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【2】

「──それで昨夜はもう、……澄麗?」


 始業前の朝の教室にだんだんと近づいてくる気配に、上履きの立てる軽い足音と話し声。


 前方のドアを入ろうとしたところで、唐突に立ち止まった澄麗に春菜が不思議そうに首を傾げているのはどうにか見て取れた。


「春菜! 先生呼びに行こう!」

「は? 何言っ──!」


 危険な何か(・・)を持った右手をだらりと垂らしたまま、教卓と最前列の机の間に突っ立っている間中講師。


 窓から差し込む朝日に、血に汚れた刃が鈍く光る。


 その足元には、身体を丸めて腹を抱込むようにした真佐子が横たわっていた。


「ね、ねえ澄麗。ちょっとあれって」

「間中、なんかナイフみたいなの持ったままだから、あたしたちだけじゃない方がいい。職員室行って先生読んで来よう!」

 小声で囁くように告げる澄麗の表情は強張っていた。


 同じく引き攣ったような顔で黙ってがくがくと頷く春菜と、二人は揃って真佐子の視界から姿を消した。


「君が悪いんだ。僕がせっかく君のことをいろいろ考えてやってるのに、全然わかってないんだから……。名前! 僕は『琉偉』って名のせいで散々嫌な思いして来た! 君もそうなんだろ? 『真佐子』なんて『古臭い』名前で呼ばれたくなかった筈だ」

 掠れたような強い調子の声で、すぐ傍に立つ男の言葉が降ってくる。


 真佐子の何が悪かったのか、今この瞬間もわからない。いったい何故、こんな目に遭わされなければならなかった?


 そもそも真佐子は己の名に悪感情など向けたことはない。「『まこと・真実』を『助ける・支える』」子という意味だ、と前向きな言葉のみ聞かされて育ったからだ。

 母の名が「真千子(まちこ)」で、同じ漢字を使いたくてちなんだのもあるらしい。


 しかし、反論しようにも声が出なかった。

 それ以前に、虚ろでいて狂気を秘めたような間中の目が気味悪くて恐怖を覚えたせいで、より身体が硬直する思いだったのもある。


「高橋さん、間違いないのね!?」

「はい、絶対に! 春菜も見たよね?」

「うん。あ、はい! あたしも確かに見ました」

 いくつもの足音と声が、静かな校舎に響く。

 あれはおそらく生物の根来教諭だ。


「伊藤先生、来てもらってなんだけどくれぐれも無茶はしないでよ」

「わかってます!」

 抑えた若い男性の声。


 伊藤。……習ったことはないの詳しくはないが、二年生の体育担当で体格のいい、しかし優しげな男性教諭のことだろう。

 登下校の際など、誰にでも大きな声で挨拶して来るので真佐子も「名を聞けば思い当たる」程度に見知ってはいる。

 


「……うぅ」

 不意に身体を起こそうとして痛みが走り、真佐子は唸った。


「真佐子!」

「だめよ、高橋さん。危ない!」

 根来が、こちらに向かって駆け出そうとした澄麗を止めるのが聞こえる。


 あれ(・・)以来「静宮さん」としか呼ばない彼女が、取り乱した勢いのまま真佐子の名を口にしていた。


「だって真佐子生きてる! 早く助けなきゃ──」

 涙混じりの澄麗の声になんとか答えようと、身体を起こそうとするがままならなかった。


「真佐子なんて呼ぶな! 静宮は嫌がってるんだ! 僕に相談して来たんだ!」

「ち、が……」

 話そうとしても力が入らず、上手く声にならない。


「真佐子!」

「だから名前で呼ぶなって言ってるだろ!」

 教室の入り口から覗く数人に意識が逸れたからか、間中の手から凶器(・・)は滑り落ちていた。


 あのナイフをなんとか遠くへ、と思うがどうしても動けない。


 しかし根来と伊藤もほぼ同時に気づいたらしく、一瞬で教室に飛び込んで来た体育教諭が間中を押さえつけた。

 同時に床のナイフも手の届かないエリアまで蹴り飛ばされる。


「伊藤先生、そのまま。力入れすぎて怪我させないように!」

「先生、真佐子が! 早く救急車を」

 相変わらず半泣きの澄麗に、根来が頷く。


「高橋さん、スマートフォン持ってるわよね? すぐ救急車呼んで!」

 澄麗に指示したかと思うと、彼女は春菜に向き直った。


「寺岡さん、校長先生呼んで来てくれる? 『根来先生がすぐ来てって言ってる』って」

「あ、は、はい!」

 焦ったように返し、春菜が身を翻して廊下を走り去ったようだ。


「伊藤先生、警察呼ぶから! もう少しだけお願い!」

「大丈夫です」

 大柄で筋肉質の伊藤教諭に拘束された間中は、藻掻いてはいるが一回りは大きい彼相手では抵抗にすらなっていないように見えた。


「根来先生、いったい何があったんですか!?」

「見ての通りです。直ぐに警察と救急車が──」

 駆けつけた校長の声にサイレンの音が重なり 、場の雰囲気が安堵とこの先への不穏に塗り替えられた気がした。


 「根来先生も仰ってましたけど、間中先生って前から変でしたよね……?」

 校長とともにやって来た国語の奥野(おくの) 小百合(さゆり)が呟く。


「……変、というより、焦ってたんじゃないかな」

「焦って、って何に?」

 根来がゆっくりと首を振りながら返すのに、奥野は訝そうに問うた。


「新卒で、ここが初めての職場でしょ? しかも正規の先生じゃないし」

 顔を顰める根来に、奥野はまだ理解が追いつかないようだ。


 「先生って肩書きがどうしても欲しくて、でも『先生としての自分の力量』をきちんと測れてなかったんじゃないかなって」

「だから、生徒に変に執着したってことですか?」

 「『先生』らしく生徒の理解者になりたかったんでしょうね。──生徒は『先生』の威厳を示すための道具なんかじゃないのに」

 怒りより疲れと呆れが勝る根来の声。


「……そんなの、最初から『教師には向いてなかった』ってことじゃないですか?」

 僅かに憤りを見せる奥野にも、根来の言葉はなかった。


 それどころではなくなったからだ。


「出血もそれほどじゃない。場所が良かったかな」

 先に到着したのは救急隊員だった。

 隊長らしき年長の隊員が、真佐子の傷の具合を身体には触れずにざっと見聞している。


「搬送します! どなたか付き添っていただけますか?」

「はい、私が。根来と申します。この子の学年の主任をしています」

「では根来先生。よろしくお願いします」

 手早く担架に乗せられて教室から廊下へと運び出される真佐子に、根来が救急車に同乗してくれるらしかった。


 入れ替わるようにやってきた警官たちに、「僕は何も悪くない! 静宮が──!」と間中が悲鳴のような声を上げるのが聞こえる。


「根来先生」

「校長先生、まず静宮さんの親御さんに連絡を。担任の先生は多分まだ来られてないでしょうから。病院が決まったら私からもすぐにお知らせしますので」

「根来先生〜、真佐子をよろしくね!」

 校長とやり取りしながらも担架の横に付いて歩いてくれる根来に、澄麗と春菜が懇願しているのが耳に入って来た。


 真佐子の大切な、友達。



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