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第20話 エピローグ 神界のサイローネ

広がる雲海は黄金色に輝き、緑豊かな大地には無数の花々が咲き乱れている。心地よい風が肌を撫で、耳を満たす調べは、まるで世界そのものが奏でる祝祭の音楽のようだった。


しかし、その神界の地下には、楽園とは似つかわしくない、裏ぶれた牢獄が存在していた。冷気が漂い、氷柱でできた格子の向こうには、音すら凍りついたかのような、澱んだ空気が満ちている。


その氷獄の中央、一人の女が静かに座していた。

敷物もなく、ただ氷の床に膝を折り、目を瞑る姿——サイローネ。


あれから、人の世では五十年が過ぎていた。

主神の怒りを買った彼女は、この極寒の牢に繋がれ、外の世界との繋がりを断たれたまま、ただ、時の流れを受け入れるようにそこにあった。


——と、その時。


氷の牢の前に、訪れる影があった。


廊下をゆっくりと歩きながら、まるで見物するように辺りを見渡し、感心したり、くつくつと笑ったりしている。そして、やがて牢の前に立ち、無造作に声を掛けた。


「おーい、サイローネよ、起きておるか?」


牢獄には似つかわしくない、朗らかな声が響いた。


「お前の父が様子を見に来てやったぞ。その可愛い眼を開けて、父に笑顔を向けてくれぬか?」


場にそぐわぬ軽口を叩いたのは、この世界を創造した主神その人であった。


サイローネは、ゆっくりと目を開けた。その瞳は、相変わらず冷えきったままだった。


「これは、これはお父様。ご機嫌麗しゅうございます。ですが、残念ながらこの寒さでございます故、サイローネの笑顔も凍ってございまして、お見せできないのが残念にございます。」


ニコリともせずに、淡々とした口調で言う。


「ふふふ、凍えている割には、舌はよく動くことよ。」


主神は、愉快そうに笑い、軽く手を振った。


すると——瞬く間に氷獄の冷気は溶け、水となり、やがて霧となって消えた。


無骨な石壁は豪奢な造りの部屋へと変貌し、天井には黄金の装飾が施され、淡い光が満ちる。どこからともなく現れた椅子が、滑るようにサイローネの背を支え、彼女をそっと座らせる。


その視線の先には、突然現れた巨大な水がめが、一瞬にして形を成していた。


まるで、牢獄であったことすら夢であったかのように——。


「何か飲みたいものがあるか?」


巨体を椅子に預けながら、主神が穏やかに尋ねる。


「では、熱いコーヒーをお願いいたします。」


サイローネは、あくまで澄ました態度で答えた。


「あの豆の焦げ汁か、まったく……人間どもの習慣にかぶれよって。」


主神は大袈裟にため息をつきつつも、どこか楽しげだ。


「だが、まあ儂も久方ぶりに飲んでみるか。親子で喫茶というのも、たまには楽しかろうし?」


言葉に呼応するように、小ぶりなテーブルが現れ、湯気を立てた二杯のマグカップが置かれる。


二人はほぼ同時にカップを手に取り、口をつけた。


「……おいしい。」


「……まずい。」


相反する感想を述べた後、一瞬の沈黙を挟み、互いに微笑みを交わす。


「して、お父様、此度の御用は何でございましょうか?」


サイローネがカップを置き、穏やかな口調で切り出す。


「まだ、刑期の五百年は過ぎてはいないと存じますが?」


「御用とは、また冷たい言いようではないか?」


主神は肩をすくめ、わざと拗ねたように言う。


「愛しい娘に会うのに理由など無用であろう?」


「お父様にとっては、瞬きほどの時間ではありませぬか。」


サイローネはわずかに目を細める。


「それで、本当はいかがされましたか?」


主神は苦笑し、マグカップを弄びながら、ゆっくりと答える。


「男神共がうるさい。ことあるごとに、お前の恩赦や減刑を願ってくるのだ。」


「ほう。」


サイローネは特に驚くこともなく、興味なさげに相槌を打つ。


「お前は随分、あの者らに人気があるな。」


「ふーん、左様でございますか。」


彼女はコーヒーをひと口含み、淡々とした口調で続ける。


「なれど、それだけで、わざわざお父様が足を運ばれるとは思えませぬ。なんぞ、他に興が乗るようなことが出来いたしましたか?」


その問いに、主神は口の端をわずかに上げ、意味ありげな笑みを浮かべた——。


「ほぉ、さすがは我が娘である。その通りだ。」


主神は満足げに頷き、椅子の背もたれにどっしりと寄りかかった。


「その前に、お前が弄り回した何とかいう……ああ、エメテルだったか? 今おる国は何と言うたかの?」


「バルディア……改め、今はフィラメンシアとなっているはずでございます。」


サイローネは静かに答えた。


「そうそう、そのフィラメンシアだ。」


主神は大きな手をひらひらと振る。


「ちょっとこの水鏡に、どのようになっているか父に見せてはくれぬか?」


「……何を企んでおられるのですか、お父様?」


サイローネは目を細め、探るように父の顔を見た。


「まぁまぁ、そう警戒するでない。お前も気になっておろう?」


「……それは、まあ、そうでございますが……」


訝しみながらも、サイローネはゆっくりと身を乗り出し、水鏡の表層にそっと息吹を吹きかけた。


薄く波紋が広がり、やがて霧のような靄が渦巻く。そこに映し出されるのは、かつて彼女が手をかけた国の姿——フィラメンシアの今であった。


サイローネと主神は、水鏡の中に映る下界をじっと見つめていた。


あれから五十年。フィラメンシアと名付けられた国は、目覚ましい発展を遂げていた。


「お父様、ご覧ください。私の試みの成果を。」


サイローネの声には確かな自信が滲んでいた。

彼女が指差す水鏡の中には、調和に満ちた街並みが広がっている。

戦火とは無縁の静かな営み。

洗練された文化と、美しく整備された都市。

人々の顔には穏やかな笑みが浮かび、誰もが安寧の中に暮らしていた。


「男を減らしたことで、この国は文化が花開き、人々は真の幸福を享受していますわ。」


サイローネの言葉に、主神は静かに微笑み、ゆっくりとうなずいた。


「なるほどな。確かに見事な国だ。お前の試みが成功しているのは認めよう。」


「でしょう?」


サイローネは満足げに口元を緩めると、水鏡の縁にそっと指を滑らせる。


「いっそ、この理想を全世界に広げるべきですわ。男を減らし、争いのない世界を創るのです。」


主神は興味深げに彼女を見やり、しばし沈黙した後、静かに問いかけた。


「ふむ……男を減らせば、世界は平和になると?」


「はい。それはフィラメンシアで証明されました。」


サイローネの答えに迷いはなかった。

その瞳には確かな誇りが宿り、わずかな揺らぎすら見せなかった。

だが、主神はしばし考え込むと、肩をすくめるようにして呟いた。


「……つまらぬな。」


「何がつまらないというのですか?」


サイローネは眉をひそめ、不満げに主神を見つめる。


主神は穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと答えた。


「サイローネよ、私は美や愛を愛するのと同じくらい、人々が争う姿もまた愛しておるのだ。諍いは人間の創造と進化の糧であり、情熱の火種。争いなき世界など、ただの静止した泥沼に過ぎぬ。」


サイローネの胸に、その言葉が重くのしかかる。


「お父様……!あなたは何という方なの!」


彼女は悔しげに主神を睨んだが、主神はまるで頑是ない子を諭すかのように朗らかに笑った。


「まあ、良い。お前もまだ若い。世界の理を学ぶのはこれからだ。さあ、見よ。」


そう言って、主神は水鏡を指差した。


フィラメンシアの平穏な光景が映し出される中、周辺の国々の上空に、不穏な暗雲が広がりつつあった。黒雲は静かに、だが確実にその厚みを増し、やがて雷鳴の予兆が響き渡る。


「ほら、間もなく世界中を巻き込む大戦の火の粉が、お前の作り上げたフィラメンシアにも降り注ぐぞ。」


主神の声が静かに響く。


サイローネは息を呑み、水鏡に映る異変を凝視した。暗雲の下、ぼんやりと映し出される影があった。武装した兵士たち、見たこともない鋼鉄の兵器、人を乗せた鳥のような機械――。それは、押し寄せる避けがたい争乱の兆しだった。


「そんな……お母さまが……」


サイローネは震える声で呟き、主神を見上げる。


「お前は、少しやりすぎたのかもしれぬな。」


主神は、水鏡の中の光景を静かに見つめながら続ける。


「人間どもは、お前の国が閉ざされた中で繁栄し、民は豊かに幸せに暮らし、新たな思想や機械を生み、独自の貨幣論を持ち、それらをほとんど女たちの手でやり遂げたことに恐怖を抱いたのだ。彼らは、今まで築き上げてきた権力が揺らぎ、自らの支配が脅かされると感じた。だからこそ、お前の国を危険な存在と見なしたのだ。」


「……攻めてくるのですか? しかし、我が国には、男が生まれぬ疫病があると信じられております。」


サイローネはなおも抗おうとした。しかし、主神は哀れむように目を細め、首を横に振る。


「お前は、まだ甘いな。これは征服のための戦争ではない。殲滅のための戦争なのだ。」


「……!」


サイローネは言葉を失った。


「たしか、何といったかな? 彼らが使う鳥のような機械……むう、面倒だ。」


主神は考えるように腕を組み、やがて面倒そうに指をパチンと鳴らした。


突然、ひとりの老人が現れる。ウルルクである。


「ウルルクよ、忙しいところすまぬな。ちと聞きたいが、あの鳥のような機械は何と呼ぶのだったか?」


「主神さま、困ります。私にも色々とやるべきことがあるのです。」


ウルルクはそう言いながら、手元のウインナーをこっそりと隠した。


「すまぬ、すまぬ。で、何であったか? サイローネに教えてやってくれ。」


ウルルクはサイローネの方を向き、にこやかに頷いた。


「これはサイローネ様。お達者そうで何より。」


「挨拶はよい、早う教えてたもれ。」


「はい、あれは『飛行機』というものです。空を飛ぶ機械でして、これを用いることで、疫病の感染を恐れることなく攻撃が可能となるのです。」


ウルルクは慎重に言葉を選びながら続けた。


「フィラメンシアは、飛行機を使った爆撃や毒ガス攻撃を受ける可能性があります。これが行われれば、国土全体に甚大な被害が及ぶことでしょう。」


「ぬう、そんなものを……これだから男は!」


サイローネは鬼の形相でウルルクを睨みつける。


「いえ、私は何もしておりませんよ……。人間どもの悪辣さは、よくご存じでしょう?」


ウルルクはたじたじと身を引きながら弁明した。


主神は、そんな二人のやり取りを興味深げに見守りながら、ふと問いかけた。


「お前の母は、今いくつになる?」


フィラメンシアの未来

サイローネはぐっと唇を引き結び、しばし沈黙した後、低い声で答えた。


「齢九十になっているはずです……。」


主神はゆっくりと頷く。


「あと十年。お前の理想の国が、これから訪れる野蛮にどう立ち向かい、彼女を守るのか。じっくりと見せてもらおうではないか。」


サイローネは深く息を吸い、ゆっくりと目を閉じた。そして再び目を開いた時、その瞳には不敵な光が宿っていた。唇の端に浮かんだ微笑は、まるで挑戦を受け入れる者のものだった。


「いいでしょう、お父様。」


彼女は静かに言った。


「私が築き上げた国と、その文化や服が、そして気高き人々が、いかにしてその野蛮に打ち勝つのか。どうか、よくご覧になってください。そして、あなたに学びを与えて差し上げます。」


主神は微笑を返し、二人の視線は再び水鏡に注がれた。


水鏡の中で、フィラメンシアの上空に迫る暗雲はゆっくりと形を変え、やがて新たな動乱の兆しを示し始める。雲の隙間から差し込む一筋の光が、フィラメンシアの大地に淡く降り注ぐ。それは、嵐の前触れでありながらも、サイローネの目には希望の象徴のように映った。


「私の試みが、真に試される時が来たのね……。」


サイローネは自らに言い聞かせるように呟き、父の隣で水鏡を見つめ続けた。

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