花
花が咲いていた。一輪だけ。彼の目の前に咲いていた。その花は彼が今までに見たことの無いものだった。花の姿を挙げるならばそれはありきたりの一言で足りるようなものだった。花びらの形は子供の絵で描かれているような、円錐の側面を開いたのと似ている形だ。真ん中には黄色い雌しべと雄しべがある。茎は箸のように細い濃い緑色の茎で葉は先端が丸くなっている黄緑色の葉だった。そんな、ありきたりな花だった。
彼はこの花のどこをどう見て、見たことも無いなどと思ったのかが彼自身でもわからなかった。正直、知り合いのとこの娘さんが描いて彼に渡してくれた絵によく出てきていた形の花だ。花の色がおかしいのだろうか。、、、いや、そんなことは無い。その花の色は道端でよく見かける名も知らぬ、雑草ともいえる花のように一分と同じ色を保たず忙しなく変化し続けていた。黄色みがかった赤からクレヨンにあったような青、雪のように真っ白な色。刻々と変化していく色のどの色も彼の心を惹いた。どのくらいの時間彼はその花を眺めていたかは彼自身にもわからない。ただ、ひとつ言えることは彼はその名も知らない花からひと時も目を離さなかったということだ。風が吹かないその場所でその花は花びらの色以外の何にも変化しなかった。それなのに、彼は惹かれた。
長い間その花を見続けるうちに彼は、その花が一秒たりとも同じ表情を見せないということを知ったのだ。たとえば、青の色が少し見て取れる黒の時に、彼はその花が何かの失敗を起こしてしまい未来への不透明感、自分自身への失望、後悔といった感情を読み取った。そして、その色が徐々に白の絵の具に筆先にほんの少し付けただけの青の絵の具を混ぜただけのときにできるような色に変わったときは失敗から立ち直ってもなお心の端っこに引っかかる後悔や無念を感じ取った。
あぁ、なんて素敵な花だろう。彼はそう思った。その花に触れてみたいと感じた。手を伸ばしていく。そして、あと数センチで一枚の白が強く出た青色の花びらに触れられるというところで、彼は伸ばしていた手を止めた。勇気が出なかったのだ。自分なんかがこの美しい花に触れてもいいのだろうか。身の程知らずと思われてしまうのではないか。と考えたのだ。
ほかの者の目から見ればその花は多年草で生息地を選ばないもので特に貴重でもないと感じられるような花だった。しかし、彼にとっては違った。その花を長く見てきた彼にとってはその花はとても美しいものに思えたのだ。周りと同じように見えるからどうせ中身も周りと同じようなものだろうとしか思っていない周りの人間とは違った。彼もこの花のかわりはどこにでもあるものだとは知っていた。だが、それは同じ種類の花がたくさんあるのであって今目の前に咲いているこの花は世界中のどこを探してもここにしか咲いていないということも知っていたのだ。
ふと気づくと、その花の隣に芽が出ていた。その芽はどんどんと成長していき、いまだに色を変えない花に寄り添うようにして成長していく。彼は慌てた。何とかして花の成長を止めようと思案した。しかし、彼はそのどれをも実行することはできなかった。
ついに、二本目の花が咲いた。その花は控えめだがとても優しい橙色をしていた。その花はまだ色を変えることの無い花に寄り添うようにして咲いた。すると、いままで、白が強く出た青色で止まっていた花びらの色が不意に変化した。真っ赤な色だった。注意喚起のポスターに出てくるエクスクラメーションマークで使われていそうな真っ赤な色だった。その色に次第に白が混ざってきた。ついには優しい、とても優しい桃色へとなった。
彼はその花同士が寄り添いながらに再び様々な色に変化するところを眺めていた。その色の中にはときに冷めた色もあった。しかし、それを凌ぐように暖かい色もたくさんあった。彼は立ち上がって二本の花に背を向けて、歩き出した。
去り際、彼は花にも聞こえないような声量で「さようなら」とだけ伝えた。両目から流れ、頬に伝わるその涙を見られないようにしながら、彼は伝わることは無いだろうと理解しながらそう言った。彼の心はしばらく消えることの無いであろう後悔の群青色で塗りつぶされていた。