産んで……
「はー、暑かったね!」
引っ越しの荷物の段ボールを床に置き、わたしはお姉ちゃんに声をかける。
「そうね。でもこれでようやくアキの引っ越しも終わり。一人暮らしだからってあんまりハメ外すんじゃないよ? 大学もサボらずちゃんと行きなさい」
「もうわかってるよぉ。お姉ちゃんは心配性だなあ。なんかお母さんみたい」
「うるさい。たまに様子見に来るから」
「はいはい」
わたしは今度から通うことになる大学近くの、このウィークリーマンションに引っ越してきた。とはいっても実家もそこまで遠くないし、二週間に一回くらいは実家に帰るつもりだ。だから荷物は最小限。だけど流石に疲れたし、すぐに荷物をほどく気にはならない。
不動産屋も回っていろいろ物件も見たんだけど、やっぱりこういうマンションがお手軽だ。女の一人暮らしだから両親やお姉ちゃんは少し心配してるけど。
あ、ちなみにこの時期に入学? と不思議がる人が多いけれど、わたしは九月入学なのだ。
お姉ちゃんは少し涼んでから帰っていった。お姉ちゃんの大学もここからそれなりに近いし、一緒に住めばいいのにと言ったら、あんたの世話焼かされるに決まってるから嫌だ、だって。確かに、そうなったら家事が得意なお姉ちゃんに甘えてしまいそう。
さて、とうとう今日から一人暮らしスタートだ! と意気込んでみたものの、やることは荷ほどきだ。少ないとはいえ段ボールの中身を整理するのは結構疲れた。
なんとか荷ほどきを終え、時刻は三時前。少し早いけど近くのスーパーへ食材を買いに行こう。今日からは自分で夕飯も作っていかなきゃ。なるべくインスタントには頼らないようにしていきたい。
外に出るとむわっとした夏の熱気に襲われる。これはやばい。マンションの前の公園へと駆け込む。……影だ。影の下に入らなければ死んでしまう。
公園は背の高い木が多く、涼しかった。このままできるだけ影を伝って、出来るだけ日光を避けながら行こう。子供のころにやった影鬼みたいな感じだ。物件を回ったときに大まかに把握したくらいで、この辺もまだ探索しきれていないし、新たな発見もあるかもしれないしね。
そうやってしばらく移動していたら、見知らぬ場所へと迷い込んでしまった。目的のスーパーマーケットへのルートからは既に大きく外れている。
でもまあ、もともと探検のつもりだったんだし、狙い通りといえば狙い通りだ。大通りを走る車の音や電車の音も聞こえているし、いざとなればそっちの方へいけばどうにでもなるよね。
今いる場所は商店も少なく、なんだか閑散としたところだ。住宅はあるんだけど、なんだか人の気配があまりしない。普通ならノスタルジックな風景と言ってしまっていいんだろうけど、それよりはなんだか不気味という言葉の方が当てはまりそう。
おそるおそる歩いていると、一つの集団住宅が見えてきた。少し古そうではあるが、ボロボロというわけでもない。なんとなく近づいてみると、表札が見えてきた。
裏野ハイツ
すぐそばに、空き部屋あります、という文字も見えた。
不動産屋は結構回ったが、こんな物件はなかったなあ。結構いい立地条件なんじゃないだろうか。もうすでに部屋は決めてしまったけれど、なんとなく見てみたくなってきた。別にいいよね。
ふらりと敷地内へ入る。
ビクン!
と身体がこわばる。
ハイツの玄関に白い服を着た女のひとが立っていたなんて気づかなかった。
ああ驚いた。
ここからじゃ、女のひとの顔は影になって見えない。長い黒髪と白い服、そして白い肌が印象的だ。
すると、その女のひとはおもむろに手をあげてこちらへ手招きしてきた。
わたし? いや、違うよね。
後ろを振り向く。誰もいない。
やっぱりわたしに手招きしたの?
そう思って正面を向くと、女のひとは影も形もなかった。
え、うそでしょ。と思ったけど普通に考えたらどこかに入っていっただけよね。わたしに手招きしたのだって他の住人か友人と間違えただけかもしれないし。間違いに気づいて恥ずかしくなって隠れたとかもありそう。
そう考えたら気が楽になった。せっかくだし、空き部屋を見に行こう。
玄関に近づくと、少し中ほどに小さな管理人室が見えた。小窓がついている。中から管理人さんが応対するのだろう。だけど、その小窓にはカーテンがついていて、中をうかがうことはできない。
あ、もしかしたらさっきの女のひとが管理人さんだったのかもしれない。それならあのスピードでいなくなったのもうなずける。サッとここへ入っただけなんだ。
「あのー、お部屋を見せて貰ってもよろしいでしょうか」
管理人室に声をかける。すると、からりと小窓がわずかに開き、カーテンの隙間から鍵が差し出されてきた。
む、無言ですか……。
いいのかな、と思いつつ鍵を受け取る。勝手に見ろってことなの? 不用心だなあ、と思った瞬間信じられないものが目に飛び込んでくる。
え?
そのとき一瞬だけ見えた管理人さんの指は真っ白で、爪が反り返って潰れていた。最近のケガという風ではなく、まるで爪が壊れるほど、常に何かを思いっきり握りこんで潰し続けたかのようだった。
背筋がぞくりとする。が、とにかく鍵は受け取ってしまった。こうなったらさっさと部屋を見せてもらって帰ろう。
そう思った瞬間、ぴしゃりと窓は閉じられた。なんなのその態度。いや、妙にフレンドリーに接してこられてもそれはそれで怖いんだけど。
鍵には【203】号室というプラスチックプレートが付いていた。案内板でもないかと見回すと、すぐに見つかった。構造はシンプルだ。一階は左から【101】【102】【103】号室、二階が左から【201】【202】【203】号室となっているようだ。【203】号室は二階の一番奥ということらしい。
階段を上がって一番奥へと向かう。一分もかからずに【203】号室へとたどり着くと、金属製のドアノブに鍵を差し込んで回した。なんで自分でやらなければならないんだ。わたしがこの鍵を捨てたり持ち去ったりしたらどうするのだろう。
ガチャリとドアを開けて中へと這入り、靴をぬぐ。そこそこ広いリビングルームだ。右にキッチンが見える。LDKというやつだろう。新居もそうだ。リビングの右と奥にドアが見える。まず右のドアを開けると洗面所、その左右にトイレとお風呂があった。
引き返して奥のドアを開けると、リビングより少し小さな洋室があった。さらに奥はベランダだ。
これはウチよりも相当にいい物件だと言わざるを得ない。大学からも近いし、駅もそうだ。あとは家賃だが、それなりに高いのではないだろうか。
一通り堪能して部屋を出る。忘れずに鍵を閉めて、再び管理人室へ。
「お部屋、見せていただいてありがとうございました。お家賃はいくらぐらいなんですか?」
鍵を窓の棚の部分に置いて、中へと声をかける。するとまた、からりと窓が開けられてチラシが差し出される。今度は手は見えない。チラシを受け取り、そそくさと帰ろうとした。
「……ぅん……で……」
え? と思って振り返るも、ぴしゃりと窓は閉められた。何と言われたのかわからなかったが、聞き返しに戻るのははばかられる。もう帰ろう。
歩きながらチラシを見る。そこには家賃が四万九千円であること、部屋の間取り、そして何より簡単な周辺の地図が描いてあるのがありがたかった。目指すスーパーマーケットの位置もはっきりとわかった。しかし安い家賃だ。これならわたしの新居よりも断然いい物件だ。
とはいえ、住みたいかと言われると首をひねらざるを得ない。何よりもあの管理人さんははっきり言って気持ち悪すぎる。実際に住んでいる人もいるのだから言っては悪いけど。
そうして、その後わたしは引っ越し初日を何事もなく終えた。
それからひと月ばかりが過ぎた。九月はじめの入学式まであと二週間と少しだ。この暮らしにも少しずつ慣れてきた。
わたしはいつものようにスーパーマーケットに寄ると、夕飯の材料を買い込んでレジへと並ぶ。すると、レジのおばさんが妙なことを言ってきた。
「お釣りは五十円になります、ありがとうございました。あと十日ですよ」
「え、何がですか?」
と聞き返したが、店員さんは逆に不思議そうな顔をして、その後また次の客の対応に入ってしまった。
何が十日なのだろう。入学式? でもそれはまだ二週間後以上あるし、わたしの入学がスーパーの店員さんに知られている理由も、それを指摘される理由もわからない。
何か引っかかったが、気にしないことにした。
大学の入学準備もほぼ終わり、今日は高校時代の友達と遊びに出かける日だ。
数日前から楽しみにしていたのでテンションが高いのが自分でもわかる。
ショッピングをしてスイーツも食べた。
楽しかった。
別れ際に、友達が言ってくる。
「それじゃあ、またね! あと五日だから急ぎなよ!」
「え?」
何を言われたのかわからなかった。あと五日? そういえば、前にもこんなことが……そう、スーパーのレジで! たしかあれから五日。いったいなんなの!?
頭の中を疑問が駆け巡る。ぞわりと身体が震えた。
友達はそんなやりとりがなかったかのように帰っていく。
こわい。怖い怖い怖い。
だってここは地元で、ウチはあのスーパーからは何キロも離れているのよ。友達がそんな遠い場所で意味のわからないドッキリを仕掛けているわけない。そんなのありえない……。
せっかく楽しかったのに気分は最悪で、家へと帰った。
その日の夜、恐ろしい夢を見た。
友達が、必死の形相でこちらへ走ってくる。でも縛られているのか、後ろに白い縄のようなものが伸びていて、それがピンと張り詰めたところで進めなくなっている。わたしはそれをなぜか見ていることしかできない。
「あああああああ助けてええええええええええ」
友達が叫ぶ。必死に逃げようとしているが、それはかなわない。
その背後から、眼球がこぼれそうなほどに見開いた白い服の女が歩いてくる。真っ白な腕と真っ白な顔。ギリギリと音が聞こえるほど歯を食いしばっている。その左手には友達から伸びる白い縄がにぎられており、腕にはよほど力が込められているのか、幾本ものスジが隆起している。
女は白い縄をぐい、と手繰りよせると、友達は身体ごとぐんと引き寄せられ、絶望の声をあげる。
わたしはどうやっても身動きがとれない。
「やめて、お願い。お願いします許してください」
そう懇願する友達の首を、女の右手ががしりと掴む。
手の爪が、潰れている。
そしてゆっくりと、万力のような力を込め始める。腕のスジがみしりみしりと走った。
「あっ……あ……」
友達は白目をむいてそれ以上は声をあげることができなくなり、だらりと舌を出して気を失った。
それでも女は歯を食いしばりながら力を込めることをやめない。やがて真っ青になった友達の首はぶちゅん、という音を立ててちぎれて落ちた。
女はびゅうびゅうと血を噴出させる友達のからだを無視し、きびすをかえして去っていく。
女の左手につかまれた白い縄は友達の首の中から出ていたものらしく、地面に落ちた友達の首はずりずりと引きずられていった。
私はそれを泣きながら見ていることしかできなかった。
「さいあく……」
その言葉どおり、目覚めは最悪だった。寝汗でびっしょりで気持ち悪かった。
なんであんな夢を見たのか、まったくわからない。
その日は夕方まで何も手に着かず、一日中引きこもっていた。
ふと、わたしは何か悪い予感がして、友達に電話をかけた。すると、友達のお母さんが電話にでて、娘が今朝、急に意識不明で倒れたといった。
わけがわからない。まさか、あの夢のせいで友達が……? だなんて変なことを考えてしまった。
もう晩御飯も作る気にならず、カップ麺で済ませる。テレビのニュースを見ながらすすっていると、番組の終わりの時間になったみたいだ。
「それではまた明日のこの時間にお会いしましょう。……あと四日です」
「は?」
何を言っているのかわからない。そこそこ実力のある有名な中年の男性アナウンサーだけど、最後に何かミスして違う原稿でも読んでしまったんだろうか。それともあと四日で局の応援しているスポーツの祭典でも行われるんだろうか。
いや、違う。妙な確信がある。これは、わたしに向けて言ったんだ。
今の一言は全国の人たちにも聞こえていたんだろうか。それともわたしにしか聞こえていなかったんだろうか。
「いや、いやだ……怖い。なんなのいったい」
なんのカウントダウンかすらわからない。わたしに何をしてほしいのよ!
そのまま片付けもせずお風呂も入らずに、水だけ飲んで、乱暴に顔を洗って、布団へ飛び込む。頭まで布団をかぶると、守られているようで少し安心した。暑いけどクーラーをつけっぱなしにしたままだからそこまでひどくはない。
いつの間にか眠ってしまったよう。
夢の中だけどこれは夢だってわかる。奇妙な感覚。
でも自分から目覚めることはできない。何をやっても起きられないしそもそもまともに動けない。
これじゃまるで昨日の……。
「た、助けてええええええ!!」
突然響きわたる声。向こうから男性が走ってくる。それはニュースで見た中年のアナウンサーだった。
彼はわたしに向かって走ってくるものの、がくんとつんのめって倒れる。首のうしろから出ている白い縄がピンと張って、やっぱり逃げられないんだ。
向こうから、女のひとがあらわれる。白い服に、手にはアナウンサーの首からのびる縄。腕にはみしみしという音が聞こえそうなほどの力がこめられている。ギリギリと歯を食いしばり、眼球が飛び出そうなほど見開いている。
ああ、昨日と同じだ。
こわい。この先が予想できてしまう。
こわい。もう見たくない。
こわい。でもわたしは安全なの。
他人は苦しんでいるけど、わたしだけ助かると思うと涙が出るほどうれしい。
だってわたしにはまだ三日あるもの。
きっと友達もこのアナウンサーもわたしの巻き添えになっただけだけど、それでもわたしにはまだ三日ある。
涙がとまらない。
目の前でアナウンサーは縄を手繰り寄せられ、首をつかまれ、ぶちんとちぎられた。
ああ、かわいそう。
ああ、わたしじゃなくてよかった。
目が覚めるとわたしは泣いていた。
あと三日。三日しかない。
早くしなきゃ。
なにを?
わからない。
でも急がなきゃ。
三日後にはきっと、わたしの番なのだから。
その日はあてどもなく、ふらふらと外をさまよった。
なにをすればいいのかわからない。あと三日。三日以内に何かしかきゃ。
でもわからないの。
歩きくだびれて公園で休んでいると、ホームレスっぽいおじさんが話かけてきた。
「お嬢ちゃん、あと三日だよ、急いだ方がええな」
そう言ったきり、歩き去っていく。
「待って! ……何を、何をすればいいの!?」
急いでおじさんに聞く。おじさんが振り返ると、不思議そうな顔で言った。
「ん、どうした? 何の話だ? 俺になんか用かい、お嬢ちゃん?」
「あ、いえ、……なんでもないです」
どうやら話かけてきた記憶すらないらしい。
わたしはとぼとぼと家へ帰った。
汗だくだったのでさすがにお風呂に入った。
温まってさっぱりしたらまた泣けてきた。
どうしたらいいの? 眠るのが怖い。
テレビをつけると、昨日のアナウンサーが今朝突然倒れて意識不明の重体というニュースが流れている。
あの夢のせいだ。
ああ、でも今日はあのホームレスのおじさんの番だ。
知らない人だし、どうでもいいよね。それに、まだわたしじゃない。今日はまだ大丈夫なんだから。
夢の中でわたしは、助けを乞うおじさんを冷めた目で見ていた。
仕方ないの。動けないんだもの。助けられないんだよ。
でもやっぱり、最後は涙が出た。一度出だすととまらなかった。
昼に起きたけど、何もする気が起きなかった。頭もぐちゃぐちゃ、顔もぐちゃぐちゃで、一人リビングで呆けていた。
しばらくすると突然、チャイムが鳴った。誰か来た。
よろよろと立ち上がり、玄関へと行く。
鍵を外してドアを開けるとお姉ちゃんが立っていた。
「あ、あんた一体どうしたのよその顔」
お姉ちゃんはわたしの顔を見て驚いているよう。そんなにひどい顔をしているだろうか。
「もうホームシックになったわけ?」
たまらなくなってお姉ちゃんの胸に飛び込む。
「ちょ、ちょっとどうしたの? ほんとにホームシック? なによいきなり甘えちゃって」
お姉ちゃんに抱き着くと泣けてきた。わたしはお姉ちゃんの胸でわんわん泣いた。
わたしはぐずりながら十日前から今日まであったことをお姉ちゃんに話した。
荒唐無稽な話だけど、お姉ちゃんはわたしの真剣さから、今起きていることを信じてくれた。
「どうすればいいのか、私にもわからない。けどアキ、何かをしたらその悪夢は止まるのね?」
「たぶん」
「じゃどうにかしなきゃいけない」
「でも、何をどうすればいいのかわからないよ」
「とりあえず何か思い出せない? よく考えなさい。どこかの石を蹴ったとか、どこかの神社に行ったとか、なんでもいいから思い出して」
「……わからない。最近そんなことした覚えないし」
「最初は、『あと十日』って言われたのよね? じゃあ原因は十日よりもっと前かもしれない」
「あ、そうか! 十日前から始まったんじゃなくて、もっと前から……」
「きっとそう。思い出すの。この家に引っ越してからのことを全部思い出しなさい」
「うん」
必死に考える。――ふと、初日に行った集合住宅のことを思い出した。そういえば、あれは少し奇妙な体験だった。
お姉ちゃんにその時あったことを話す。けど、いざ話してみるとはっきり言って別にどうということはない話だ。少し変な管理人さんだったというだけの――。
あれ? おかしい。
潰れた爪がフラッシュバックする。
夢の中に出てくる白い服の女。あれは、もしかしてあのときの管理人さんじゃないの?
なんで、なんでこんなことを今まで思い至らなかったんだろう。
そうだ、確信した。そうに違いない。
「わかった。とりあえず、そこへ行ってみよう。なにかやらなきゃいけないんだから。――ああ、こんな時にお父さんとお母さんが日本にいてくれたら!」
「……うん」
お父さんとお母さんはちょうど海外へ旅行にいっている。仲がいいのは結構だけど少しうっとおしい。でも今はそのうっとおしさがそばに無いことが余計に不安をかきたてる。
「とにかく、あんたは出かける準備してなさい。私は友達にこの辺の神社とか言い伝えとか調べてもらっておくから」
そういって電話をかけはじめるお姉ちゃん。
そうか、何も頼れるのは両親だけじゃない。そんなことにも気が付かなかったなんてよっぽど頭がどうかしていたんだろう。
お姉ちゃんはすごく頼もしかった。
家を出ると、すでに辺りは暗かった。
お姉ちゃんといっしょにあのハイツを目指す。
けど、ひと月も前のことだ。記憶をたよりに進むが、うまくたどり着けない。
距離はそんなに遠くないはずなのに……。
焦りばかりが募っていく。
「落ち着きなさい、何か思い出せないの? そこの名前とか。携帯で検索するから」
「た、たしか名前を見たはずなんだけど……思い出せない。ひと月以上も前のことだもん」
「そう。じゃあ名前以外でもなんでもいい。周りに何かなかった?」
「うーん、無かったよ」
と、そこまで言ってふと思い出す。
「そうだ、あの気味の悪い管理人さんに最後に何か言われたんだ。『うんで』とかなんとか」
「『産んで』? 何を産めばいいの。まさか子供はひと月じゃ産めないだろうし」
「あ!」
「どうした?」
そこまで言って私は一番重要なことを思い出した。
「その時チラシをもらった! そこに地図が載ってた!」
「その地図は? 家にあるの?」
「わからない。でもたぶん捨ててないと思う」
「わかった、帰るよ。とにかくこんなに暗くなっちゃ、たとえ地図があっても無理だし。この暗さじゃ懐中電灯があっても道なんてわからない。もう今日は帰って明日にしよう」
「う、うん」
仕方ない。なんとかチラシさえ見つかれば、明日はすぐにたどり着けるはずだ。気持ちは焦るけど、あと二日ある。
それから家へと帰ってチラシを探した。ごみ袋の奥に入っているのを見つけた。
「よし、一旦寝て、起きたらすぐに行ってみよう」
あれ、そういえば今日は誰からもカウントダウンが無かった。てゆーか、もう時刻は夜中の十二時を回って日付が変わっている。
もしかして、カウントダウンは終わったのだろうか。
それからお姉ちゃんと一緒にお風呂に入った。小さなお風呂に二人で。何年ぶりだろう。
交代でお互いのからだを洗って、最後に一緒に湯船に浸かった。
湯船の中でお姉ちゃんが後ろから抱きしめてくれたので、お姉ちゃんのからだに背中をあずけた。
大きな胸が背中に当たって気持ちいい。
いつもはぶっきらぼうなお姉ちゃんなのに今日は甘々だった。
そのまま少しだけ眠ったけど、夢は見なかった。
のぼせてしまうから、と言ってお姉ちゃんに起こされ、お風呂から出る。
もともとお姉ちゃんは夕飯を一緒に食べようとウチへ来たらしく、ちょうど食料を買ってきてくれていた。二人とも朝からなにも食べていなかったので、それを食べた。
疲れもあったし、お腹が膨れると眠くなってきたので、寝る準備をする。
そして一人用のベッドに二人で入る。お姉ちゃんはわたしが眠るまでずっと手を握って、頭を撫でてくれた。
「そろそろ起きなさい」
お姉ちゃんに起こされる。時計は朝の十時をさしている。ぐっすりと眠っていたみたい。なにも夢は見なかった。久しぶりにぐっすりと眠れた。
悪夢のカウントダウンは終わったんだ。
あまりの嬉しさにお姉ちゃんに抱きついた。
「お昼を食べたら念のために、そこへ行ってみる」
「わ、わたしも行くよ。まだ終わったとは限らないんだから」
「あと、ここら辺の神社や言い伝えの場所も、友達が調べてメールしてくれたから後で行ってみよう」
「うん。……す、すごいねその友達。彼氏?」
「ま、そんなところ」
「……ふーん」
「なに?」
「ううん、なんでもない」
それから、わたしたちはチラシの地図をもとに裏野ハイツへと向かった。
昨日の迷走が嘘のようで、ものの三十分でたどり着いてしまった。
おねえちゃんが管理人室へと声をかける。
「すみませーん。管理人さんはいらっしゃいますかー?」
応答はない。
カーテンの隙間から中をのぞこうとしてみたけど、まったく見えない。
でも、なんとなくだけど、中からはなんの気配も感じられなかった。
窓にも鍵がかかっている。
その窓の棚のところに、【203】号室の鍵が置きっぱなしになっていた。まさか、わたしが置いてからそのままにしてあるってことはないよね?
仕方なくわたしたちは【101】号室から順番にノックして回った。
留守なのか、居留守なのかはわからないけど、どの部屋からも返答はなかった。
もちろん【203】号室も調べた。悪いと思ったけど鍵を借りて中まで調べた。
けれど結局、何の収穫も得られなかった。
わたしたちは仕方なく裏野ハイツを後にした。
それから、お姉ちゃんの彼氏からの情報をもとに、家の付近の神社や言い伝えのある場所を巡ってみたけど、どこも来たことのない場所だったし、とくに祟られるようなものもなかった。
一体なんだったのかわからないけど、昨日からカウントダウンは止まっている。そして悪夢も。
わたしは、何をしろと命令されて、何をしたのだろうか。
友達の意識はまだ戻ってないし、謎は謎のまま残ってしまったけど、とにかく終わってくれて助かった。
「アキは、子供のころから結構目ざといのよね」
「うん?」
夕食を食べているとお姉ちゃんが話し出す。
「その友達と、アナウンサーと、ホームレスのおじさんだっけ? きっと、何か病気だったのよ。アキは、その人たちを見て、無意識にそれを感じ取ったんじゃない? 夢はきっとそれを教えてくれていたとか、そんなんじゃないかしら」
三日も続けて病気で倒れる人間を見るだろうか。あ、そうだとしたら、『あと十日』と言ったあのスーパーの店員さんは今頃どうしているだろう。
「アキ、一応明日病院に行っときな。アキも病気が移っているかもしれないよ」
「それを言うならお姉ちゃんもだよ」
「そっか。じゃ、明日一緒にいくか」
お姉ちゃんは今日も泊まってくれるらしい。今日も誰からもカウントダウンはなかったけど、一応。だってまだ悪夢があるかもしれないから安心はできない。
一緒にお風呂に入って、昨日みたいにお姉ちゃんに甘えた。
それで、彼氏のことについて聞いてみた。
お姉ちゃんは少し恥ずかしそうに話してくれた。
妹としてはお姉ちゃんを取られるようであまり面白くないけど、お姉ちゃんが幸せならそれでいいと思った。
ベッドに入ると、お姉ちゃんはまた手を握って頭を撫でてくれた。
高校生になったころから、お姉ちゃんに甘えることも、優しくしてくれることも少なくなっていたけど、嫌われてなんかなかったとわかってうれしい。いざという時は助けてくれる、お姉ちゃんはやっぱり優しくてカッコイイ。
「――アキ、明日がさいごの日だよ」
「うわあああああああああああああああああああああ」
そんな、そんな、……嘘、嘘でしょ。嘘よおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!
「ど、どうしたのアキ? なにがあったの!?」
「そんな、今、お姉ちゃんが……うっく」
言葉にならない。お姉ちゃんが何かを察したのか、顔色が悪くなっていく。
「……そう、私が言ったのね」
涙があふれだす。お姉ちゃんがカウントダウンしたってことは、明日の朝、お姉ちゃんは……。
寝られない。絶対に寝ちゃだめだ。
お姉ちゃんがあの女に縊り殺されてしまう。
時間がない。寝なくても朝にはお姉ちゃんが倒れてしまうかもしれない。
わたしはお姉ちゃんの制止を振り切って、上着だけひっつかんで家を飛び出した。
めちゃくちゃに走る。
走る。
走る。
気が付いたらどこかわからない場所にいた。
壁にもたれてズルズルと座り込む。
もう終わりだ。どうしようもない。
涙がまたあふれだした。
このまま朝になって、仕方なく家に帰ったらお姉ちゃんが倒れているんだ。
『産んで』なんて言われても、いったい何を産めというの。
いったい私に何をさせたいのよ!
どうしてこうなったんだろう。
どうしてこんなことになったんだろう。
どうして……。
いったいどれほどそうしていただろうか。
「お、お、お嬢さん、こんな時間にこんなところで、ど、どうしたんだい?」
四十代くらいの太った男性に声をかけられた。買い物帰りだろうか。そういえば上着の中には携帯が入っていた。見ると今は深夜の三時だ。こんな時間といえばお互いさまだ。
お姉ちゃんから何度も連絡が入っている。
ふと今気づいたけど、わたしは上着の下はパジャマだ。まずい状況かもしれない。
でも、別にどんな目にあわされても一緒じゃないか。
どうでもいい。
「うーむ、こ、これは家出か犯罪のニオイがしますよ、ぶふ」
「……違います。化け物女に追いかけられてるだけです」
何を言っているんだ。こんなわけのわからないことを言ったら通報される。
まあそれも同じことか。
「ば、化け物女といえばウチの管理人さんのことだったりして、えへ」
「え?」
「お?」
一瞬時間が止まる。今、このひと、なんていった? ウチの管理人さん?
「う、裏野ハイツの……?」
「おお、そ、そうです、僕が住んでいるハイツですよ。すぐそこの角を曲がったところですよ」
いつの間にか裏野ハイツまで来てしまっていたらしい。すると男のひとが大きくうなずく。
「なるほど! そういうことですか。むふん。……今、何日目ですか?」
何日目。いま何日目か聞かれたの!? わけがわからないけどこの人は何か知ってる!
「あ、明日がさいごって言われて、お姉ちゃんが。だからどうしたらいいか!」
「うわお、あ、危なかったですね。……ところで今、お金持ってます?」
「え、お金、ですか」
一体いくら要求されるのだろう。でもお姉ちゃんを助けられる可能性があるのなら、払うしかない。
そう思ったのだけど、あいにく上着には財布は入れていなかった。
「すみません。持ってません」
「ぶふー。仕方ないか。じゃあちょっと待ってて。僕がちょっとコンビニでおろしてくるから」
「え?」
そういって男の人は行ってしまった。
わたしが払うんじゃないのだろうか。
しばらくすると、男の人が戻ってきた。
「さあ、いこうか」
「ど、どこへですか?」
「どこって、裏野ハイツだよ」
「? ……はあ」
男の人はそうだったとばかりにうなずいて、説明しはじめる。
「う、裏野ハイツってのはね、幽霊なんだよ。いや、実体があるから化け物かな。え、えっと、それで気に入った人間を勝手に住まわせるんだ。ふー。気に入られたら最後、絶対に住まなきゃならないんだな。でないと周囲の人間がどんどん餌食にされる。き、君、一度来たことあるんだろ? その時に気に入られたんだね。ちょうど住人が死んで空き部屋が出来てたし、探してたんだろうね」
「つ、つまり、私が『住んで』ないからこの悪夢が続いてるってことですか?」
「そ、そのとおり! たまたま僕に会えて運がよかったね。気づかずに最終日を迎えていたら君、し、死んでたかもね」
「ど、どうすればいいんですか」
「か、簡単だよ。毎月四万九千円、家賃を納めればいいだけだよ。滞納はいちおう十日まで可能。い、五日以上滞納すると周囲の人間がどうなるかは保障しないけどね。……今日のところは僕が立て替えておいてあげるから、このお金持って管理人さんに納めるといいよ」
な、なんてことだろう。まさかこの太った男の人が救世主だったなんて……。
しかもお金まで立て替えてくれるとは。
その後、わたしは男性から受け取ったお金を持って管理人室へと向かった。
おそるおそる窓の棚にお金を置くと、からりと開いて、真っ白な手が出てきた。爪が潰れている。
背筋に恐怖と緊張が走る。
「た……ぃ……かに……」
そういってぴしゃりと窓は閉められた。そこには、【203】号室の鍵が残されていた。
この鍵は最初からわたしのものだったのだろう。
これでようやく、わたしとお姉ちゃんは救われたのだ。
「よ、ようこそ、裏野ハイツへ。ぼ、僕は【102】号室の田中です。他の部屋の住人とか、他にもここに住む上でのルールがあるけど、そ、それはおいおい説明していくよ」
「はい、ありがとうございます。でも、ほんとうにここに住まなきゃいけないんでしょうか。前の【203】号室の住人の方も亡くなっているんですよね? お化けとか出ませんよね?」
「ぶふふ。そ、そんなこといったらそもそもこのハイツ自体が化け物だよ。そ、それに住めばそこそこ、いやかなり良い物件さ。前の住人のおじいちゃんも死んだのは寿命だし。家賃さえきっちり払っていれば、ここは天国なんだな」
「は、はあ。そういうものですか」
どうやら、私はここに引っ越さなきゃならなくなったようだった。
その後、お姉ちゃんには何事もなく、友達やアナウンサーも無事、意識が戻った。
あれから、わたしは裏野ハイツから大学へと通っている。
もちろん、田中さんにはお金を返した。
あの人もよく考えれば謎の人である。とても優しいけど。
でも管理人さんは、今日も怖ろしい――。