病弱な妹ですが、兄の幸せを願っていたら公爵令嬢が現れました
婚約者にもしも本物の病弱な妹がいたら……というのを、妹目線で書いてみました。
「――実は、婚約を解消されたんだ」
リリアーナにそう告げた兄のレオナードの声は、驚くほど穏やかだった。
まるで今日の天気の話でもするかのように。
リリアーナは、その言葉をすぐには理解できなかった。
理解するより先に、胸の奥がきゅっと縮み、息が浅くなる。
「ごめん急に。でも驚かないでほしい。……少し前から、そういう話は出ていたんだ」
レオナードはそう言って、リリアーナを見た。
その表情には、怒りも恨みも浮かんでいない。
リリアーナは、悟ってしまった。
手にしていた白磁のカップが、かすかに音を立てる。指先から力が抜け、落としそうになるのを、慌てて両手で支えた。
――やっぱり。
喉の奥がひりつく。
心臓が、いつもより強く、苦しそうに脈打っていた。
「……ごめんなさい」
気づけば、リリアーナはそう口にしていた。
「リリアーナ?」
「私の、せいですよね……」
声は震えていた。
長い間胸の奥に沈めてきた思いが、静かに溢れ出す。
「私が、体が弱いから。私が、いつも倒れるから……」
ウィズダム伯爵家の末娘として生まれたリリアーナは、幼い頃から病弱だった。
少し熱を出しただけで医師が呼ばれ、風邪を引けば命の危険を告げられる。
両親は常に気を配ってくれた。
父は忙しい公務の合間を縫って顔を見せ、母は夜通し枕元に付き添った。
家族は皆、優しかった。
それでも、リリアーナは知っていた。
自分がこの家の中で、どれほど多くの心配と制約を生んできたかを。
けれどレオナードは、リリアーナの言葉をはっきりと否定した。
「それは違う。君のせいじゃない」
「でも……」
「話し合いの末だよ。お互いに合わなかったんだ。仕方がない」
レオナードはそう付け加えた。
リリアーナを責める言葉は、どこにもなかった。それが、かえってリリアーナの胸を締めつける。
レオナードの声は、昔から変わらない。
幼い頃、発作で苦しむたびに聞いてきた、あの優しい声音だった。
「むしろ婚約者を大事にできなかったのは、俺だ。だから俺自身に責任があるんだよ」
レオナードはわずかに視線を逸らす。
リリアーナの胸が、ちくりと痛む。
感情をぶつけることもなく、レオナードはただ静かに自分を責めている。
レオナードは、リリアーナの容態が急変した夜には必ずそばにいた。
夜を徹して看病し、疲れた顔のまま翌朝の学園へ向かう背中を、何度も見送った。
リリアーナの看病のために、婚約者だったセレナ・ローディアとのデートを数回キャンセルしたことがあるのも知っている。
セレナに頭を下げる兄の姿を、偶然目にしてしまったこともある。
――レオナードは、婚約者にできる限りのことをしていた。
それを、リリアーナは誰よりも知っている。
セレナが欲しがって用意された、高価な宝石やドレスを贈る。彼女の望みは、可能な限り叶えられていた。
それでも――足りなかったのだ。
その事実が、リリアーナの胸に重くのしかかる。
レオナードは何も間違っていない。
誰かを蔑ろにしたわけでも、怠ったわけでもない。
ただ――病弱なリリアーナがここにいるという事実。
それだけで、兄の人生の選択肢は、知らず知らずのうちに狭められていたのだ。
もし、自分が丈夫な体で生まれていたなら。
もし、少しでも兄の手を煩わせずにいられたなら。
そんな『もしも』を考えるたび、胸の奥がきりきりと痛んだ。
レオナードが部屋を去った後、リリアーナはしばらく動けずにいた。
胸の鼓動が落ち着かず、浅い呼吸を何度も繰り返す。
――このままでは、いけない。
リリアーナは、震える指で机の引き出しを開けた。
羽ペンを取り、便箋を前に置く。
宛名を書くまでに、随分と時間がかかった。
セレナの名前を記すだけで、胸が詰まる。
それでも、書いた。
兄が悪いわけではないこと。
自分のせいで迷惑をかけてきたこと。
もし許されるなら、どうかもう一度考え直してほしいこと。
謝罪と、後悔と、祈りのような言葉を、拙い文字で綴った。
手紙一つで何かが変わるとは、思っていなかった。
それでも、何もしないままではいられなかったのだ。
読んでもらえたかどうかも分からない。
ただ、返事はなく、セレナとレオナードの婚約が再び結ばれることもなかった。
数日後の夜、リリアーナは熱を出した。
いつものように、胸が苦しく、呼吸が浅い。命の火が小さく揺れているのを感じる。
医師と家族の声が、遠くで聞こえる。
……やっぱり。
意識が薄れていく中で、ある考えが浮かぶ。
自分がいる限り、レオナードはきっと自由になれない。
ぼんやりと視線を向けると、窓の外では、伯爵家の庭が春の光に包まれていた。
穏やかで、何も変わらない世界。
けれど、リリアーナの胸の内だけが、静かに、確かに崩れていっていた。
◆
リリアーナの体調がようやく落ち着きを見せたのは、一週間ほど経ってからだった。
高熱と発作は治まり、医師からも、
「ひとまず峠は越えました」
と告げられる。
ウィズダム伯爵家の空気はようやく緩んだ。
「無理はしないように」
父はいつもより穏やかな声でそう言い、母はほっとしたように、そっとリリアーナの手を包んだ。
レオナードも、心から安堵した表情を浮かべていた。
――家族は、皆優しい。
それでも、リリアーナの心は重いままだった。
胸の奥に沈んだままのものは、熱が下がったからといって、簡単に消えてくれるものではない。
重い気持ちを抱えたまま迎えた午後。
部屋で薬を飲み終え、伯爵家の廊下を歩いていたリリアーナは、曲がり角の手前でひそひそとした声を耳にした。
「……本当に、ひどい話よ」
「ええ。外では、レオナード様がリリアーナ様ばかりを優先する最低な男みたいに言われているそうよ」
思わずリリアーナの足が止まる。
「そんな……! レオナード様があんまりよ。あれほどセレナ様を大切にしていらしたのに」
「そうよ。リリアーナ様の容態が落ち着いている日は、必ずセレナ様を優先していらしたじゃない」
声には、はっきりとした憤りが滲んでいた。
「それなのに、『罪滅ぼしをしたいなら』って……」
「そう! 何度も高価な宝石やドレスをねだっていらして」
「しかもそれを、当然みたいな顔で」
彼女たちの声が、少し荒くなる。
「挙句の果てに、外でそんな噂を本人が嬉々として吹聴しているなんて……」
「レオナード様が悪者になるように、わざと話しているとしか思えないわ」
その瞬間、考えるより足が動いていた、
廊下の角を曲がると、二人の侍女がいた。
突然現れたリリアーナの姿に、二人は目を見開く。
「お、お嬢様……!」
「申し訳ありません、もしかして今のお話が聞こえて……」
リリアーナはそれには答えず、ゆっくりと二人の顔を見上げる。
「……お兄様は、そんなふうに皆から言われているのですか」
侍女たちは顔を見合わせ、悔しそうに唇を噛んだ。その沈黙こそが答えだった。
リリアーナの胸が、ずきりと痛む。
怒りは、湧いてこなかった。
代わりに込み上げてきたのは、悔しさと、どうしようもない悲しさだった。
レオナードは、悪くない。
誰よりも、誠実だった。
それなのに――自分の存在を理由に、レオナードが貶められている。
リリアーナは、俯き、ぽつりと呟いた。
「……私の、せいで」
「お嬢様?」
「私のせいで、お兄様は婚約を……」
その言葉に、侍女の一人がはっと息を呑んだ。
「ち、違います!」
「それは決して、お嬢様のせいでは――!」
強く否定しかけて、侍女の一人が言葉を詰まらせた。
「それに……セレナ・ローディア様は、もう別の殿方との婚約が決まりそうだと……」
声が、少しだけ低くなる。
「しかも……あまりにも、タイミングが良すぎまして。社交界では、新しい婚約者候補の方のことをずいぶんと誇らしげに話していらっしゃるそうです。もしかしたら、レオナード様は……その、利用されたのではないかと……」
そこまで言って、はっとしたように口を閉ざす。
――言ってしまった。
そんな表情だった。
けれど、リリアーナには、それで十分だった。
あまりにも出来すぎたタイミング。
そして、レオナードを悪者にする噂。
胸の中で、静かに、すべてが繋がっていく。
――レオナードは、ただ、乗り換えのために悪者にされたのだ。
セレナ自身が悪く言われないように。
自分がもっと健康で、兄に余計な心配をかけずにいられたなら……。
そんな噂を流される理由すら、与えなかったのではないか。
リリアーナは、小さく呟いた。
「……やっぱり私が、もっと丈夫だったら」
「お嬢様……」
侍女は何か言おうとしたが、言葉は続かなかった。
その場に立ち尽くしたまま、リリアーナは、自分の胸を押さえた。
息はできているはずなのに、どこか、空気が薄い気がした。
その後も、噂は止まらなかった。
セレナ・ローディアは、ほどなくして年上の侯爵家当主との婚約を発表した。
資産家として知られる人物で、社交界では良縁と持ち上げられている。
それと歩調を合わせるように、セレナの振る舞いは、ますます露骨になっていった。
レオナードが贈った品々を、「質素すぎる」「趣味が悪い」と笑いものにし、かつてどれほど我慢を強いられていたかを、誇らしげに語って回る。
――それが、妹を優先する甲斐性なしの男、レオナードの真実の姿だったと。
そんな言葉が、尾ひれをつけて広がっていった。
誰かが訂正しようとしても、一度流れた噂はもう止めようがなかった。
事実を知る者ほど、悔しさを噛みしめるしかない。
リリアーナにも、それが分かっていた。
この状況で、レオナードに新たな婚約話など来るはずがない。
誰もが、そう思っていた。
――リリアーナも、レオナード自身も。
だからこそ。
ウィズダム伯爵家にとある家から使者が訪れた時、伯爵家に激震が走ったのは言うまでもない。
宛先はレオナードだった。
「失礼ですが、どちらからの……?」
父が問い、使者は淡々と名を告げる。
「レグナール公爵家よりの、ご縁談にございます」
告げられた名前に、その場にいた全員が息を呑んだ。
――レグナール公爵家。
貴族の中でも名門中の名門。
レグナール公爵家にいる現在未婚の娘は、一人しかいない。
「……相手は?」
誰かが、そう尋ねる。
「ヴィオラ・レグナール公爵令嬢でございます」
ある意味予想通りだった。けれども場に静寂が落ちた。
ヴィオラ・レグナールは、公爵家の長女で、才色兼備で、社交界で欠点を聞いた者はいない。
政治・経済にも通じ、慈善事業にも深く関わる、完璧な淑女である。
確かこの国の王太子の婚約者筆頭とまで呼ばれているはずの女性だ。
なぜそんな令嬢が、レオナードとの婚約を望むのか。
父は一拍置いてから、レオナードを見た。
「……レオナード。何か心当たりはあるのか」
レオナードは、困惑した表情で首を振る。
「……覚えがない」
誤魔化しているわけでもなく、本気で分からないという顔だった。
まるで夢でも見ているような、婚約したい相手の名前を間違えているのではないかと、そう言いたげで。
リリアーナもまた、兄の名が、あまりにも遠い存在と並べて語られていることに現実感がなかった。
それでも話は進んでいく。
公爵家からの正式な打診。
断る理由は、どこにもなかった。
そして――あれよあれよという間に、レオナードとヴィオラの婚約は決まった。
◆
ヴィオラ・レグナール公爵令嬢がウィズダム伯爵家を訪れたのは、婚約が正式に発表されてからほどなくしてのことだった。
その日は朝から、屋敷全体がどこか落ち着かない空気に包まれていた。
使用人達は皆、いつも以上に背筋を伸ばし、言葉を選んで動いている。
無理はない。
これからやってくる相手は、あのレグナール公爵家の令嬢なのだ。
自室でレオナードからその知らせを聞いたリリアーナは、
「ヴィオラ様が……本日こちらへ?」
思わずレオナードに問い返す。
「……ああ、リリアーナに伝えるのが今朝になってしまってすまない」
「いえ、私はここ数日、ずっと寝込んでいましたから」
「ヴィオラからは、体調が戻っていなければ無理に出迎えなくていい、と言われている。部屋で休んでいてくれて構わないって」
その言葉は、ヴィオラの気遣いに満ちていた。
リリアーナは、胸の奥がわずかに温かくなるのを感じる。
「……ですが」
ゆっくりと、リリアーナは息を整える。
「もう、大丈夫です。今朝は熱もありませんし、胸も落ち着いています」
レオナードの顔を、まっすぐに見た。
「だけど本当に体は……」
「平気です。……私はお兄様の婚約者の方を、きちんとお迎えしたいのです」
レオナードは一瞬何か言いかけてから、 小さく息を吐いて微笑んだ。
「……無理はするなよ。少しでも辛くなったら、すぐ部屋に戻るんだ」
「はい」
リリアーナは、静かに頷いた。
リリアーナはこれまで体調の悪い日が続き、一度もヴィオラに会ったことがなかった。
――だからこそ、ちゃんと会いたい。
それが、今の正直な気持ちだった。
それにしてもヴィオラ様は、どんな方なのだろう。
礼儀作法にはあまり自信のないリリアーナの瞳が、不安げに揺れる。
リリアーナの様子を見て、レオナードは少し困ったように、けれどどこか照れたように笑った。
「心配することはない。ヴィオラはすごく、いい人だよ」
「いい人、ですか?」
「うん。優しくて、聡明で……その、俺にはもったいないくらいだ」
そう言いながら、兄は視線を逸らした。
耳のあたりが、わずかに赤い。
――この婚約は、聞かされていた話では、ヴィオラ本人がレオナードと結ばれることを強く望んだ末に、成立したものだったはずだ。
何でも昔、ヴィオラはレオナードに助けられたことがあるらしい。それ以来、ずっとレオナードを慕っていたのだと。
彼女の想いの強さは、どうやら相当なものだったようで、最初に顔合わせをした際から、ヴィオラはレオナードをずいぶんと熱烈に口説いていたらしい。
リリアーナが詳細を聞こうとすると、レオナードは決まって話題を変える。
「……それは、その……聞く必要ないだろう」
そう言って、いつもむず痒そうに咳払いをするのだ。
だからリリアーナは、レオナードがどんな言葉を向けられたのかを知らない。
けれど交流を重ねるうちに、レオナードがヴィオラに好意を抱くようになったことだけは、はっきりと分かっていた。
落ち込んでいたレオナードの表情が少しずつ明るく変わっていったのが、何より雄弁に物語っていた。
たとえ噂でろくでもない男だと言われても、ヴィオラはレオナードをちゃんと見てくれた。
それが、リリアーナには何より嬉しかった。
――そして一つ、兄が言っていたことがある。
「ヴィオラはリリアーナのことも、ちゃんと理解してくれている」
と。
リリアーナには覚えがあった。
……まだ二人の婚約が決まる前のこと。
その日は、レオナードがヴィオラと外出すると聞いていた。
だから迷惑をかけてはいけないと、発作がでかける体を必死に隠し、リリアーナは兄を笑顔で見送った。
けれど、その日の昼過ぎ。
リリアーナの容態の変化に気づいたらしいレオナードが、予定より早く帰ってきた。
しかも、
「私のことは構いませんわ。リリアーナ様のそばにいてあげてくださいませ。彼女は今、心細い想いをしていることでしょうから」
そう言って、閉じた部屋のドアの向こうで兄に優しく声をかけていたヴィオラの声を、リリアーナは確かに覚えている。
その上ヴィオラは直後、わざわざ薬を届けさせてくれたのだ。
他にもリリアーナの好きなお菓子やお茶や花を、レオナード経由で届けてくれていた。
贈り物が届くたび、病気がちで邪魔だと思われかねない自分を認めてもらっているような、そんな気持ちになった。
リリアーナがヴィオラにお礼の手紙を送ると、いつもすぐに返信があった。
丁寧な字で書かれたリリアーナの体調を気遣う文面を目にするたび、胸が温かくなった。
ヴィオラに心を助けられているのは、レオナードだけではないのだ。
彼女の優しさが、少しずつ胸の奥に灯をともしていく。
今日、ようやく会えるのだと思うと、緊張の中にもリリアーナの心には小さな期待が混じった。
◆
時間通り、玄関ホールに馬車が到着する音が響く。
レグナール公爵家の紋章を掲げた馬車から降り立ったのは、凛とした佇まいの若い女性だった。
淡い色合いのドレスは決して華美ではない。
だが、所作の一つ一つが洗練されており、自然と周囲の視線を集めている。
――この人が。
リリアーナは、思わず息を呑んだ。
ヴィオラ・レグナール公爵令嬢は、伯爵夫妻に丁寧に挨拶を済ませた後、静かにレオナードの前へと進み出た。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
声音は落ち着いていて、柔らかい。
けれど、その奥には揺るぎない芯があった。
「こちらこそ……」
レオナードは、少し照れたように礼を返す。
二人の間に、気まずさはない。
むしろ互いを尊重していることが、自然と伝わってくる。
二人の様子を一歩引いた場所から見ていたリリアーナは、 自分がまだ挨拶をしていないことに気づき、はっとした。
慌ててリリアーナは一歩前に出る。
「は、はじめまして……ウィズダム伯爵家の末娘、リリアーナと申します。たくさんの贈り物をいただき、ありがとうございます」
緊張から、胸の奥がひくりと痛む。
けれど、背筋を伸ばし、できる限り落ち着いた声を心がけた。
ヴィオラはその姿を見て、ほんのわずかに目を細めた。
「はじめまして、リリアーナ様」
そう言って、淑やかに一礼する。
「ヴィオラ・レグナールです。お会いできて、光栄ですわ」
視線が合う。
値踏みするような冷たさも、憐れみや遠慮といった色もない。
ただまっすぐに、ひとりの人間として向けられる眼差し。
リリアーナは、胸の奥が静かにほどけていくのを感じた。
「……どうか、楽にしてくださいませ」
ヴィオラは、声を少しだけ落として、そう付け加えた。
彼女の一言で、胸の奥にこびりついていた緊張が、すっとほどけた。
その後、ヴィオラは一つ、意外な提案を口にした。
「本日は、お話ししたいことがありましてこちらに参りましたの」
そして彼女は、リリアーナの方を見る。
「リリアーナ様にも、ぜひ同席をお願いしてもよろしいかしら」
名を呼ばれ、リリアーナの肩がわずかに揺れた。
「……私、ですか」
「はい」
リリアーナが彼女の願いを拒む理由はなかった。
応接室に案内された一行の後ろには、一人の年配の男性が控えていた。
身なりは簡素だが、背筋が伸び、その目には、静かな自信が宿っている。
「こちらは、私が信頼している医師ですわ」
ヴィオラが紹介すると、男は深く一礼した。
「隣国で医療に携わっております、ペテラと申します。本日は、そちらのご令嬢のご容態について、拝見させていただきたく」
リリアーナは、思わず目を見開いた。
自分の、体調を?
戸惑いが胸を満たす。
「どうして……」
リリアーナが問いかける前に、ヴィオラが静かに言った。
「リリアーナ様のことは、以前から存じておりましたわ。先天性のご病気をお持ちで、国内では対症療法しかないと」
リリアーナは、何も言えなかった。
ヴィオラの言葉は事実だったからだ。
「ですが、隣国であれば、外科的な治療が受けられる可能性がありますの」
ヴィオラは静かに傍らの男性に視線を向けた。
「こちらのペテラは、隣国でも数少ない、心疾患を専門とする医師ですわ。これまで同じご病気を抱えた患者を何人も診てきた方で……私は、その腕と判断を信頼しております」
ヴィオラの声に応えるように、ペテラが口を開く。
「一度診察してみなければ確かなことは言えませんが、お話を聞いた限り、リリアーナ様の容態がよくなる可能性は極めて高いかと」
室内が静まり返った。
誰もが、その言葉の重みを理解していた。
「……なぜ、私にそこまで」
ようやく絞り出したリリアーナの声は、かすれていた。
ヴィオラは、まっすぐに彼女を見つめる。
「簡単な話ですわ。あなたは私の愛するレオナード様が大切にされている妹だからです」
ヴィオラは、ほんの一瞬だけ、視線を遠くへ向けた。
過去を静かに手繰り寄せるような、そんな間だった。
「……私は、昔、レオナード様に助けていただいたことがありますの」
ヴィオラは、穏やかな声でそう切り出した。
「あの時差し伸べられた手を、私は今でも忘れていません」
彼女の声には、飾り気のない感謝が滲んでいる。
「レオナード様はとても誠実で、お優しい方ですわ。ですから私も力になりたいのです。レオナード様と、そしてあなたの」
「っ、ですが私は、ヴィオラ様と顔を合わせたのは今日が初めてですし」
「ええ。確かに私は、リリアーナ様にお会いするのは本日が初めてですわ。けれど……」
ヴィオラは、ほんの一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。
「あなたのことを、まったく何も知らなかったわけではありませんの。……少し前のことですわ。ある手紙が誰にも渡らない場所に置かれていたものを私が、偶然見つけてしまったのです」
その言葉に、リリアーナが小さく息を呑んだ。
「それは……」
「リリアーナ様が送った、セレナ・ローディア様宛のものでしたわ」
静かな声だった。
「読むつもりはありませんでした。けれど、差出人の名を見て……つい、視線が落ちましたの」
ヴィオラは、目を伏せる。
「そこに書かれていたのは、セレナ様への恨みでも、責めでもありませんでしたわ。ただ、ご自分のせいで迷惑をかけたことへの謝罪と、どうか、レオナード様を悪く思わないでほしい、という願いだけ」
その時、レオナードが小さく息を吸った。
「……リリアーナ」
驚いたように、けれど声を荒げることなく、妹を見る。
「そんな手紙を……俺のために?」
言葉を探すように、一度、視線を落とした。
「……すまない。俺のことで、リリアーナに辛い思いをさせていたなんて」
「お兄様……」
リリアーナは、小さく首を振る。
「違うんです。ただ、私は……私にはそれしか、できなかっただけで……」
声が、かすれる。
それ以上、言葉は続かなかった。
代わりにヴィオラが、口を開く。
「リリアーナ様は、ご自身がどれほど苦しい立場にあるかよりも、兄であるレオナード様を想う気持ちを、何よりも先に綴っていらした」
ヴィオラは、まっすぐにリリアーナを見た。
「……その手紙を読んで、私は、あなたが、レオナード様と同じ様にとても優しい方なのだと知りましたわ。だからこそ、私は思いましたの。お二人を、同時に救いたい、と」
その言葉に嘘はないと示すように、ヴィオラの表情にも声にも、彼女自身の強い気持ちが込められていた。
応接室に、短い沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは、レオナードだった。
「……ヴィオラ、そんなことまで、君に背負わせるわけには――」
だが、言い切る前に、ヴィオラが静かに首を振る。
「背負わされているのではありません。私が、そうしたいのですわ」
その声は、揺るがなかった。
リリアーナは、二人のやり取りを見つめながら、胸を押さえた。
救われる話のはずなのに、 どうしてか、苦しくて、怖かった。
「……私」
思わず、声が漏れる。
「私が、そんなふうに思ってもらえる資格なんて……」
その言葉に、ヴィオラは、すぐに答えなかった。
ただ、穏やかに微笑む。
「資格があるかどうかは、私が決めますわ。あなたは、私の婚約者の大切な妹です。ならば、あなたは、もう私の家族でもありますもの。……家族にはこういう時、無条件で手を差し伸べるものではありませんこと?」
ヴィオラの言葉に、胸の奥が熱を帯びる。
――今までずっと、自分は、誰かの足を引っ張る存在だと思っていた。
それなのに目の前の女性は、自分を守るべき存在として、当然のように受け入れてくれている。
「隣国への渡航費、治療費については、すべてレグナール公爵家が負担いたします」
ヴィオラは、きっぱりと言った。
「それが、私の意思です」
応接室に、再び静寂が落ちる。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
賛成も、反対も、感謝も――どれも、ここでは違うと分かっていたからだ。
これは、誰かが決めていい話ではない。
受け取るかどうかを、選ぶべきなのは一人だけ。
リリアーナは、そっと目を伏せる。
差し出された手の温かさと、それを掴んだ先に待つ未来の重さを、同時に胸の内で受け止めながら。
◆
医師の診察は半日ほどで終わった。
結果は、予想していた通りだった。
隣国であれば、外科的治療は十分に見込める。
成功率も高く、術後の生活も大きく変わる可能性がある。
――希望は、確かにあった。
けれど、すぐに答えを出せる話ではない。
体への負担や、長距離の移動。
本当に、自分がそこまで望んでいいのか。
何より――この選択は、リリアーナ自身が決めなければならない。
二週間後。
リリアーナがひとりで庭を眺めていると、背後から穏やかな足音が近づいてきた。
「お邪魔しても、よろしいかしら」
振り返ると、そこに立っていたのはヴィオラだった。
「……はい」
二人は並んで腰を下ろす。
しばらく、言葉はなかった。
「……今日は、答えを聞きに来たわけではありませんわ」
程なくして。
そう前置きして、ヴィオラは微笑んだ。
「ただ……あなたが、今どう思っているのかを聞きたいと思いまして」
しばらく沈黙が流れる。
その沈黙は、リリアーナにとってはとても重いものだった。
ヴィオラは決して、答えを急かしているわけではない。分かっていても、胸の奥で、何かが静かに追い詰められていく。
――逃げられない。
そう、リリアーナは理解していた。
受けるか、受けないか。
どちらを選ぶにしても、リリアーナ自身が選択しなければ。
やがて、リリアーナは小さく息を吸った。
肺に空気を送り込むだけで、少しだけ勇気が要る。
それでもリリアーナは言った。
「……受けます」
声が、かすかに震えていた。
「お兄様のためにも……。私が元気になれたらきっと、お兄様はもう私のせいで辛い思いをすることはなくなって……」
けれど、リリアーナがみなまで言う前に、ヴィオラが首を振った。
「あなたは、レオナード様と同じくらいとても優しい方ですわ」
責めるでも、否定するでもない声音。
「でも私は、あなたが、あなた自身の幸せのために、治療を受けてほしいと思っています」
その言葉が、胸の奥にまっすぐ届いた。
――自分の、幸せ。
考えたことがなかったわけではない。
けれど、それを口にするたび、どこかで望んではいけないと、自分を止めてきた。
家族に負担をかけ続ける自分を。
リリアーナの目に、涙が溜まる。
「……いいのでしょうか」
声が、更に小刻みに震える。
「私が……幸せを望んでも」
まるで、許可を求めるような問いだった。
ヴィオラは、迷いない声色で答えてくれた。
「もちろんですわ」
それが当然だと言うように。
その一言で、張りつめていたものが、音を立てて崩れた。
リリアーナは、とうとう泣き出してしまった。
声を殺し、肩を震わせて。
抑え込んできた感情が、遅れて押し寄せる。
ヴィオラは何も言わず、ただそっと背中を撫でる。
急かさず、慰めすぎることもなく。
泣き終わるまで、そこにいる。
――それだけで、十分だった。
しばらくして、ようやくリリアーナの涙が収まった頃。
「……実は私も」
ヴィオラが、ぽつりと切り出した。
「一度、幸せを諦めようとしたことがありましたのよ」
胸の奥にしまい込んできた記憶をそっと取り出すような声だった。
「数年前の私は、今とはまるで違いましたの。太っていて、不器用で……同年代の子ども達の間では、笑いものにされることもありました」
貴族の子ども達が集まる、小さなお茶会。
そこで、彼女の容姿を指差され、「みっともない」と囁かれながら、周囲の子どもたちにくすくすと笑われていたという。
「ですがその時助けてくれたのが、レオナード様だったのですわ」
レオナードは相手が公爵令嬢だとは知らなかったようだ。
彼はヴィオラの前に立ちはだかるようにして、子ども達の蔑むような視線を遮り、彼らを追い払ったのだ。
そしてしゃがんで涙を流すヴィオラに、レオナードは躊躇いもなく手を差し伸べてくれた。
「私を安心させるようなその笑顔が眩しくて……。それがまるで自分の醜さを助長しているように思えて、私、つい言ってしまったのです。――こんな太っちょで、可愛くない私なんて助けなくてもよかったのに、と」
ヴィオラは、少しだけ笑った。
「そうしたら、彼は不思議そうに首を傾げて言いましたのよ」
――君はこんなに愛らしいのに?
「嘘偽りのない、まっすぐな言葉で……。そんなふうに言われたのは、初めてでしたわ。その瞬間に、恋をしたのです。ですが、彼には婚約者がいましたから、私は諦めたのです」
「そうだったんですね」
リリアーナは、思わず息を呑んだ。
完璧だと思っていたヴィオラにも、そんな過去があったのだと、初めて知った。
「ところが……婚約が解消されたと聞いたものですから。私は三日三晩、寝ずに父に粘り強く交渉しましたわ」
「……三日三晩、ですか?」
思わず聞き返してしまうリリアーナ。
公爵家当主を相手に、そこまで粘ったと聞いて、リリアーナは言葉を失った。
そんなリリアーナを見て、ヴィオラはくすりと笑って肩をすくめる。
「見た目は淑女でも、本当の私は、かなりの頑固者なのです」
ヴィオラは、少し照れたように視線を伏せる。
「それからようやく父の許可がおりて、再会できたレオナード様に好きだと、たくさん伝えましたわ」
けれどその声が、寂しそうにわずかに揺れる。
「……気持ちが高ぶって、私の想いをレオナード様に押しつけてしまったことは認めますわ。もしかしたら、私の勢いに負けて、あの方はこの婚約を受けてくれたのかもしれませんわね」
「そんなことありません!」
けれどリリアーナはヴィオラの言葉に対し、思わず声を上げる。
「お兄様は……ヴィオラ様のことを話す時、とても楽しそうなんです! 贈り物一つ選ぶにも、何を選べば喜んでもらえるか、真剣に悩んで……。私にまで相談してくるんですから」
……脳裏に思い出されるのは数日前の記憶。
「……なあ、リリアーナ」
レオナードが珍しく歯切れの悪い様子で声をかけてきたことがあった。
「この色と、この色……どっちがいいと思う?」
差し出されたのは、まだ包まれていない贈り物だった。
「ヴィオラ様なら、きっとこっちがお好きだと思います」
リリアーナの答えに、レオナードはほっとしたように笑っていた。
「……よかった。ヴィオラ、喜んでくれるといいんだけどな」
あの時のレオナードは、確かにヴィオラに恋慕の情を抱いているように見えた。
その光景を見たからこそ、リリアーナは胸を張って言える。
「ですから……ヴィオラ様、自信を持ってください」
ヴィオラは、驚いたように目を瞬かせ、そして、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうリリアーナ様」
その時。
「……二人とも、こんなところにいたのか」
振り返ると、レオナードが立っていた。
三人の視線が、自然と交わる。
その光景を見ながら、リリアーナは考える。
――誰かのために生きることしか、選んでこなかった。
けれど、ヴィオラの話を聞いて、はっきりと分かった。
幸せを願うことは、きっと悪いことではない。
自分の幸せを選ぶことが、結果として、周りの人の笑顔にもつながるのだと。
リリアーナは、一歩前に出た。
「……ヴィオラ様、お兄様。私、決めました。隣国へ行きます」
先ほどの弱々しい声でも意思でもない。
今度は、迷いのない声だった。
「お兄様のためだけではありません。私が……生きたいからです」
レオナードは何かをこらえる様にぐっと唇を噛んだ後、けれど何も言わず、ただ頷いた。
ヴィオラもまた優しく微笑んで、リリアーナの決断を受け止めた。
こうしてリリアーナは、自分の未来を選んだのだった。
◆
隣国へ旅立つ日、空は驚くほど澄み渡っていた。
早朝の冷たい空気の中、ウィズダム伯爵家の門の前には、家族が揃っていた。
整えられた馬車の前で、父と母は言葉少なに立っている。
母は何度もハンカチを握り直し、父は普段より少しだけ背筋を伸ばしていた。
どちらも、娘を送り出す覚悟を、必死に整えているように見えた。
「体調は……大丈夫?」
母が、念を押すように尋ねる。
「はい。今日は、胸も苦しくありません」
そう答えると、母はようやく小さく頷いた。
そして――。
「……本当に、行くんだな」
レオナードは、すでに何度目か分からない言葉を繰り返していた。
目は赤く、声も少し掠れている。
「ええ」
リリアーナは、はっきりと答えた。
寂しさがないわけではない。
レオナードや他の家族と離れることが、不安でないはずもない。
けれど、胸の奥にあった重たい罪悪感は、もうなかった。
かつては、ただ存在するだけで誰かを縛っているような気がしていた。
けれど今は違う。
これは、自分で選んだ道だ。
……選ばせてもらった、希望へと続く道だ。
「……無理はするなよ。あと、一人で抱え込むな。ご飯はちゃんと食べるんだ、それから……」
心配を滲ませて言葉を続ける兄の声は、震えていた。
「はい」
兄の言葉一つ一つにリリアーナは返事をしながら、顔には小さな笑みが浮かぶ。
レオナードの少し後ろには、二人のやりとりを眺めるように、ヴィオラが静かに立っていた。
いつもと変わらない柔らかな微笑み。
けれど、その表情には、どこか含みがある。
――何かを、隠しているような。
その理由を、リリアーナはまだ知らなかった。
◆
隣国での生活は、想像以上に静かで穏やかだった。
真新しい病室で、リリアーナは少しずつ新しい日常に慣れていった。
初めのうちは、夜になると不安で胸がいっぱいになった。
けれど、送り出してくれた家族やヴィオラの顔を思い出し、胸に手を当てると、不思議と落ち着いた。
病院に到着してから一週間後。
病室の扉が、軽くノックされた。
午後の診察を終え、ベッドに腰掛けていたリリアーナは、 軽くノックされる音に顔を上げた。
「……リリアーナ?」
聞き慣れた声に、心臓が大きく跳ねる。
「……お兄様?」
一瞬、聞き間違いだと思った。
ここは隣国の病院で、兄は遠く離れた故郷にいるはずだったからだ。
けれど、扉が開く。
そこに立っていたのは、確かにレオナードだった。
少し息を切らし、どこか落ち着かない様子で。
そして隣には――当然のような顔で、ヴィオラが立っていた。
「……え?」
声にならない声が漏れる。
一瞬、夢を見ているのだと思った。
手術前の不安が見せた幻かもしれない、と。
「リリアーナ様、一人だと心細いでしょう?」
ヴィオラは、何事もないように言った。
「私とレオナード様のこの国の学園への編入手続きも、住まいの手配も、済ませてありますのよ。書類関係も、すべて」
「……え?」
何の話をしているのか。
リリアーナは理解が追いつかずぽかんと口を開けてしまった。
……話を整理すると、どうやらヴィオラとレオナードは二人揃って、明日からこの国の学園に留学生として編入するらしい。
「でも、お兄様、そんなこと一言も言ってなかった……」
衝撃の事実にリリアーナが言葉を探していると、レオナードが気まずそうに頭を掻いた。
「俺も知らなかったんだ。リリアーナが出発してから、急にヴィオラから荷物をまとめろって言われて。……拒否する暇もなかったな」
肩をすくめるレオナードに、 ヴィオラは悪びれもせず微笑んだ。
「あら、だってリリアーナ様が一人で手術を控えているのよ? 心細い彼女の元に駆けつけるのは当然のことですわ」
レオナードは一瞬、言葉に詰まる。
「……けどせめて、相談くらいは――」
「しましたわ」
即答だった。
「リリアーナ様のところへ行きましょうと」
「それはリリアーナの容態が落ち着いたらって話かと……」
言いながらも、レオナードの声に本気の不満はない。
「でも、結果的にはよかったでしょう?」
ヴィオラは、穏やかに続けた。
「あなたはリリアーナ様のそばにいられる。私も、大切な二人のそばにいられる」
一拍置いて、付け加える。
「完璧な案だと思うのですが?」
「……強引だとは思う」
そう前置きしてから、レオナードは苦笑した。
「でも、ありがとう。正直……俺一人じゃ、決断できなかった」
ヴィオラは、レオナードの言葉を聞いて、表情を和らげた。
「では、やはり正解でしたわね」
どうやら、完全に既成事実だったらしい。
リリアーナの胸が、きゅっと締めつけられる。
「……そんな……ご迷惑では……ありませんか……?」
思わず、そう口にしていた。
自分のせいで、また誰かの人生を動かしてしまったのではないか―― そんな不安が、胸をよぎる。
「迷惑?」
しかしヴィオラは、きょとんとした顔で首を傾げた。
「どうして、そう思うんですの?」
そして少しだけ、困ったように笑う。
「だって私たちは家族ですわ。家族のために動くのは当然のことですもの」
その言葉は、あまりにも自然だった。
まるで、最初から決まっていたことのように。
リリアーナは、何も言えなくなった。
感激と、申し訳なさと、それに。
――一人じゃない。
その事実が、遅れて、じんわりと胸に染み渡っていった。
◆
手術の日は、静かにやってきた。
白い天井を見上げながら、リリアーナは不思議と落ち着いていた。
怖さはある。
けれど、それ以上に、未来を信じたい気持ちが勝っていた。
目を覚ました時、リリアーナが最初に感じたのは――軽さだった。
胸に手を当てても、痛みはない。
深く息を吸っても、苦しくない。
――痛くない。
それだけで、涙が溢れた。
回復の過程で、リリアーナは一人の青年と出会った。
医師見習いのトビーは、穏やかで、押しつけがましさのない、春の陽だまりのように温かく優しい人だった。
治療の合間に交わす、何気ない会話。
天気の話。
小さな冗談。
生きることが怖くなくなった今だからこそ、自然に芽生えた想いがあった。
トビーと心を通わせ、彼との将来の話が出るようになると、リリアーナは決めた。
――彼のいるこの国に、残りたい。
トビーを伴いそのことを告げた時、レオナードは一瞬固まり、次の瞬間、盛大に泣いた。
「……そうか、よかった……。リリアーナが、自分の幸せを……本当に……」
ヴィオラもまた、涙を流すレオナードに寄り添いながら、リリアーナの決断を心から祝福してくれた。
◆
それから間もなくして、レオナードとヴィオラは学園を卒業し、帰国することとなった。
ちなみに、かつてレオナードを捨てた元婚約者セレナは、二人が帰国してすぐのタイミングで、年上の資産家に捨てられたらしい。
今さらになってレオナードのもとへ縋りついてきたものの、応対したのは、レオナードではなくヴィオラだったと聞いた。
舞台は、王都で開かれた夜会だった。
華やかな音楽と笑い声の中、セレナは意を決したようにヴィオラの前に現れたという。
「今さら、何のご用ですの?」
そう問いかけたヴィオラは、声を荒げることもなく、ただ夜会の場にふさわしい、完璧な微笑みを浮かべていたそうだ。
彼女の佇まいは、非難も侮蔑も含まない。
けれど同時に、相手に入り込む余地が一切ないことをはっきりと示していた。
ヴィオラの隣には、当然のようにレオナードが立っていた。
何も語らず、ただそこにいるだけで、両者の間にある立場と関係の差は、誰の目にも明らかだったという。
セレナはそれ以上何も言えず、言い訳も、涙も見せることなく、その場を去ったそうだ。
それきり、セレナがレオナードの前に姿を現すことはなかった。
また、いつの間にか、レオナードに向けられていた悪い噂も消えていた。
代わりに広まっていたのは、レグナール公爵令嬢に深く愛されて選ばれた心優しき人物、という評価だった。
事実を知る者にとってはあまりにも遅い修正だったが、それでも、レオナードの名誉は静かに回復していった。
その話を後から聞いたリリアーナは、胸の奥に、じんわりとした温かさを感じていた。
◆
すぐに会いに行ける距離ではない。
代わりに文通の日々が続く。
レオナードと、ヴィオラと。
互いの近況を綴り合う、穏やかな時間だ。
胸が苦しくない。
息が苦しくない。
風邪を引いても生死の境を彷徨うことはない。
それが、当たり前になった。
ある日の朝、リリアーナが窓辺で手紙を書いていると、控えめなノック音が響いた。
「……起きてる?」
顔を上げると、扉の向こうに立っていたのはトビーだった。
仕事へ向かうための服装ではなく、どこかへ出かけるかのようなめかしこんだ格好で立っている。
「調子はどう?」
「あの手術を受けて以来、全く問題ありませんよ。ふふっ、トビーってばいつも私の体調を聞くんですね」
「当たり前だよ。君は私の大切な人だ。万が一があったら困るからね」
そう答えたトビーは、本当に調子の良さそうなリリアーナを見てほっとしたように微笑んだ。
それだけのやりとりなのに、リリアーナの胸の奥が温かくなる。
「ねえ、リリアーナ」
と、部屋に入ってきたトビーは、リリアーナの肩を抱くと耳元で楽しそうに囁く。
「実は今日、休みになったんだ。だから久しぶりに一緒に街に行かないかい? 新しい花屋ができたらしくて。君の好きな花もたくさんあるだろうから、何か贈らせてほしいな」
以前なら、迷っていただろう。
体調を理由に、遠慮していたかもしれない。
けれど、今は違う。
「はい、行きたいです!」
素直に答えると、トビーは驚いたように目を瞬かせ、すぐに嬉しそうに笑った。
「じゃあ、決まりだね」
愛しい人の笑顔を見て、リリアーナは思う。
――誰かと並んで歩く未来を、想像してもいい。
明日の約束を、楽しみにしてもいい。
書き終えたばかりの便箋を二つ折りにし、封を閉じる。
宛名は、遠い故郷にいる兄と、そして――ヴィオラ。
リリアーナは、ふと手を止めた。
もしあの日、ヴィオラが「あなたの幸せのために」と言ってくれなければ。
もし、幸せを望んでいいのだと、背中を押してくれなければ。
……自分は、ここにはいなかっただろう。
胸が苦しくない朝も、トビーと街へ出かける未来も、こうして笑いながら手紙を書く今も。
すべては、あの優しくて強い一人の女性の言葉から始まった。
――ありがとうございます、ヴィオラ様。
声に出さずとも、その想いはきっと、届いている。
それでもリリアーナは小さくそう呟いた。
部屋に吹き込んできた春風が、それを届けるようにリリアーナの声をさらっていった。




