第5話 波間の救済
波間。既に日は沈み、頼りない月明かりが白波の輪郭を浮かび上がらせては消していく。何処が陸地かもわからぬ海の中、ただ月夜と海、その狭間に引き裂かれたように、アルセリアの冷え切った体は波間に漂っていた。
凍てつく風が肌を刺し、濡れた衣が重く圧し掛かる。手はかじかみ、掴むべき破材すら、今にも指から滑り落ちようとしていた。
「こ、これまで…か……」
震える唇から微かに漏れ出た呟き。波の音がその声を呑み込み、ただ冷たい塩水だけが応える。(父上、て、天上の庭とやらで、もうじきお会いできますぞ……)と父を想うと共に目尻に涙が滲む。
薄れゆく意識の中、彼の唇には微笑が浮かんだが、それはどこか儚げであった。
だが、その時、不意に心を突く記憶が蘇る。父ナクシエリオスが病に伏し、王位を退いた時のこと。戴冠式の席で、父は衰弱した体を押して現れ、肩に手を置きこう告げた。
「新たなる王、アルセリアよ。この国を汝に託す。知っての通り、我が国の主要産業は漁業と海運業である。これらの発展を引き続き推進することは当然の務めであるが、願わくば、我が父より託され、未だ道半ばである山間部の開発を進めてほしい。さらに、我が国が真の豊かさを享受し、文化と芸術においても諸国の敬意を受ける国となることを望む。そして何より、我が国の宝たる民を、どうか頼んだぞ。」
青白い顔で放たれたその言葉。頼りないはずの父の手が、あの日の若き王には石のように重く感じられた。
だが、恐らく、今度の敗戦で、漁業域や海運航路等は衰えを避けられぬだろう。山間部の開発も、戦艦や新兵器開発に国費の投下が行われ、ほぼ父の代と変わらず手付かずである。というより、山間部の事など最近は殆ど意識の外と言ってもいいほどに、軍拡に一辺倒だったとも言える。今にして思えば、あの熱狂が何処から来たのか自分でもわからなかった。更に諸国から敬意を受けるどころか、ベルディアの急速な軍事化は、周辺国の警戒を招き、通常行われていた文化交流さえ途絶えていた…
(……ああ父上、なんということでしょう。貴方の愚息は、その誓いをどれもこれも違えてしまいました……天の庭でどの様な顔をお会いしたらいいのでしょうか?)涙が頬を流れ、心の奥底で、どこか遠くなる意識が再び沈み始めた。
その時、大きな波が押し寄せ、アルセリアの体は破材ごと飲み込まれた。渦巻く海水が彼を容赦なく翻弄し、破材をもぎ取り、虚空を掴むばかりの手は、ついに力を失いかけた。
水中に引きずり込まれ、薄れていく意識の中で、王の頭に一つの古い記憶が浮かぶ。
それは幼き日の出来事。幼い王子であった彼は、城の庭にある池のほとりで遊んでいた時、誤って足を滑らせ深みに落ちた。
泳げぬ体は水底へと沈み、彼は水の冷たさと孤独に怯えた。
しかしその時、彼を救い出したのは大きな手――その主は、若き日のフィデリオスであった。
「殿下、次は泳ぎを覚えませんとな」
濡れた髪を撫でるその笑顔。彼の言葉に励まされながらも、アルセリアは結局その後も泳ぎを覚えることはなかった。
「……すまぬ、じい……泳げぬのだ……」薄れゆく意識の中、動かぬ体が深みへと沈みかけたその時、不意に体が引き上げられた。
「ゴボッ!」
アルセリアの顔が水面に浮上し、冷たい月光が瞼に飛び込む。
肺から塩水を吐き出し、肺いっぱいに空気を吸い込む。その冷たさは胸を刺すようであったが、何よりも甘美に思えた。
(……私は……まだ生きているのか……)朦朧とする意識の中、王は自分を救った何者かの姿を求めた。
月光の下、その輪郭は朧気であったが、それが兵士であることは確かであった。アルセリアと同じく肌着のみを着た、痩せた黒髪の若い兵士。頭に怪我を負っているのか黒々とした血が滴り流れる顔の表情が闇に溶けてよく見えない。
兵士は肩掛けのロープを解き、アルセリアを破材に結び付け始めた。
その動きには無駄がなく、確実であったが、彼の体力は限界に達していたのだろう。ロープを結び終えると、途端に兵士の体は波に翻弄され始め、アルセリアから少しずつ遠ざかり始めた。
「ま、待て……行くな!」
王は手を伸ばし、彼を掴もうとしたが、凍えた手は思うように動かない。
その時、何と兵士はアルセリアに笑かけた。朧げな輪郭ではあったが、彼は確かに笑ったのだ。この過酷な瞬間に…そして唇を動かした。その言葉は、波音にかき消され、ただ唇の形だけが残る。
「イケ……行け……か?」兵士の唇が再び動いた。
今度はゆっくりと、大きく。
「イキテ……」と王の耳に届いたその言葉の意味を理解するかしないかの内に、兵士の姿は静かに波間に沈んでいった。月光に照らされ、彼の影が海の中へ消えていく。
「待て!頑張れ!……あきらめるな!」
アルセリアは声を張り上げたが、もはやそれに応える者はもうだれもいなかった。アルセリアは身を預けた、破材を力なく叩く。
「礼も言えず、名も聞けぬとは……」
ぼんやりと、父王やフィデリオスの言葉が頭を過る。(民や兵を大切にせよ……か。一人になって心細くなり、漸く、そこに思い至る、我が身可愛さのなんたる汚らわしさよ……)王は皮肉な笑み浮かべようとしたが、凍えた顔ではうまくいかなかった。あの兵士の笑顔が忘れられぬ。
(それにしても、あの声、あの笑顔……)
やがて波音の中で意識を手放した。