第4話 宮廷の宴 2 老将フィデリオスの諫言
特使ローネが去った後も、アルセリアは表向き歓談に興じながら、心の中で何かに囚われていた。
(美で武に打ち勝つだと?そんな事が本当に可能なのか?……いや、あの服の見事さは確かに言語に絶していた。どのような技術を用いれば、あのような虹色の複雑な輝きを放てるのか……もっと詳しく尋ねておけばよかったものを。だが、あの目つきの悪い平民の娘め、小賢しい物言いに当てられて、つい感情的に応じてしまった。皆も私の態度を大人げないと思ったかもしれぬ……。)
グラスを手にしたまま、王はふと目を伏せた。
(民主制だと……。よくも王である私の面前で、あれほど臆面もなく語ったものだ。だが、あの堂々たる態度……いや、半面、うらやましくもあるのだ。王権など、私には荷が重すぎる。これまで何度、有望な誰かに代わって欲しいと願ったことか……。)
王は小さく息をつき、そっと目をエステリス王妃の方に向けた。彼女がローネと交わした柔らかな笑顔が脳裏を過る。
(……エステリスめ。私を差し置いて、あの娘とあんなに楽しげに語らうとは。面白くないな……だが、最近、彼女がぼんやりと元気がないのも気にかかっていた。医師は気鬱だと言うが、あのような笑顔を久方ぶりに見られたのは救いだ。それだけでも、あの娘の無礼さを許す価値があったというものか……ん、待てよ……あの者、最後に『政治と美が響き合った』とか言うていなかったか?まさか、あれは、私に対する当て擦りではあるまいな!?……)
王は自嘲気味に肩をすくめた。
(はあ……私は、何を詰まらぬことに囚われているのか。数日後には、我が国の今後を左右する大戦が待ち受けているというのに……。)
その時、大広間にざわめきが立ち、それが次第に近づき、何事かと眉を寄せるアルセリアの前で、臣下たちの垣を割り、よろめきながら片膝をつく一人の男が現れた。
それは、かつてアルセリア王の幼少期を文武にわたり厳しく指導した老将フィデリオスだった。フィデリオスは、戦神の生まれ変わりではないかと言う程に、並外れた体力と武勇を持ち、若い頃は戦場では負傷兵2人を担いで砲弾の中を走り抜けたり、たった1人で百人の敵兵を押し戻したり、また後年は巧みな用兵術を駆使し、ベルディアの危機を幾度も救った英雄であった。十余年前に体を病んで隠居し、都の外れで静かに暮らしているはずの彼が、この場に現れるとは誰も予想だにしなかった。
「若、お久しゅうございます。」 低く響く声に、玉座に座るアルセリア王は眉をひそめた。
「じい、再三、若はやめよと言ったであろう。」
「左様でございましたかな?」
「まだ呆けるには早かろう。して、老体を押しての登城、如何した?さては勝利の前祝いか?」
老将の突然の登場に、臣下たちはざわめいた。
「老閣下、これはめでたき宴ですぞ。時代遅れの鎧姿で現れるとは無粋が過ぎまするな。」
「いや、きっと自領で取れたかぼちゃを献上に来られたのでは?」
「それとも、遂に呆けなされて退役したことを忘れたのでは?」
実はフィデリオスは兵たちから絶大な支持を得ていたが、その一方で家臣団、特に現宰相の派閥とは折り合いが悪かった。というのも、彼は機会あるごとに彼らの権力濫用や汚職、賄賂を厳しく追及し、弾劾してきたからである。
フィデリオスが王宮を去ることになったのも、その姿勢が原因だった。彼は保管期限が迫る備蓄の糧食を窮民に分け与えたが、これを宰相派は横領として告発したのだった。それは巧妙な報復であり、当時アルセリアはまだ王子の身で、王も病に倒れ体調が優れなかったため、老獪な大臣や官僚たちに抗う術はなかった。結局、病気を理由にフィデリオスの名誉ある引退として幕を引くのが精一杯であった。
また、アルセリア自身も、フィデリオスの口うるささに日頃から辟易していたため、彼の退場を寂しく思う一方で、ほっとしたのも事実だった。
その頑固一徹なフィデリオスが、老齢とは思えぬ気迫を漲らせ、周囲の嘲笑など意にも介さず、鋭い猛禽のごとき眼差しを王に向けた。その視線には、老いてなお失われることのない威圧感が宿っていた。
彼は一歩前に進み、深く息をつくと、揺るぎない声で言った。
「若……恐れながら、先王は泣いておられますぞ。」
その言葉に、大広間の空気が一瞬にして凍りついた。
アルセリア王は驚いて立ち上がり、壁際に掛けられた父ナクシエリオスの肖像画を振り返る。その温かな微笑みを湛えた肖像画を見つめ、鋭い声で問うた。
「じい!それは如何なる故だ!父上が泣いているとは何を根拠に申すのだ!」
フィデリオスの目には苦悶の色が浮かんでいたが、彼の声には諦めと覚悟が込められていた。
「先王様は、遠き天上にて、ここ数年の若き陛下の戦の数々を苦々しく思われ、血の道が築かれる様を見て、涙を流しておられることでしょう。度重なる出兵により、民は困窮し、糧食は兵糧に回され、物価は高騰。父や夫は戦場へ駆り出され、家に残された老人と女子供は、薄い着物に身を包み、寒さに震えながら、わずかな粥で日々を凌いでおります。その怨嗟の声は、すでに天にも届いておりましょう。」
フィデリオスは一拍置き、静かに続けた。
「陛下、綺羅綺羅しい宮中におられては、この現実を実感するのは難しゅうございましょう。ですが、市井に暮らす私には、民の窮状が手に取るように見えております。どうか、どうかお聞き届けくださいませ。出兵を控え、民に安らぎをお与えくださいませ。それとも、民の悲痛な声よりも、陛下ご自身が身に浴びる称賛の声をお望みなのでございましょうか?」
その言葉に、アルセリアの顔が紅潮し、喉の奥から低い唸り声が漏れる。握った拳が震え、今にも立ち上がって怒号を発しそうな気配だった。
その時、傍らに立つ王妃が静かに彼の袖を掴んだ。
「陛下、どうかお心をお平らに……」
柔らかな声の中に宿る強い意思に、アルセリアは一瞬言葉を失った。王妃の瞳は彼をじっと射抜いている。そこには、老将フィデリオスへの深い信頼と、王への静かな懇願が込められていた。彼女の指先はわずかに震えているが、その視線には迷いがなかった。
「フィデリオスは、陛下の為を思って……」
彼女の言葉は続かなかったが、その眼差しがすべてを物語っていた。アルセリアは歯を食いしばりながらも、その手の温もりと視線に引き戻されるように息を吐いた。
「まったく……じい、いつもその方の話は痛い所を突きよる。」
王はわずかに苦笑を浮かべるが、声には抑えきれぬ苛立ちが滲んでいる。
「どうせ、耳に痛い話は、まだあるのであろう?はよう言え。」
フィデリオスは一歩前に進み、声を震わせず、迷うことなく答えた。
「では、言いまする。できれば、これは我が死と共に墓に埋めるつもりでございましたが、窮民の為にあえて口にいたしましょう。陛下も恐らくご自身で分かっておられると思われますが、恐れながら陛下には軍を率いるに値する将才がございません。民の為にも今日限りにおいて采配を置かれ、外交と内治に、そして陛下の得意とする芸術文化に力を尽くされますようお願い致します。」
「な、な、な、なんだと、その方……」
フィデリオスの言葉に、大広間の空気が凍りついた。視線が一斉にアルセリア王へ注がれ、その場にいた者たちは余りの放言に耳を疑い、思わず息を飲む。大広間を満たす静寂の中で、誰もが何かを言い出すことを躊躇し、数百の目がアルセリアを捉えていた。
アルセリアの目は揺らぎ、杯を持つ手が微かに震えた。
「……ぬう…その方…私のここ最近の戦果を…し、知らぬの…か?…」
しかし、その問いは弱々しく、まるで風に消え入りそうな声だった。
フィデリオスは、王の動揺を目の当たりにし、一瞬だけ視線を落とした。その顔には、済まなさと深い後悔が刻まれていた。
「もちろん存じております。はっきり申しましょう。陛下もご自覚がおありになられるでしょうが、あれらはすべて偶々でございます。ただただ運が良かった。陛下の下された号令が偶々、運に乗じたにすぎませぬ。陛下には戦運がおありになるかもしれんせぬが、それはいつまでも続く物ではございません。それは長らく陛下の教育係を務めさせて頂いたこのじいが一番よく知っておりまする。その事をもっともっと早くに、申すべきでしたが、この私の勇気の無さと、周囲の追従が陛下の本来の姿を歪めてしまったのです。これは私共の不徳であり、先王様に顔向けできぬ不忠でありました。ですが、もはや、ベルディアの事を想えば、はっきり申し上げねばなりますまい。陛下には武の道はお合いになりませぬ。どうか、この愚か者の遺言と思い、天下万民の為にも己が正道を進まれますよう、願わくばご英断を下されますよう。」
その言葉は鋭利な刃のごとく、王の胸を深く貫いた。アルセリアは拳を握りしめ、頭が熱を持つように火照るのを感じた。怒りと羞恥が混ざり合い、彼の心を荒れ狂わせた。しかし、その怒りの底には、かすかに湧き上がる安堵があった。
そうだ、今までまるで、長く重ねられた仮面が、今ようやく剥がれたかのような感覚だった。
アルセリアは確かに、幼い頃からフィリオデスによる軍略の講義を受けてはいた。しかし、実のところ戦術や戦略にはさほど興味がなく、むしろ芸術や音楽に心惹かれていた。フィリオデスの話も、耳を傾けるそばから半分は聞き流していたし、どうせ戦争など自ら赴く必要もないだろうと高を括っていた。
やがてフィリオデスが弾劾を受け隠遁すると、後任の軍略教師はおべっか使いの男だった。彼はただひたすらアルセリアの機嫌を取ることに終始し、軍略の学びはほとんど形骸化してしまった。
そうこうするうちに、先王が病に倒れ、アルセリアが王位を継ぐこととなる。ちょうどその頃、隣国との境界線をめぐる小競り合いが勃発した。アルセリアは仕方なく度々、作戦会議に顔を出し、参謀部が提示した作戦案に許可を出すだけの形式的な役割を果たしていた。
ところがある時、ふと王としての威厳を示そうと地図の適当な場所を指し、「ここが危険そうだが、大丈夫か?」と問いかけてみた。すると、参謀部の面々は突然顔色を変え、「これはしたり、確かにここは我が軍の急所になるかもしれませぬ」と大慌てで対応に乗り出した。斥候を派遣して調査を行ったところ、伏兵が潜んでいることが発覚し、それを排除することで戦況を有利に進めることができた。
この一件が広まると、「陛下はああ見えて用兵の才をお持ちだ」と国中が沸き立った。さらに、そのような偶然が何度か続き、ついには「軍神アルセリア」と称されるようにすらなった。そして、いつの間にかアルセリア自身も、「もしかすると自分は天才なのかもしれない」と思い始めていたのだ。
彼は息を詰め、熱を持つ顔を覆うように手を当て、かすれた声で小さく呟いた。
「ここに来て、今更それを言うのか……?」
しかし大臣と軍人たちは、まるで張り詰めた静寂を裂くように声を上げた。
「老!軍神アルセリア陛下に何たる暴言。引退した老閣下は知らぬでしょうが、陛下の偉業を我らは間近で見ましたぞ!!」とこれは軍参謀。
「なんたる、なんたる言い草か、古今未曽有の、言語道断なる不敬!」
「国威を損なう行為、これは由々しき反逆に他なりませぬ!」
その騒ぎに、フィデリオスはゆっくりと振り返り、大臣たちを一瞥した。その目には、鋭い光と同時に深い嘲りが宿っていた。そして、静かだが全てを圧倒する声で言い放った。
「黙れ!お主らも薄々感づいておったであろう、地位に恋々として私財を蓄えるばかりで、諫言する勇気もない者供……、老いたるとはいえ、この黒鋼のフィデリオスが、その歪みを拳で叩き直してくれる!」
彼の声は鋼鉄の如く冷たく、大広間に響き渡った。大臣たちはその威圧に怯み、思わず数歩後退った。誰一人として言い返すこともできず、怯えた目を交わし合うばかりであった。
その光景を見ていた王妃は、再びアルセリアに目を向けた。彼女の眼差しは深い憂いと、僅かな希望を宿していた。そして、柔らかな声で静かに言った。
「陛下、フィデリオスは口巧者ではございませんが、誠実者でございます。そして、その誠の言葉に嘘偽りはございません。どうか、この言葉を心に留めてくださいますよう……」
その言葉に、アルセリア王は深く息を吐き、杯を持つ手を強く握り直した。その目には動揺の影が残りつつも、決意が宿り始めていた。
「じい……よくもまあ言いたい放題を言ってくれたものだな。確かに、偶々と言われればそうかも知れぬが、私は思いつきで言うた訳ではない。て、天啓とでも言うのか?何かが私にささやくのだ。それこそ、それは軍神からの宣託なのかも知れぬ。ただその方の言うことも、一理あるであろう。国の行く末を運に委ねてはならぬからの。であるから。私も万全の策を引いたのだ。此度の戦はこれまでとは違う。これは十年、百年後の、この王国の繁栄の礎を築くための戦である。私達は敵の情報をこれ以上ないほどに集め、新たな才を持つ参謀たちと数え切れぬほど協議を重ね、万全の勝利の絵図を描き上げた。これこそが、勝利へ至る確かな道である。その方に教えられた用兵を駆使し、私は必ずや勝利を掴んでみせよう。信じてくれ。」
その言葉を受け、宰相が一歩進み出て、フィデリオスに向き直り、丁寧な口調で言った。
「恐れながら老閣下、今の時代、戦の在り方も様変わりいたしました。此度の戦では、帝国に留学した新進の軍略家たちの知見を取り入れておりますれば、ひとり陛下のみの軍略ではございません。」
すると、若き軍参謀が堂々たる体躯で前に進み出た。その胸には自信が漲り、力強い声で言葉を紡いだ。
「その通りにございます。偉大なる老フィデリオス閣下、その目で新たなる時代の軍略をとくとご覧いただきたく存じます。私たちは必ずや勝利を手にし、この王国の栄光を守り抜きます!」
彼は胸を張り、拳を高らかに突き上げて叫んだ。
「ベルディア王国万歳!」
その声に応えるように、兵たちが一斉に唱和する。
「ベルディア王国万歳!」の声が高らかに響き、大広間は熱狂と高揚感に包まれた。
その熱気の中、フィデリオスが再び声を上げる。
「陛下、もう無理はお止めなされ。じいはもう見ておれませぬ、どうかどうか、剣を置いて、かつて陛下が愛した美の道をお行き下さいませ。何卒……」
だが、その声は、兵たちの歓声と熱狂の中に掻き消されてしまった。誰も彼の言葉を聞き入れる者はおらず、若き軍参謀が誇らしげに微笑み、大広間の高揚をさらに煽る。
アルセリア王は、フィデリオスの顔に浮かぶ陰りを一瞥し、短い沈黙の後、穏やかに小さく頷き、安心せよとばかりにその胸を大きく叩いた。
その仕草には、王としての威厳を保ちながらも、わずかな不安と優しさが滲んでいた。
それを受け取ったフィデリオスは一瞬だけ視線を落とし、深く息をついた。
しかし、彼の肩が落ちるのはほんの僅かな時間であった。 すぐに彼は顔を上げ、目には悲しみと固い決意の入り混じった光を宿しながら、拳をゆっくりと固く握りしめた。その動きは、まるで今にも崩れそうな自身を支える柱を自らの内に築くようであった。
「……本当に、本当に、軍神の加護があるならどれほど良い事か……。いずかにおわす軍神よ我が声を何卒聞き届け賜え、どうか我が息子にも等しきこの王に、あなたの加護を授けたまえ。そして、もしその加護が届かぬのならば、この老いぼれが、このか細くなった命の糸を結い合わせてでもお助けする覚悟でございます……」
その静かな呟きは、激昂と熱狂に沸く大広間の中で、誰の耳にも届かなかった。
フィデリオスの祈りと願いは、ただ天井の彼方へと消え、彼の孤独な決意だけがその場に残された。