風が目覚めるとき
王宮——静寂と権威の象徴。
白亜の回廊を抜けた先、陽の入らぬ部屋に、その青年は眠っていた。
王子アレン。王国の次代を担うはずだった若き王子は、七年前の祭りの日から、一度も目を覚ましていない。
病でもなく、呪いでもなく、理由のつかめぬ“眠り”。
魔導師たちが祈りと術を尽くしても、扉は開かれなかった。
けれど今、その枕元に、一つのパンが運ばれた。
「これが……“風のパン”か」
王の間に立つ老医師が呟く。
香りが、室内にゆっくりと広がっていく。
温かい麦の匂い。野草の香り。ほのかに甘く、どこか懐かしい風が部屋の空気をやさしく揺らした。まるで春の訪れを告げるそよ風のように。
リューンはひざまずき、王子の手を静かに握る。
「アレン……目を覚ませ。あの夜、お前が求めていたものは、ここにある。
味ではなく、想いだ。誰かの優しさ。ぬくもり。……風だ」
王子のまぶたが、かすかに動いた。
周囲がざわめく。医師が前のめりになり、侍従が息を呑んだ。
「……リ……ュー……」
確かに、呼ばれたのはその名だった。
「兄……さん……?」
声はかすれ、震えていたが、それは紛れもなく“意志ある声”だった。
目を開けた王子の瞳に、迷いと驚きと、なにより深い安堵が浮かんでいた。
「……夢の中で、パンの匂いがした。森の中……母の声……笑い声……」
アレンはゆっくりと起き上がり、リューンを見つめる。
「ずっと……ここにいたのか、兄さん」
リューンの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
硬く結ばれていた彼の表情が、初めて崩れた。
「……すまない、アレン。私が、お前を戻せなかった。
でも……君の“風”を覚えている者がいた。彼女が、君の眠りをほどいてくれたんだ」
部屋の片隅で、フィアは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
王子の目が、彼女の方へと向けられる。
「君が……あの時、祭りでパンを焼いていた子?」
「……うん。あの時、私も一切れ食べたの。涙が出るほど優しい味で……忘れられなくて。
いつか、もう一度あの味を焼こうって、ずっと思ってた」
アレンは微笑んだ。弱く、けれど確かな笑顔だった。
「君の想いが……風になったんだね」
その言葉に、フィアの瞳が潤む。
パンは、ただの食べ物ではない。
それは想いを届ける魔法であり、心をつなぐ風。
今、その風は、七年を越えて一人の眠りをほどき、
兄弟を再会させ、少女の祈りに答えた。
数日後。
王都では“風のパン”の話が広まり、小さなパン工房ルナには訪問者が絶えなくなっていた。
フィアは焼き窯の前で、新しいパンを成形しながら、ふと窓の外に目をやる。
柔らかな風が、通りを吹き抜ける。
「パンって、不思議だよね。ちゃんと、届くんだ。遠くにいる誰かの心にも」
背後でリューンが笑う。
「君のパンは、風をまとっている。もう、どこへでも届くだろう」
フィアは笑った。
「さあ、次はどんなパンを焼こうかな」
窓辺の風鈴が、軽やかに鳴った。
新しい風が、また始まろうとしていた。
〜完〜