【1】
「真佐子、これ」
「うん」
すぐ後ろの席の高橋 澄麗が、声掛けと同時に紙の束を渡して来る。
歴史担当の講師である間中が、いつもプリントを集める際に取る方法だ。
配るときは一番前の席から後ろへ、回収時は逆に最後部席から前へ。
「高橋。静宮は『名前で呼ばれたくないから困る』って僕に相談して来たんだ。だから馴れ馴れしくするのはやめなさい」
「え!?」
間中の言葉に真佐子が思わず声を漏らすと、澄麗が少しだけ不快感の滲む表情で「まさ、静宮さん、これお願い」と言い直したあと「嫌だなんて知らなかった。ごめんね」と顔の前に片手を立てて謝って来る。
「あ、あの私……」
「静宮。早く回しなさい」
大学を卒業したばかりで、この四月から非常勤講師として教壇に立っている彼。教育大学で「中学・高校の先生になる」ことを目指して来たのだとか。
熱意が空回りするきらいはあったが、それも若さと経験の浅さ故。「熱心な先生だ」という印象は生徒も広く持っていたのではないか。
「みんな、静宮の気持ちを尊重しよう」
教室を見渡しながら、間中は満足そうに言った。
拍手が起こるわけでもない。「そうなんだ」「……へえ」という数人の呟きが合わさった微かなざわめきの後、教室は元通り静寂に戻るだけだった。
それでも、間中は何かを成し遂げたような顔をしている。
……なんで。
真佐子は胸の奥がざわつくのを感じていが、間中に急かされて結局クラスメイトに何も告げられないまま授業に戻った。
「先生はいつも君たちのことを気に掛けてどうするのが一番いいか考えてるんだ」
またしても唐突な間中の演説が始まる。
「先生って生徒の相談に乗るのも大事な仕事だし、大学受験含めた進路、……将来のことでも力になるし、『生徒の味方』でいなきゃならないと僕は思ってるんだよ」
「何の話?」
「突然そんな事言われてもねぇ」
教室のそこここで溢れる呟きにも、間中は興味さえ向けなかった。
「静宮、お前は先生に話しやすいだろう?」
急に名前を出され、俯いていた真佐子は驚いて反射的に顔を上げる。
間中は何かを期待するような目でこちらを見ていた。
──いったい何なの? どうして私が!?
真佐子は間中の目から逃れるようにノートに視線を落として、内心首を傾げる。
「そうか、先生に悩みを打ち明けてくれるのは嬉しいよ」
意外さか驚きか、周囲の空気が少し動いた気がした。
真佐子は、喉にひっかかった言葉を飲み込む。
この場で発言するのは、性格的にも難しかった。
◇ ◇ ◇
「じゃあ今回は三人か四人のグループで。メンバーは……」
生物の授業で、担当の女性教諭はグループ単位の研究発表スタイルを好んでいる。
「せんせー、自由に決めさせて〜」
「お願いしまーす!」
「わかりました。ただし! 少しでも揉めたら全部リセットで先生が決めるからそのつもりで」
教室のあちこちから上がる声に、根来 幸子教諭は承諾しつつも釘を差して来た。
学年主任も努めている彼女は、流石にベテランだけあって生徒から見ても余裕と落ち着きがある。
どうしよう、と居心地の悪い思いでいた真佐子は、後ろから軽く肩を叩かれた。
「静宮さん、一緒にやらない?」
「え、──いいの?」
澄麗の明るい誘いに戸惑う真佐子に、彼女はふわっと笑う。
「いいの、って。あたしから呼んでんだから当たり前でしょー。あたしと春菜と静宮さんでちょうど三人。こういうの、席近いほうがやりやすいじゃん?」
澄麗のすぐ後ろに座っている寺岡 春菜は彼女と仲が良い。
というより、澄麗は明るくフレンドリーだがきっぱりした性格で、クラスでも常に中心にいた。
所謂公式の「クラス長」ではなく、兼ねる場合はあったとしても私的な「クラスリーダー」だ。
何もかもが平凡で引っ込み思案の真佐子とは正反対だと感じる。
「高橋さん、確か静宮さんのことも名前で読んでなかった?」
根来教諭の疑問に、澄麗が不満そうに返した。
「そうですよ〜。あたし、『友達』は下の名前で呼ぶって決めてるんで! でも間中先生に禁止されたんです。まあでもあたしも、静宮さんが嫌だったなんて気づかなかったから……」
「──そう」
何やら難しい顔の根来教諭に、ここで己が発言すべきだとわかっていても真佐子はその勇気がどうしても出なかった。
「間中先生ってちょっと変じゃない? 静宮さんを贔屓してるとかそんなんじゃなくて……、うまく言えないけど」
「なんてーか必死で『先生』やりたがってる感じっての〜? あたしはああいう人好きじゃないな」
授業が終わった休み時間。
つい先ほど間中の名が出たからだろう春菜の言葉に、澄麗が平然と返す。
初めての授業、つまり初対面で、間中は黒板に縦に【間中 琉偉】と無言で書いた。
「すごい名前だよね……」
「り、リューイ? ハーフじゃないよね、あの顔」
「なんかあ、ママに聞いたんだけど、今の二十代の年代が一番『キラキラネーム』多いんじゃないかって。今のわたしたちには意外と少ないじゃん? キラキラとかギラギラとか」
「あ、たしかにそうかも〜」
クラス中に広がる、一人ひとりの囁きが合わさったざわめきに微かに眉を寄せた講師は、漢字の横に【まなか るい】とふりがなを振る。
「リューイじゃなくてルイ。これから一年間、このクラスの歴史総合を受け持ちます。よろしく」
「……はーい」
「……よろしくお願いしますぅ」
躊躇いがちにいくつかの声が飛ぶ。
間中はそのまま何事もなかったかのように最初の授業を開始した。
真佐子の名前の件も、きっと澄麗には悪気などない。それもきちんと伝わっている。
「あたし、変な名前でしょ?」
「そ、そんなこと──」
いつか澄麗が話していたのが浮かんだ。
「いいって、気ぃ遣わなくても。派手でキラキラ〜ね。自分でもよーくわかってるからさ。でもあたしはこの名前気に入ってるんだ。親があたしが生まれたのが嬉しくて、一生懸命考えてつけてくれたから。あと『高橋』が多くて被りすぎるからってのもあるかな。『すみれ』の読みはともかく、『澄麗』って感じ当てるのはまずないでしょ」
『澄み切って麗しい』という名がよく似合う華やかな美少女。
その口から出るには似つかわしくないと感じる、深く真摯な台詞だったからこそ印象に残っているのだ。
「みんな、……もしかしたら例外はあるかもしれないけど同じだと思うんだよね。『誕生を喜んで名付ける』って。だからあたし、好きな友達は名前で呼びたいの」
そう続けた際の綺麗な笑顔とともに。
中高一貫教育の女子校であるこのアンジェラ女学園は、高等部編入は例外的で各クラスに一人か二人のみ。
八クラスで十人しか募集がないのだ。
中学までは公立だった。
ほとんどの生徒が中等部からの持ち上がりで、友人関係も出来上がっているだろう中にいきなり入ることについては受験前にも散々考えた。
しかし小中学校では虐めこそなかったものの、真佐子には友人と呼べる友人は一人もできなかった。
そのため孤立したらその時だ、と諦め半分で思い切って受験したのだ。
最初から「もともと関係がある子」ばかりの知らない大勢の中なら、「一人でも当然」と自分を納得させられる。
小学校からずっと同じ子たちも多い中学で「一人」だったのだから、それよりはずっといい、と。
しかしいざ入学してみれば、澄麗を筆頭にみなごく普通の「クラスメイトの一員」として接してくれる。
現実にガイダンスで知り合った他クラスの編入生の一人は、なかなか馴染めないようで冗談交じりに「もう学校やめたいと思うことあるよ」と零していた。
つまり真佐子は本当に恵まれた状況にいるということなのだ。そこには、おそらくクラスリーダー格の澄麗の言動の影響が大きいのだろうこともわかっている。
「私立のお嬢様学校だし、表立った虐めなんかは問題になるからないかもしれないけど、『出来上がった関係』の中に一人で入るのって大変よ?」
母はそう心配していたが、最終的には娘の希望を尊重してくれた。
「出来上がった関係の中で一人」は、小中学校を通じて嫌と言うほど味わって来tいる。
だからこそ、通学には少し遠くて乗り換えも多いことから、出身中学校からは他に誰も志望していないという情報を信じて思い切って受けることにした。
そして幼い頃から、無意識のうちにクリスチャンスクールであるアンジェラ女学園の校舎のクラシックな雰囲気や、ひと目でわかる他の学校とは変わった「今風ではない」制服に憧れていたのかもしれない。
単なる教科担当の非常勤講師が何かと真佐子を気に掛けてくれようとするのも、「独りぼっち」になる可能性が高い自分を心配してのことだろうとも感じていた。
授業外でもよく声を掛けて来て、「心配ごとはないか」と訊き出そうとする間中の様子には、正直担任でもない一講師が何故? と不審を覚える部分もあった。
けれどもおそらくは「新しい、完成した環境に一人飛び込む」不安さを分かち合う相手として真佐子を選んだのではないか、という気がする。
もしかしたら間中自身が、職員室に居場所がないと感じているのかも、とも。
あくまでもちらりと耳にした噂話でしかないものの、大学卒業時に教員採用試験に受からなかった上に講師の口にさえありつけなかったという。
「教員不足」が声高に叫ばれるその中でさえ、講師としてもお呼びがかからなかったということだ。
講師として採用が決まっていた者が急遽体調不良を理由に辞退してアンジェラ女学園は大変困っていたらしい。
それはそうだろう。新学年は目の前なのに、必要な教員を確保できないのがどれだけ深刻かは真佐子にさえ理解できる。
そういうわけで、間中は採用試験浪人になるところを、非常勤講師として年度終わり間際にようようこの学校に滑り込んだらしい。
すべてが事実だった場合だが、何故こんな詳細な事情が漏れるのかもおそらく間中が教員間や保護者に歓迎されていない証左の気がした。
己の力が足りないことを認めたくなくて、どうにか「先生らしい」ことをするのに、真佐子はうってつけの題材だったのかもしれない。
それでも、真意はともかく気遣ってくれている相手に、そんな風に考えてしまう自分の捻くれ具合にも正直いい気はしなかった。
せっかくこんな真佐子と仲良くしてくれようとする子たちを相手に、このままではいたくない。
しかし、いざとなると必要な声を上げることすらできない臆病な自分に嫌気が差す。
──このままじゃ、ここでも一人になっちゃう。だからなんとか勇気出さないと。




