森に眠る祭りの灯
王都の北、アエルの森。
今では立ち入りを禁じられたその森は、かつて“パン祭り”が開かれた聖地だった。
フィアは、朝焼けの光を背に受けて、ひとり森の小径を進んでいた。
草を踏む音。鳥のさえずり。樹々のざわめき。
どれも懐かしい。けれど、どこか遠くなった音。
ここで、自分は笑っていたはずだ。
母と一緒に、師匠と一緒に、あの屋台の前で——あの“奇跡のパン”に出会ったのだ。
「……本当に、ここでだったよね」
誰にともなく呟いた声は、風に溶けて消えていった。
森は静かだった。人の気配が消えて久しいのだろう。だが、どこか空気にぬくもりがある。それはパンが焼きあがる瞬間の、あの柔らかな香りに似ていた。
やがて、開けた場所にたどり着く。
草が茂り、朽ちかけた木製の台が、地面に埋もれるように残っていた。七年前、ここに祭りの屋台が並び、人々が踊り、パンを分け合った。
あの夜の光景が、目の奥ににじむ。
——提灯の赤い光。
——歌声と笑い声。
——そして、母の手に握られた、まだ温かいパン。
そのパンを一口かじった瞬間、たしかに風が吹いた。あれはただの風ではない。心の奥に触れてくる、懐かしさと切なさが混じった、感情そのもののような風だった。
「ねえ……お母さん。あのとき、なにを思って焼いたの?」
パンというのは、小麦と水と塩と酵母。それだけでできる。けれど、“風のパン”には、もうひとつの材料があった。
想いを宿す“何か”——それが、“灯”だったのかもしれない。
フィアはそっと腰を下ろし、目を閉じた。草の匂い。地面のぬくもり。風がそっと髪を撫でる。
すると——遠くから、歌が聞こえた。
(パンをこねて 思いをこめて
遠くの誰かの 涙をぬぐう)
聞き覚えのある、あたたかな歌声。
誰の声だったか、はっきりしない。でも、懐かしい。
「……母の声?」
目を開けると、どこにも人はいなかった。けれど、不思議と確信があった。
この森には、今も“祭りの灯”が残っている。
ポケットの中のメモ帳に、フィアは小さく書きつけた。
> 材料に記すこと
> ・粉(小麦・黒麦)
> ・塩(岩塩)
> ・酵母(アスターの種)
> ・風の種=「想い」
> ※祭りの空気、母の歌声、誰かの祈り
ただの食材ではない。
再現するには、パンに込める“想い”を明確にしなければならない。
そのとき、ポケットの底に指先が何かに触れた。
取り出してみると、小さな布包み——中には、細かく砕かれた茶色い草の粉末。
「これ……」
師匠が昔くれた、小さな“旅守り”。ずっと忘れていた。
「……これが、風の種?」
手のひらに載せると、ふっと風が吹いた。粉が宙に舞い、やさしく揺れる。
森が、囁いている気がした。
「込めよ、想いを」
フィアは、静かにうなずいた。
あの夜の灯は、消えていなかった。
パンに込めるべきものは、記憶と、祈りと、想い。
それをすべて混ぜ合わせ、あの“風のパン”を——奇跡の再現を果たす。
「やってみるよ。お母さん、見てて」
空に向かって、そうつぶやいた。
夕日が木々の間から差し込み、森全体が金色に染まった。