば、裏というよりは隣にあるの」
「隣」
「そう、隣に。すぐに触れられるくらい。今のあなたと私のように」彼女は続ける。「けれど残念ながら、私たちは中々それを認めることが出来ないのね。それはなぜかっていうと、私たちがそこに世界の果てが存在するという事実を知らないから。例えばあなたがCDショップに、カーペンターズのアルバムを買いに行ったとする。あなたは洋楽コーナーのイニシャルが『C』の欄を眺める。そこでもしあなたがクリームを知っていたとしたら、『お、クリームも置いてあるじゃないか』なんて具合に、クリームのセクションにも目がいくでしょう。それで、その店の品揃えを眺めたりなんかする。けれどもしあなたが知らなかったら、すぐ隣にあるはずのそのセクションには見向きもせず、カーペンターズのアルバムを探すだけで、クリームの存在には気づかない。『へぇ、クリームっていうバンドもあるんだ』とは中々ならないのね。むしろ、セリーヌ・ディオンか何かのコーナーを見ちゃったりするわけ。私の言ってること分かるかしら?」
「分かるよ」僕は答えた。「つまり僕らは、世界の果てではない何かに対して注目していて、その上世界の果てがその辺にあるなんてことも知らないから、気づかないまま素通りし続けてる」
「まったく、そういうこと。おばあちゃんが言ったことを咀嚼すると、特に若いうちは小説とか、数学の参考書とか、小洒落たカフェとか、外車とか、一流企業とか、なんか例えばそういうものが周りに沢山あって、世界の果ての入る隙がないみたい」
数学の参考書? 一流企業? みっちゃんの例えは、時に驚くほど無差別に聞こえる。
「けれど具体的には、一体どんなところに世界の果てはあるんだろう?」僕は聞いてみた。
「そうね、そこはおばあちゃんが話してくれなかった部分なんだけれど、でもあなたの言ったクローゼットの中っていうのはいい線いってるんじゃないかしら? 『ナルニア国物語』みたいで素敵じゃない、それ。」彼女は目を閉じながら言った。「あとは……そうねえ、このホテルの裏側の、非常口の奥とか。 なんだか非常口って、そういうところにつながってそうな雰囲気があるじゃない?」
「言われてみれば」僕は同意した。「それとも、例えば各駅停車の電車しか停まらないような、大きな駅の一つ前の小さな駅とか」
彼女は片目をゆっくりと開いて、僕の目を横目で覗き込んだ。まるで心を読んでいるみたいに。
「そんな駅を降りてすぐにある、昔から変わらない小さなアーケードとか」僕は言った。
「あるいは住宅街の家と家の隙間にある、秘密のノラ猫たちのたまり場とか」みっちゃんは言った。
「新しく幾つか建てられた背の高いマンションの溝に挟まれた、名前も遊具も無い公園とか」僕は続けた。
「山手線の高架下の、フェンスに囲まれた何も無い場所とか」みっちゃんは静かに言った。
「街角の、ごみ箱の中とか」僕は言った。彼女のきめ細やかな背中をそっと撫でながら。
そのようなあれこれを、意識を半分だけ使いながら考えていると、遠くの方から微かに音が聞こえてきた。その音は、最初は夜に部屋の窓を開けた時に聞こえる街の喧騒のように漠然としていたが、徐々にその音は鮮明になり、やがてそれは電車の走る音だということに気がついた。僕はどこかから落っこちる夢を見て目覚めたときのようにハッと意識を取り戻し、急いで駅のホームに向かった。
すでに電車は駅に到着していて、エンジンの残留音と熱気が朧げにホームに満ちていた。電車は二両しかない小さなもので、何の色も飾りもないシンプルな鉄色のものだった。ドアは閉ざされ、窓から中を覗いてみると、車内の電気は付いているものの誰も乗っている気配はなかった。車掌室の方まで行ってみたが、誰もいなかった。もちろん、運転席にも誰もいなかった。
乗客用ドアの横に小さな丸いボタンがあった。試しにそこを押してみると、空気の抜けるような音とともにドアが開いた。その音がやけに大きく聞こえ、まるで魔王の城の城門を開いたときのような厳格でシリアスな雰囲気が感じられた。
僕は少し迷って、けれどこの駅にいてももう何も動き出しそうにないなと思い、意を決して電車の中に入った。
電車の中は少しだけ暖房が効いていて、暖かかった。ライトも質感の良さそうなプラスチックのカバーによって丁度良く遮られ、穏やかな雰囲気を醸していた。僕は席の端っこに座って、ドアか窓の上部分に路線図がないか調べた。けれど案の定、それらしい表示はどこにも見当たらなかった。
中吊り広告はまばらに吊り下がっていて、男性俳優と女性アナウンサーの密会スクープと、名前も知らない政治家の政治資金不正のスキャンダルをトップに報じた週刊誌の宣伝広告か、整った顔立ちをした女性が写る、新発売の発泡酒の広告しか無かった。どちらも自分の状況や行く先について、何一つとして情報を持っていなかった。今までいた駅やその周りの静かな情景とは打って変わった人工的な文字情報の濁流に、なぜか吐き気のする気持ち悪さを感じて、僕は今までいた駅舎の方を開いたドア越しに眺め、深呼吸をした。
そして気持ちが何となく落ち着いてきたと思った矢先に、何の前触れもなく、まるで蘇生呪文を受けて息を吹き返した屈強な戦士のように、電車が機械音を発しながら体制を整え始め、そして唐突にドアが閉まった。僕はびっくりして辺りを見回したが、やはり誰もいない、がらんとした暖かな車内だった。僕は進行方向から見て後ろ側の車両に乗っていて、また車両同士の行き来は出来ないようになっていた。だからいつどのタイミングで運転手が電車に入ってきたのか、そもそも運転手が乗っているのか、確かめる術が無かった。電車は自身の機能を一つ一つ確かめるようにゆっくりと、発車し始めた。
僕はドアの方まで行って、窓から先ほどまでいた駅を眺めた。窓越しに見る駅は、先程より余計寂れて、なんだか戦後の白黒映像を見ているような気分になった。踏切が電車の横をサッと過ぎていった。踏切の遮断桿はしっかりと降ろされ、自らの仕事を全うしているようだった。あの踏切、ちゃんと電源が通っていたんだな、と僕は安心した。あの耳の聞こえない女の子がもしまたあそこに来ても、きっとあの踏切が彼女を事故から守ってくれるだろう。
それにしても、あの女の子は一体どうやって、あんな一瞬で僕の前から姿を消してしまったのだろう? 僕には未だにわからなかった。その前に空に浮かんでいた風船も、同じように瞬く間に姿を消してしまった。あの西山商店は、一体何を売っているお店だったのだろう? なぜ、コンドームの自動販売機には電源が入っていなかったんだろう? 僕にはわからなかった。みっちゃんはなぜ、あの時柄にもなく彼女からセックスに誘ったのだろう? 僕は一体何時間あの駅に留まっていたのだろう? 僕にはわからなかった。この電車は、どこへ向かっているのだろう? 僕にはわからなかった。