わたしはリルカ
わたしの名前は、リルカというらしい。
らしい、というのは、わたしが自分の名前を覚えていないからだ。そればかりかわたしは、名前以外のあれこれも、なあんにも覚えていないのだった。年齢も、今までどこにいたのかも、親のことさえ、なにひとつ。
なにしろわたしはふと気づいたら、かっぽかっぽ歩くお馬さんの上、知らない男の人の腕の中で、マントにぐるぐる巻きにされていたのである。それは今も続いていて、わたしは馬に揺られている。ぐるっぐる巻きのせいで、わたしは自分自身を全く見ることができないのだけれど、馬上の人の腕の中にすっぽりどころか収まった上に余るわたしのサイズ感からして、どうもわたしは小さなこどもらしい。名前からしてたぶん、女の子のような気がする。
わたしを抱えている男性は、フレンと名乗った。
腕の中から見上げた、深くかぶられたフードの中は、鋭い目に少々長い黒髪。ちょっとばかり無精髭が目立つけれど、なかなかの美丈夫のように見える。肌は焼けていてちょっと荒れているけれど、もともとは白いんだろうな、という色合い。年齢はわからないけれど、たぶん成人した人間だ。わたしとくらべるとずいぶん大柄に見えるけれど、わたしが小さなこどものようなので、フレンが大きい人なのかどうかは分からない。
ただ、わたしの身体の左右を通るフレンの腕は逞しい。危なげのない見事な手綱さばきだし、馬の揺れもかぽかぽと安定しているので、たぶん、いつも馬に乗っている人なんじゃないかな。わたしをくるむマントは分厚くて風を通さないし、耳飾りの石は精霊石みたいだから、きっと、けっこうなお金持ち。
……わたしの思考がぜーんぶ推測なのは、フレンがぜんぜんしゃべらないからだ。わたしがフレンの声を聞いたのは一度っきり。彼は数刻前、自分の前に乗せたわたしが目を覚ましたのを見て、こう言った。
『起きたか、リルカ。俺はフレンと言う。ドラゴニウスにはあと3日くらいで着くはずだ』
――それ以降、彼はなんにも言わないのである。おかげでわたしは、自分の名前とフレンの名前、それから目的地の名を知ったけれど、それっきりなのだった。わたしもなにをしゃべったものか分からなくて、ぼんやりと道行を眺めている。
わたしがフレンの腕の中で目を覚ました時、わたしたちは落葉の終わりつつある森を出るところだった。太陽の位置を見るに、たぶんお昼くらい。頬に当たる風が冷たくて、ちいさな風花が混じっていた。
そこからフレンは休みも取らず、森の際、人のいない野の道を、大きな馬でゆっくりと移動してきた。土混じりの枯れた草の道。少しずつ砂利混じりになり、道幅も広がっているような気がする。時折現れる石塀の上の塗料で書きなぐられた文字と印を見るに、もうすぐ街道に入るところのようだ。
しかしわたしは、どこからどうしてフレンに連れだされているのだろう。ドラゴニウスとはどこだろう? 着く、というくらいだから、きっと集落のあるところなのだろうけれど、一体何のために?
そしてこのフレンは何者なのだろう? 名乗った時に言わなかったのだから、わたしの身内――父親ではなさそうだし、同じ理由で兄弟や親類縁者とも思えない。わたしひとりを丁寧に包んで抱えているから、ひとさらいということもなさそうだ。でも、旅の道連れ、というわけでもないと思う。だって、フレンは目覚めたわたしに名乗ったのだから。名乗ったということは、わたしが眠っている間にはじめて出会ったか、わたしが記憶を持たないことを知っているかのどっちかだ。幼子を抱えて移動しなければならない事情とはなんなのだろう。このあたり、わたしが記憶を持たないことと、関係があるのだろうか。
そして何より、わたしは一体何ものなのだろう? なぜこんなにも、何も思い出せないのだろう? それに、さっきから薄々考えていたのだけれど、わたしの思考はどうにもこどもらしくないような気がする。こどもが色々なことを考えていないとは思わないけれど、きっとこんなに語彙はないと思うのだ。ひょっとしてわたしは、こどもではないのだろうか。
……では、なんだろう?
「街道に入って直ぐのところに、ドラーゴという町がある。今日はそこに泊まる」
ぱからぱからと鳴る蹄の音の間、ぐるりぐるりと回る思考に突然つららが落ちてきたかのように、突然声が聞こえたので、わたしはびっくりして固まった。低くてなめらかな、良い声だ。聞き覚えはなくはないけれど、馴染みのない声。幻影か精霊かと当たりを見回す。
「リルカ?」
眉間を寄せて覗きこまれ、ようやく、フレンの声だと気がついた。あんまり彼が黙っているから、最初に聞いた声を忘れてしまっていたわたしは、彼だとは思わなかったのだ。
わたしが慌ててこくこくと頷くと、フレンはどうやら、目元を和らげた……らしい。らしい、というのは、彼の顔の印象が、目元を和らげたぐらいではちっとも優しげにならなかったからだ。とはいえ、見下ろす瞳は綺麗な緑色で、鋭いけれど、悪意は感じない。
たぶん、これは、心配してくれている、というやつ。
「どうした。大丈夫か」
「らいじょぶ!」
……驚きの舌っ足らず。
上がった高い声に、いちばん驚いたのはたぶん、わたしだ。こんな声をしているなんて、思いもよらなかった。わたしの身体の大きさから想像できる通りの、幼いこどもの声だ。わたしは中身はさておき、身体は人間のこどもであるらしい。
そういえば、わたしはフレンよりもずっとしゃべっていないどころか、いま、はじめて口を開いた、と思い至る。
「腹でも空いたか」
「へいき」
「喉が渇いたか。小便か?」
「ちがうぅ……」
「揺れで気分でも悪くなったか?」
「らいじょうぶ」
こどもである。
どう聞いても、こどもである。こどもあつかいしないでよ、と言わんばかりの声色は、まごう方なきこどもだ。わたしの思考はこれほどにこどもらしくないのに、口から出る言葉は、身体に引きずられたように、きちんとこどもだ。
おかしい。
本当に言いたかった言葉は、『私は大丈夫です、お気遣いありがとうございます』なのだ。『平気!』『大丈夫!』では、前半部分しか伝わらない。フレンの気遣いへの感謝がどこにもないではないか。
「そうか。お前は我慢強い子だな。……あと3刻足らずで着く予定だ。着いたら飯にしよう。眠っていても構わんぞ」
「へいき! ……わしゃわしゃだめえ!」
偉い偉いとぐしゃぐしゃ頭をかき回されて、止めて下さいと伝えたかったのに言葉にならなかった。頬を膨らませたわたしの口から飛び出すのは、舌っ足らずな『だめえ!』である。
どうも、難しい言葉は口から出ないように、プロテクトされているようだ。
……いったい、何のために?
……わたしは一体、何ものなのだろう?
1話が短いお話を、息抜きっぽく、ひらめいた時に。
連載形式を取っていますが、オムニバスというか、ストーリーらしいストーリーのないような、ほのぼののんびりしたお話になる予定です。
ラブは生まれるかもしれないけど、ミステリとか冒険とかそういう気配は、ナイ。