焼きたての記憶
王都ウル=ゼルナ。
石畳の路地を、朝の光がすり抜ける。高い屋根と赤い瓦の合間から、白い鳩が飛び立ち、パン屋の煙突から立ちのぼる湯気に紛れていった。
その一角、鐘の音が三度響いたころ。街角の小さな店「パン工房ルナ」で、フィアはまた失敗した。
「……ちがう」
焼きあがったばかりのパンを裂き、湯気の奥に顔を近づけた。小麦の甘い香り、ほんのり焦げた皮の苦み、バターの香ばしさ——すべて悪くない。むしろ上出来とすら言える。それでも。
「やっぱり、ちがう……あの味じゃない」
細い指先で、フィアは柔らかい中身を押しながらつぶやいた。思い描く味の幻影が、今朝も遠い。
背後の扉が静かに軋んだ。
「今日で、十六度目だな」
低く落ち着いた声。振り向かなくても、誰かはわかる。
「……おはよう、リューン」
黒衣をまとった依頼人——リューンは、変わらぬ無表情でカウンターに立った。まるで焼きたての香りにも、パン職人の情熱にも興味がないかのように。
「どうだった?」
問われて、フィアは目を伏せた。
「また、だめ。あれと同じじゃない。香りも、口に残る後味も……ちょっと近づいた気はするけど……」
「“あの味”を知っている者が、他にいない以上、君だけが頼りなんだ」
そう言いながら、リューンはパンを一切れ手に取り、そっと口に運んだ。
「……これはこれで、良いパンだ。けれど……違う」
その言葉に、フィアは唇を噛んだ。
彼女には、あの味があった。
七年前、ほんの一口だけ口にした、あの“風のパン”。
ある祭りの夜だった。小さな屋台で出され、あっという間に売り切れたそのパンを、フィアは一度だけ口にした。
ひと噛みで涙が出た。言葉にならないやさしさと、心を撫でるような風の感触が、舌の上から胸にまで届いた。
——あれは、まるで魔法だった。
それからというもの、彼女の夢はただひとつ。「あの味を再現する」こと。
そして今、ついにその再現を正式に依頼されているのに——
「……期限は」
「あと二日。王子の誕辰式の日までに完成させねばならない」
フィアは、ふっと表情を曇らせた。王子。長いあいだ眠り続けているという、伝説のような存在。その眠りを解く鍵が、「記憶の味」だと信じている者たちがいる。
「リューン。正直に言っていい?……このままじゃ無理。何かが、根本的に足りてないの」
リューンはうなずいた。まるでその答えを、最初から知っていたかのように。
「ならば、もう一度思い出せ。君がそのパンを食べたとき——その場に、誰がいて、どんな音がして、風はどう吹いていた?」
「……風?」
ふと、胸の奥で何かがかすかに鳴った気がした。
フィアは目を閉じた。あの夜の光景を、ゆっくりと思い返す。
赤い提灯の揺れる影。師匠ベルンの大きな背中。母の笑い声。そして——森の方から吹いてきた、優しい風。
「……風の種」
ぽつりと、口からこぼれた言葉に、自分で驚いた。
「なに?」
「ううん、昔、母が言ってたの。“風の種を入れたパンは、森に祝福される”って。笑ってたけど……もしかして、あれが——」
リューンの目が細まる。
「その“風の種”、まだ手に入るのか?」
フィアは小さく首を振った。
「今はもう誰も使ってない。でも……師匠なら、何か知ってるかも」
リューンはわずかに頷いた。
「ならば、探すんだ。その種が、あの味の鍵なら——」
「うん、やってみる」
陽が差し込む窓の向こうで、白い鳩がまた一羽、空へと舞い上がった。
“風の種”。失われた素材。失われた味。
そして、失われた何かが、ようやく少しずつ形を取り始めていた。