17.お別れは盛大に祝われるものらしい。
「いよいよ明日ですね、セス様」
「……そうね、カリン」
僕は力なく返す。広げた日記帳の新しいページは真っ白なまま。書くことがない……。
拝命の儀式から六日過ぎた。明日から、僕とソフィアさんは宮廷内の大神殿で日々を過ごすことになる。生まれ故郷(<僕>としては、まだその実感はないんだけど……)を離れて、小規模とはいえど集団生活の始まりを迎えて……ああ、日本だと、七歳なら小学生。でも、これから僕は、現代で叶わなかった社会人デビューを果たす。「子供だから」では通用しない世界へ踏み出すんだ。
だからこそ、日記の中には大人の階段を上る前の輝かしい思い出をたくさん残しておきたいんだけど。あっれー、昨日も一昨日も大した内容書いてない気が。三日前は市街地へお買い物に行ったからそこそこ書けたんだけど、どうしよう。師匠は結局捕まえられなかったし。
「明日から、貴女にも会いにくくなるのね」
「そうですねぇ……。ちょっと、寂しいです。私も着いて行きたかったです……」
「仕方ないわ。自分の身の周りは自分で整えるのが、神官の基本ですもの」
そういうことで、僕はカリンを連れてはいけない。彼女自身はお兄様のお側付きになるらしい。上流貴族なら子息には男性使用人を着けるものだけど、うちはそこまでの余裕はない。今までお兄様に着いていた人は別のお屋敷に移る、ということで先日引き払ってしまったし、ちょうど良いかって流れだそうだ。お給金も上がるってことで僕としては良いんじゃないか、って思うけど。……確かに、心細くなりそうだ。ソフィアさんもいなかったらどうなってたことやら。
「……私、絶対定期的に手紙出しますからね! セス様も面倒くさがらずに返してくださいよ」
「分かりましたわ」
怠惰な君がどこまで続けられるのか、はなはだ疑問だけどね。気持ちは凄く嬉しいです。
その後、今日は給仕の手伝いをしないといけないから、と言った彼女を送り出し、僕は再び日記帳に向き合った。でもやっぱり何も浮かばず。旅立ちの前日なんだから、一ページびっしり書き込みたいんだけどなぁ……と思いながら肘持ちを着いた時、午後七時を告げる鐘の音が耳に届いた。夕食の時間だ。そういえば、今日は食堂に近付くのは厳禁、ってお母様に言われてたけど、もう大丈夫なのかな。
「ま、いっか」
朝食と昼食はよくこの部屋で食べてたけど、夕食は絶対に家族一同で食べるというのがこの屋敷の掟。当たり前じゃん、って思うかもしれないけど、中世イギリスの貴族間では、七歳そこらのお子ちゃまの食事と言えば子供部屋でナニー、つまり保母さんと一緒が当たり前。両親と同伴なんてまず有り得ない。そういう細かいことがやけにきっちり反映されているヘーメレー貴族の間でも、その文化が投影されているようだった。ソフィアさんにうちの掟を手紙で伝えたら、大層驚いた文面で返って来たのでそうなんだと思う。
僕は立ち上がると、ランプを消して部屋を出る。いつも通り、静かな廊下を抜け階段ホールへ。いつ見ても劇場かなんかだよなぁ、と思う階段を降りる。そして、食堂への扉を開いて――
パァン! パパパーン!
「!?」
何、何今の!? クラッカー?
「ふふ。ビックリしたみたいね、セス?」
声のした方を見れば、お母様が師匠を彷彿させるドヤ顔で細い煙を吐き出すクラッカーを構えていた。まさか、と思って周囲を見る。お抱えの四人のメイド(当然ながら、カリン含む)にお兄様までもが色違いのそれを持っている。何これ、どういうこと?
「お母様、これは……」
「貴女のためのパーティーに決まってるじゃない。さ、早く座って座って」
パーティー? ああ、お別れ会みたいなものか。高校の寮を出て行くとき以来だなー、そういうの。
何となくくすぐったく重いながら、僕は席に着き、何時にも増して気合いを入れてセットされたらしいテーブルを見る。シミ一つ存在しない真っ白なテーブルクロスに、浅い花瓶に盛られたマーガレット。吊り下がるシャンデリアは丹念に磨かれて輝いている。うおっ、まぶし。
僕が座ったのを見て、お母様とお兄様も着席する。お母様はニコニコと笑っているけど、お兄様は相も変わらずの仏頂面。そんなに嫌か、僕が屋敷を出て行くのが。家族の縁が切れる、ってわけでもないのに。
次々と運び込まれる銀器と前菜の温野菜のサラダを前にして、僕は再び口を開く。
「パーティーだなんて、そんな大層にしていただかなくとも……」
「あらあら、どうして? 大事な娘が屋敷を巣立つのよ、それなら盛大に送り出したいわ。ねぇ、テオ?」
「……僕は納得してませんからね、母上。七歳で神殿に入るのは早すぎます」
「そう言って。本当はセスと離れたくないんでしょう?」
「そ、そんなことはありません! ええ、断じて!」
「どうかしらねぇ~」
もっと言ってやってください、お母様。脱シスコンさせましょう、今の内に。
「全く……。それより、料理が冷めてしまわない内に食べてしまいましょう。セスのために腕を振るってくれた料理人が泣いてしまいますよ」
「あら、そうね。それでは早速、食べましょうか」
残念。こりゃ宮廷に毎日一通は手紙が届くな、僕宛に。何かもう想像できちゃうや。
すっかり慣習となった、エオス教流食前の祈りを捧げる。お母様は赤ワインの、お兄様と僕はアップルジュースの注がれたグラスを掲げる。
「それじゃ。セスの宮廷神官拝命を祝って、乾杯」
「「乾杯」」
大学の追い出しコンパなんかじゃ、僕もお酒だったんだけどなぁ。七歳児だから仕方ない。にしても、搾りたての果物系のジュースは美味しいね。
今日は食事の順番なんて知ったこっちゃねぇらしく、絶え間なく料理が運ばれてくる。ライスプティングにサーモンとクリームのパイ焼き包み、コールドミートのゼリー寄せ、チキンとポテトのシチュー。最初はイギリス風味ってことで意味もなく味がアレなんじゃないか、って思ってたけど、今じゃ慣れたもんだ。そもそも、世間で言われてるほど不味くもなく、むしろほっぺがとろけそうなぐらい美味だったし。今日も最高です、ありがとう料理人さん。名前教えてもらったことないけど! 今日で最後かもしれないし、後で聞き出しとこう。願わくば、またもう一度口にしたい。
「ねぇ、お母様」
「なぁに、セス」
「その……やっぱり、ありがとう」
満足な気持ちとは裏腹に何となく恥ずかしくって、ぼそぼそ声になってしまった。うう、ミスった。
「あらあら……。当たり前じゃない、って言いたいけど……どうしまして、っていうのが正しいかしら?」
そう言いながら、お母様はその栗色の瞳に優しくて柔らかい光を湛えながら、僕の頭を撫でてくれた。何だか、不思議な気分。世の中の両親に恵まれた子たちって、こういうのを当たり前だと思ってるのかな、それとも今の僕みたいに、くすぐったいような甘ったるいような、そんな気持ちになるのかな。とにかく、日記には書き留めておこう。必ず。




