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師の眠る窯

夕暮れ時。王都の西、煙突通りのはずれ。

 石積みの古い建物に囲まれたその一角には、かつて王国随一と謳われたパン職人がいた。


 ベルン・モルデン。フィアの育ての親であり、伝説の窯《ルルの火》を守ってきた男。


 今ではもうその窯に火が入ることはなく、黙って庭に伸びた葡萄の蔓が、壁を優しく抱いていた。


 フィアは門扉の前で一度立ち止まり、深く息を吸った。もう何度も訪ねてきたはずなのに、今日はなぜか、胸が妙にざわめく。


 鉄の取っ手を握ると、きぃ、と音を立てて開いた。


 「……フィアか。珍しいな、こんな時間に」


 軋む床板の奥から、くぐもった声がした。


 ベルンは大きな肘掛け椅子に座り、古びた毛布を膝にかけていた。もう何年も前に片足を痛めて以来、滅多に立ち上がることはない。それでもその眼差しはなお鋭く、パンの焼き色ひとつで弟子を叱る、あの頃のままだ。


 「久しぶりに……“風のパン”の話をしたいの」


 その言葉に、ベルンのまなざしがわずかに揺れた。


 「……あの夜のことか?」


 「うん。あたし、今それを再現しようとしてる。でも、どうしても何かが足りない。多分、“風の種”っていう……母が言ってた」


 静かになった。


 時間が止まったかのような沈黙のあと、ベルンはぽつりと呟いた。


 「その名を、まだ覚えていたか……」


 「知ってるの?」


 「いや、正確には……知ってる“つもり”だったんだ」


 ベルンは背後の本棚から、古びた革の帳面を一冊取り出した。ページをめくる音が、部屋に静かに響く。


 「……風の種は、あれは素材じゃない。呼び名なんだよ、フィア」


 「……呼び名?」


 「“風”とは、目に見えないものだ。空気でもなく、ただの動きでもない。味や匂いの背後にある“記憶”や“想い”のことを、あの地方では“風”と呼んだ。パンに宿る、食べた人の心を震わせるもの。それが“風の種”だ」


 フィアは混乱した。言葉の意味はわかるのに、実感としてつかめない。


 「でも、それって……じゃあ、“風の種”はどこにあるの? どうやってパンに入れればいいの?」


 ベルンは、かすかに笑った。老いたその表情に、どこか懐かしさがにじんでいた。


 「君は、七年前のあの夜、パンを焼く私の隣にいた。覚えているか?」


 「……うん。ずっと見てた」


 「私は、生地に混ぜたんだ。“母から譲り受けた乾いた草の粉”を、ほんの一摘み」


 「それが“風の種”?」


 「そうとも言えるし、そうでないとも言える。あの粉は、ただの草の破片だったかもしれない。でも、それに“想い”を託したとき、パンに風が宿ったんだ。」


 ベルンの声は、まるで昔語りの吟遊詩人のように、どこか遠くを見ていた。


 「素材だけを追うな、フィア。“味”ではなく、“何を込めるか”を思い出すんだ」


 沈黙が落ちる。


 だが、フィアの中に、何かが確かに動き出していた。


 ただ草を探すだけでは、足りない。あの時の空気、笑い声、胸の震え——

 それごと、パンに宿さなければならない。


 ——それが“風の種”。


 「ありがとう、師匠」


 彼女は立ち上がった。


 「……もう少し、思い出してみる。あの夜、パンができあがった瞬間の気持ちを」


 ベルンは、目を細めてうなずいた。


 「焼けよ、フィア。あの日の風が、再び吹くように」



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