18.静寂の朝、僕らは離別する。
「……ス、セス!」
「……ん……」
揺さぶられてる……。だぁれ? カリンや他のメイドさんなら、こんな起こし方は絶対にしてこない……。
「起きてくれ、セス」
この声は、お兄様?
「どうかされたんですか、お兄様……。まだ六時ではありませんわよ……?」
「それは分かってる。だが、その……」
何か、言いたいことがあるのかな。昨日の夕食パーティーの後、カリンたちとカードゲームをやったりして疲れてるから、起床時間ギリギリまで寝ていたいんだけど。まあ、仕方ないや、起きよう。
僕はむっくりと起き上がる。寝ぼけ眼を擦りながら、お兄様の真剣な薄氷色の瞳を見る。
「……その、なんだ。昨日は言えなかったからな。神官の勤め、立派に果たしてほしい」
昨日、僕が神殿に入るのは嫌だ、って言ってたクセに。ツンデレですか?
だけど、嘘を着いてないってのは良く分かる。だからこれだけ返して置いた。
「……努力、しますわ」
「そうか」
そう言うと、しゃがんでいたお兄様が立ち上がった。お父様譲りであるという、スミレ色のショートヘアーが揺れる。
「……絶対、僕も宮廷入りするからな」
「そう、ですか」
「ああ、必ずだ」
そうだね、お兄様。お兄様が宮廷入りすれば、宮廷文官として勤めていたお父様がいなくなって、本当は不安定な立場のジェラード家は安泰。シスコンが治って良くできたお嫁さんが来れば完璧、だよね。僕も宮廷神官として頑張るよ、流石にもう、腹は括れてる。あ、これから襲い来るだろうボス化フラグは全力で叩き折るから、絶対。
※※
六時の鐘が鳴っている。大きな窓に切り取られた春先の空は、まだ濃い群青色に染まっていた。少し、早く起きてしまった。
白銀色のおかっぱ頭に、紅の瞳の少年――フェルは大きく伸びをすると、天蓋付きの巨大なベッドからのんびり降りる。本棚から読みかけの本を一冊取り出すと、椅子に座り、ランプを点けて読み出した。勇者とその仲間たちの冒険活劇。今は人食い魔女が暮らしているかもしれない沼地を抜けようと奮闘してる場面だ。
冒険小説としてはありがちな場面ではあるが、精緻な描写のおかげか、緊張感に満ち溢れているのがありありと伝わってきて面白い。次々とページをめくりたくなる。
「……ます、フェリクス様。よろしいでしょうか」
扉の向こうから聞こえた女の声に、フェルは現実へ引き戻される。
「構わない。入れ」
「失礼します」
音一つ立てずに入室してきたのは、自分「たち」の護衛官であり、また専属のメイドでもある女、クリスティーン・シエラ・ハイアットだった。いつもの純白のプレートメイルではなく、滑らかなシルク地の黒いエプロンドレスに身を包んだ彼女は、やはり足音を一切立てずにフェルの下へ歩み寄る。
「どうした? こんな時間から、僕に用事か何かあるのか」
「はい。アーノルド様の病状が芳しくありませんので、本日も公務はフェリクス様に一任したいと……」
「分かった」
いつものことだ。とっくの昔に慣れた。
双子の弟、アーノルドは体が弱い。視察に行くと、よく何かしらの病気を拾って帰る。今回のは、長い。どこかの地域の風土病らしい。早く治れば良いのに。
「今日の公務は?」
「午前中は執務室で書類の処理。午後一時、アストライア王国の第一王女と会談。午後四時には神殿の視察です」
「アストライアの……リーゼロッテ姫か。何でまた」
「婚姻の話でしょう。現状では候補に留まっておりますが」
「ふうん……」
あのお転婆姫、そういえばアーノルドによく纏わり付いていたな。僕と入れ替わってる時も全く気付かずに。そう思いながら、彼は北西大陸の支配国の現状を脳内でさらい返す。大陸一つを統一して、まだほんの二、三年しか経っていない彼の国は今、支配を確固たるものにするために強力な後ろ盾を必要としていたはずだ。そもそも、アストライアが小国だった頃からヘーメレーは繋がりを持っていた。それを考えれば、婚姻によってその結び付きをより強固なものにしようとするのは良く分かる。
ただ、そういったことを決めるのは自分ではない。アーノルドと、その周りにいる文官たちだ。
(僕は、代わりにいるだけ)
病弱なアーノルドは、中々公務に出られない。少しなら良い。けれど、あまりにもそれが多くなると周辺国との折り合いが悪くなる。だから、自分が。
「クリス。少し待っていてくれないか、アーニーに会いに行きたいんだ」
「かしこまりました、フェリクス様。お早くお願いします」
「分かっている」
簡素な紫のローブを纏った彼は弟の下へ向かう。狭い螺旋階段を下りながら、彼はふと、一週間前の出来事を思い返す。
(セス……とか言ってたか)
何も聞かずに薬湯を作ってくれた、あの少女。拝命式の時、自分の顔を見て、随分と驚いていた。まあ、無理もないだろう。そもそも、自分どころかアーノルドの顔も知らない国民は多いのだ。普段から皇族の紋章が組み込まれた服を着ているわけでもない。
何となく、面白かった。今、彼女はどう思っているのだろう。直接会って聞いてみたいような気もする。数少ない、「自分」を知っている同世代の女の子。
「……宮廷神官、か」
宮廷内にありながら、何処となく隔離された雰囲気のあの神殿の中で、これから彼女は生きていく。あそこは「皇帝」の領域だ。もしかしたら、そう遠くない内に会えるかもしれない。
いや、会わなくてはいけない。彼女と一緒にやって来た、エルドレッドの長女にも。また。
「アイツに、取り込まれる前に」
呟く。螺旋階段を下り切って、目の前に現れた木製の扉を叩く。
「……元気になってれば、良いな」
頭を切り替えるために、わざわざそんなことを口に出して。それから、彼は扉を、大きく開け払った。




