フレンダリオン・ヴェルヴァラン・フォン・ゲオルギオス
「おおおお……」
ぺたり、とリルカが鏡を叩いている。
リルカは椅子によじ登り、宿の扉の脇に掛けられた小さな鏡を覗いているのだが、足場が不安定なのか、そもそも脚が不安定なのか、ふらふらと落ち着かず危なっかしい。
――幼子とは小さく脆く、頼りないものだ。持ち上げる度に壊れるのではと恐れ、何かを食べさせようとすれば食えるのかと不安になり、目を離せばどこかへ行くのではと落ち着かない。
子供はおろか、未婚でありその上非常に残念極まりないことに恋人もいない俺が、この幼児の面倒を見るのか。……見られる、のか。
俺は、これから先を思って嘆息した。
俺の名前は、フレンダリオン・ヴェルヴァラン・フォン・ゲオルギオスという。
聖竜を友に邪竜を滅ぼしたと言われる一族の末で、ドラゴニウスの真竜騎士団の副団長の地位に就いている、竜騎士である。とは言え現代、竜などもはや希少中の希少種、伝承の中にのみ姿をあらわす存在であり、俺も兄も父も祖父も曽祖父も……少なくてもこの数代の間、我が一族の誰もが竜を見たことはない。
では、竜騎士団とはなにかといえば、ようするに竜の友であり竜の末とも言われる、ドラゴニウス領主であるゲオルギウス家が歴代団長を務める魔法騎士団だ。ゲオルギウス家には魔力の高い子供が生まれることが多いため、魔法騎士を多く排出している我が騎士団は、魔法を使った戦術や攻撃、防御は国内随一である。ドラゴニウスの治安維持のほか、国軍への派遣も珍しくない。古く優秀な騎士団であると我ら団員は自負している。
とはいえ、そこに属する俺が副団長であることは家柄ゆえである。ゲオルギウス家の男子は皆騎士であるが、俺は兄弟中で唯一、攻撃魔法以外の魔法に特性が現れた『異端児』だった。それ故に俺は、従騎士として兄に付いて身体を鍛えつつも、最終的には正騎士にはならず、魔法を修める魔法院を目指そうと考えていたのだ。父も祖父も難色を示したが、母と祖母の援護を受けてなんとか説得を取り付け、本来ならば14の春に、そちらの道に進む予定だった。
……だが、しかし。あの、兄が。
今では騎士団長となった、3つ上の、兄が。
兄があまりにもアレであったため、俺は騎士団に入らざるを得なかったのである。
「フレーン」
「なんだ」
「くし、ある?」
「くし?」
「フレンが、わしゃわしゃしたから!」
「ああ、櫛か……すまんな、ない」
「えええーっ」
椅子の上で振り返り、長い髪の先を握りしめて、ショック、と言わんばかりに目玉と口を開け放った幼女に、口元が笑う。こどもらしい間抜け面というべきなのだろうが、非常に微笑ましい。長ずれば美女まちがいなしであろう美少女――いや、美幼女という言葉があるならば、そちらの方が適切かもしれない――であるため、間抜けな顔さえひどく愛らしいのである。
リルカは美しいこどもだ。3、4歳程度の見た目だが、腰より長い髪は石膏のように白く、丸く大きな瞳は、光を透かした薄青の鉱石に似ている。しみも傷もない肌は髪同様に白く、頬はまろく、薔薇色だ。手足もふっくらとしていて、裕福な家――それもとびきりの――の子供のようだし、総合すると神や精霊の加護を感じさせる、『特別な子供』にしか見えない。
そんなリルカは、『青の光』からの『預かりもの』である。
俺が『青の光』に出会ったのは、ドラゴニウスから馬で3日ほどの森の奥にそびえ立つ、上竜山の山麓だった。
研究者になれなかった俺を哀れんだ騎士団より上のお偉方は、2年に1度、俺にひと月ばかりの休暇をくれる。『研究休暇』と呼ばれるそれは、魔法院の研究魔術師たちが取るものと同じで、研究室では解明できない研究を進めるためのものだ。俺はその休暇を利用して、古い伝説の多く残る上竜山へと登り、そこで『青の光』と出遭ったのである。
『青の光』は正しく俺の追い求めていた存在であったので、俺は狂喜し、許される限りの教えを請うて、7日の間、師弟として過ごした。そして滞在の可能な最後の日、『青の光』は俺にリルカを託したのである。
俺に託されるまで、『青の光』の力に守られて、リルカは長い眠りについていた。リルカもまた、『青の光』と同じ存在であり、彼の庇護下にある者だったのだそうだ。しかし、遠い昔に『青の光』はリルカを守り切ることができず、彼女は眠りにつくことになり、そうして長い時を過ごしてきたという。
『青の光』は言った。
『リルカは眠らねばならなかった』
『眠りながらも魂を保つために、小さくならざるを得なかった』
『そしてあまりに長く眠っていたので、きっと存在が不確かになっていよう』
『しかし吾の力も長き時に衰えつつある。こうして隠し続けることも、難しくなってきた』
『リルカも目覚め、己を己で守らねばならぬ時が近い』
『なればリルカを、時が来るまで人と人の間に隠したい』
『どうか時が来るまで、リルカを預かってくれ』
数日とはいえ師と仰いだ偉大なる存在に懇願され、邪険にできるはずがない。俺は一も二もなく承諾し、『青の光』の力から解き放たれ、しかし目覚めぬリルカを預かったのだ。
「フレーン」
「……なんだ」
掛けられる声に我に返る。リルカは鏡の前で頬を膨らませたまま、こちらを見て目を眇めていた。宝玉のような瞳が不満気に輝く。
「やっぱり、くし、ほしい!」
「……わかった、女将に借りられないか聞いてみよう」
「あとおなかすいた!」
「…………そうだな、食事にするか」
ごはーん!
不満気な表情が吹き飛んで、ぱっと笑顔になった子供に、つられて微笑んでしまった俺は、もはや苦笑しかできなかった。まあ、小さな子供がいるのだから、階下の食堂が酔客で満ちる前に、食事を済ませたほうが良いだろう。
うつくしいこども。けれどひどく愛らしく、くるくると表情が変わるさまは、人の子供と同じようにしか見えない。本当に、『青の光』と同じ存在なのだろうか。
身軽に椅子を飛び降りたリルカを抱え上げ、俺は客室の戸を開ける。
食堂の手前、受付で櫛を借りてやると、リルカは目に見えてご機嫌になった。