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第6話 漂着

潮騒が、夜の波際をさわさわと洗う。ヤドカリやカニたちが波と戯れながら餌を探し、柔らかな月明かりに影を落としている。

この晩はどういうわけか、浜辺には漂着物が数多く散乱していた。砕けた板や大きな丸い樽、ところどころ焦げた帆布、そしてパンや干し肉までもが砂浜に打ち寄せられている。

カニたちは突然の饗宴に目を輝かせ、ハサミを振るってそれらを貪ろうとしていた。

一匹のカニが大きな塊に目を留め、よじ登ろうとした瞬間、その「塊」が微かにのそりと動いた。程よく肉付きの良いそれは、豚でも牛でもなく、なんと人間だった。

そして、その人間はただの人間ではない。人々の頂点に立ち、絶対的な権威を誇る者――王であった。

王、アルセリアは、先の海戦において艦隊を失い、沈みゆく船から荒波の中をどうにか逃れた。しかし今は、ただのひとりの漂流者として、知らぬ砂浜に打ち上げられていた。

身にまとっているのは鎧下の肌着と、頭に戴く金色の王冠のみ。

その王冠さえも、もはや彼の威厳を保つどころか、ただの漂流者を滑稽に見せるだけの飾りとなっていた。

首筋をカニが歩く感触に、アルセリアは目を覚ました。

しばし砂に埋もれたまま、ぼんやりと目の前を見つめていたが、打ち上げられた焦げてちぎれた布が自らの軍旗であることに気付き、はっと我に返った。

そしてそろりと半身を起こそうと試みたが、強固に体と破材を結び付けたロープに阻まれて動けなかった。

首だけを動かして辺りを見回し、人の気配がないことにひとまず安堵した王は、再び身を伏せ、深く息を吸い込んだ。だが、その安堵も束の間、不安が彼の顔を再び覆った。

ここは一体どこなのか?まさか敵地ではあるまいか?それに気のせいだろうか、空の星々がいつも見ているものと違う気がするし、浜辺に漂う生ぬるい空気もどこか不穏な気配を孕んでいる。しかし、そのおかげで寒さは感じなかった。季節は秋だというのに、まるで風もない夏の夜のような生暖かく重い空気が、夜の浜辺を包み込んでいるかのようだった。それにしても、カニやヤドカリがあのような紫や青色をしているものだろうか?それに、一様にまるで踊っているようにハサミを動かしてもいる。カニとはそういう生き物だっただろうか?

ともかくロープを解かんと、結び目を目にして、あっと声が出た。結び目が特殊な形をしていたからだ。こ、この形……遠い過去の記憶が呼び覚まされる。


「若、ベルディアは海洋国家でございます。王殿下といえども、この結び方は、覚えて頂かなくてはなりませんぞ。まあ、この結い方は最近はあまり流行りませぬが…この様に大木の根の如く強固ですが、ここをこの様にもって、ここを引くと、ほれ、この様に春風に様に爽やかに解けまする。」


幼い自分が、まるで魔法みたいだと歓声を上げる。


「まさか……」アルセリアの目が見開かれる。


いや、あれの髪は白髪だ。だが私を助けた男の髪色は黒髪…。しかし、あの滴り落ちていた血……あれはまさか髪染め!?だが隠棲している筈のフィデリオスが、髪を染めて若造し、海兵の一員となって戦場に身を投じ、あの荒海で自分を救ったのだとでも言うのか…?


「いや……そんなはずはない……馬鹿げている。」


フィデリオスは確か70近い筈……夢物語だ。

王は自らを戒めるように呟いた。だが、心の奥底に湧き上がる疑念は止めどなく広がる。ロープの結び目を解こうと試みるが、その結び目は凍える海中で作られたとは思えぬほど固く締まっていた。その執念に、王の目から自然と涙がこぼれ落ちる。そして、昔、教わった通りにロープを引くと、まるで幻の様に、そこにあった命が儚く溶けて消えるように、結び目は解け、ただの一本のロープに戻った。次から次へ溢れ出る大粒の涙の流れるままに「……何故だ……これは一体、何の涙なのだ……?」と喉の奥に重い痛みを感じながら慟哭した。



涙に頬を濡らしながらアルセリアは、船の破材から離れ、水際から砂浜へと這い上がり、肩で荒い息をつきながら横たわった。波に揉まれて体は疲れ切り、表情からは生気が失われている。

沈んでいった船、その船と共に消えた忠実な臣下たちの顔が浮かぶ。彼らの忠誠心、信頼に満ちた眼差し――その全てを、彼は失ったのだ。


「あの者らには、もう会えぬというのか……あの時の……私の突撃の号令が彼らを……?」


「陛下、なりませぬ!あれは敵の罠です!」という悲痛な進言が耳に残る。


アルセリアはその声を振り払うように頭を振り、立ち上がった。

そして、空腹から気怠さを払わんと、周囲を見渡す。何か食べ物がないか――その目が砂浜の向こうに広がる木々に留まる。その奥には深い霧が立ち込めていた。


「……あそこに行けば、何かがあるやかもしれぬ……」そう呟きながら、王はフラつきながら森へ向かう。


その時、霧煙る木々の間に何かが揺れているのが目に入った。


「……人影か?」今度は大きい。緊張が走る。敵兵かもしれぬ。


アルセリアは砂浜に伏せ、じっとその影を見つめる。しかし、よく見ればそれは人ではなかった。木々の枝に掛けられた、奇妙な服の数々だった。どれもこれも見たことのない形や色をしている。だが、何より異様なのは、その全てが女物の服であるという点だった。

アルセリアは恐る恐るその服に近づき、じっくりと観察した。それは驚くほど豪華な服だった。このような浜辺の枯れ木の枝に無造作に掛けられる様な代物では断じてない。王都の高級服飾店でさえ、これほど素晴らしい服を目にしたことはない。その生地の質感、色彩の調和、そして刺繍の精緻さ――いずれも見事の一言に尽きる。我が国の最高技術を駆使した服でさえ、この出来栄えには遠く及ばないだろう。


「美しい…」


思わず、口をついて出た事に、アルセリア自身が驚いた。

このような時に私はどうかしている。だが、最近このような、美しさへの不意の没入を感じた事があった様な……この感じ、何処かで覚えがあるような……そうだ!思い出した。宮廷での壮行会で、遠国の特使の女が着ていた服と雰囲気が似ている。この不思議な布材に、どのように作るか見当もつかない刺繍や造形。それが複層的な構造で光を反射し、一個の絵画のようになっている。特に襟に施された流麗な錦糸の刺繍――それが月明かりに映じて、まるでそれ自体が光を放っているように輝いている。

刺繍は文字であるらしく、「マクファネシ」と書かれている様に見える。おや?、私の近習の名と同じだ。

服の生地に手を触れてみる。その手触りときたら……虹をもし触れるなら、このような感触ではないだろうか?


「……美しい……」


アルセリアは知らず知らずのうちに呟いていた。その声は波音に溶け込み、霧の中へ吸い込まれるように消えた。

震える手を伸ばし、服を手にしようとした。その瞬間、指先に鋭い痛みが走った。

その時、脳裏にいつも自分を支えてくれた近習の姿が浮かぶ。

波に飲み込まれながら、叫び続けていたあの顔――


「マクファネシ……!」


反射的に手を引くと、血が滴り落ちているのが見えた。木の枝には隠された棘があり、それが月光を受けてわずかに光っている。


「何だ今の幻影は……あの者の最後の姿とでもいうのか!?」


指先に滲む血が、かの者の血に思えた。

出撃前、戦いが終わったら故郷の恋人に会いに行きますと笑顔で語った若者の嬉しそうな顔。

アルセリアはぐっと目を瞑り、低く呟いた。


「許せ、マクファネシ……」


うずくまりたくなるような心の痛みを感じていると、不思議な声が耳元で響いた。


「すまぬな。それはその者のために特に誂えたものだ。来るがいい、お前のものはこちらにある筈だ。」


「!」突然、囁きに、飛び上がって振り向く。

だが、周りには誰もいない。声は大して大きくはないのに、思わず背筋が伸びるような威厳を感じさせる圧があった。

それに波音に混じって、不思議な音が聞こえてくる。リズムを刻むような、あるいは子守唄を歌うような――どこか異様で、得体の知れない音だった。


「……だ、誰だ!」


震える声で問いかけたものの、霧の奥から聞こえる声はそれ以上何も答えず、ただ濃い霧だけが広がっていった。

ただ、奇妙なリズムの音が低く流れ続け、風もないはずなのに吊り下げられた服たちが静かに揺れ続けていた。


「自ら揺れている……?」アルセリアは自分の言葉に自ら怯えた。


鼓動が激しくなり、王冠の縁をなぞるように触れる。その硬く冷たい感触が、唯一の現実の証であるかのように思えた。

視界は徐々に霧に覆われ、砂浜も月明かりも見えなくなっていく。霧はただ漂うだけではなく、まるで王を包み込むように、彼の周囲で形を変えながら流れていく。

気づけば、その中に人の顔のような影が、一瞬だけ浮かび上がるのを見た――いや、見た気がした。声は無言だった。ただ王の心もとない歩みをじっと観察するように、また先へ促すように、形を変え、姿を消し、また再び現れ消えた。

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